こんにちは!ブルガリアに1ヶ月半滞在した、世界半周中ののぶよ(@nobuyo5696)です。
(世界半周についてはこちらの記事へどうぞ。)
いきなりですが、ブルガリアを旅していてひしひしと感じたことがあります。
「ブルガリア人、超絶自分の国に誇りを持ってる…!」と。
もちろん、どこの国へ行こうとも、自分の国を誇りに思わない人は少数派でしょう。
しかしながら、ブルガリア人のブルガリア愛は私たちが思うよりかなり大きなものです。
独特の文化や食べ物の美味しさ、山あり海ありの大自然など、ブルガリア人が自慢する点はたくさん。
中でも彼らが最も誇らしく思っているのが、長く豊かなブルガリアの歴史です。
紀元前から始まるブルガリアの歴史はとても古く、中世にはブルガリア帝国として、ビザンツ帝国からの独立を達成したことも周辺諸国とは異なる点。
近世に入ると二度の世界大戦や共産主義時代などを経験することとなり、その歴史はまさに激動の連続でした。
豊かな歴史を証明するような見どころが国中に溢れるブルガリア。
旅行の際はあらかじめ歴史を知っておいた方が、より楽しむことができるのは間違いありません。
というわけで、今回の記事ではブルガリアの歴史を大きく7つのポイントに分けて解説していきます。
それぞれの時代に関連したブルガリア国内の観光スポットも紹介しているので、気になった場所はチェックしてみてくださいね!
ブルガリアの歴史を旅するキーワード1:古代トラキア~ローマ帝国支配時代(紀元前5000年~681年)
ブルガリアの歴史は、かつてこの地に移住してきたトラキア人(Thrachian)によって始まります。
その歴史は、なんと紀元前5000年(7000年前)にまで遡るそうで、彼らが製造した硬貨や青銅器などが発掘されています。
この気が遠くなるほど古い歴史が、ブルガリア人が誇るポイントの一つ目。
何といってもあのエジプトよりも古い歴史を持つのですから。
しかしながら、古代トラキア人はスラブ系である現在のブルガリア人とは全くの無関係であることも忘れてはいけません。
文献が限られており、謎に包まれたままのトラキア人ですが、ブルガリア中部のカザンラクには、彼らが築き上げたトラキア人の墳墓(紀元前3000年頃のもの)が残っており、世界遺産に登録されています。
個人ではまわりにくいカザンラクとバラの谷周辺。効率よく観光スポットをまわるなら、現地ツアーも選択肢の一つです。
・世界遺産トラキア人の墓を訪ねる カザンラク日帰りツアー<車+ガイド貸切/日本語/ソフィア発>
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現在のブルガリア南部(トラキア地方)、ギリシャ東部、トルコのヨーロッパ側に渡って居住していたトラキア人。
時代は下って紀元前3世紀(2300年前)になると、お隣のマケドニア王国のアレキサンダー大王によって征服され、ギリシャ化が進みます。
しかしマケドニア王国の栄光は長くは続かず、紀元前1世紀(2000年前)には強大な力を持っていたローマ帝国の支配化となります。
その後ローマ帝国が東西分裂し、東ローマ帝国(のちのビザンツ帝国)の支配下におかれたブルガリア。
東ローマ帝国の文化の中心となっていたコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)に近いという地の利もあり、ヨーロッパでも最も早いうちから発展していた地域の一つとして、繁栄を極めます。
この時代に関連する観光スポット
ブルガリアの黒海沿岸で最も古い町として知られるのが、ソゾポル(Sozopol)。
紀元前7世紀頃(2800年前)にはトラキア人が居住していたことで知られ、海上の要衝として発展しました。
古代遺跡が点在する旧市街は、現在では定番の観光地&ビーチリゾートとして賑わいます。
ソゾポルに次いで古い歴史を持つ黒海沿いの町・ネセバル(Nesebar)は、ギリシャの植民地として紀元前5世紀(2600年前)に発展した町。
世界遺産に指定されている旧市街には多くの古代遺跡が残り、後の時代に作られた独特の建築様式の家々が建ち並びます。
ブルガリア第二の都市であるプロブディフ(Plovdiv)には、紀元前4000年(6000年前)頃にトラキア人が居住していたことが確認されています。
その後、古代ギリシャ支配時代には「フィリッポポリス」と呼ばれ、ギリシャ風の劇場や神殿などが建設されました。
この地域の支配権がローマ帝国に移ると、ローマ風の円形劇場などが造られ「トリモンティウム(三つの丘の町)」と呼ばれるようになります。
現在では「七つの丘の町」と称されるプロブディフ。
丘から見下ろす町のパノラマは必見ですが、町中に点在する古代遺跡やレトロなオールドタウン、スタイリッシュな新市街と多くの見どころがある町です。
ブルガリアの歴史を旅するキーワード2:第一次ブルガリア帝国(681年~1014年)
長く続いた東ローマ帝国による支配ですが、当時ヨーロッパ全体で起こっていた民族移動の波に乗って、6世紀ごろにスラブ人がブルガリアまで南下してきます。
ここに後からやってきたのが、現在のブルガリア人の祖先と言われるブルガール人。
中央アジアからはるばるやってきた騎馬民族であったブルガール人はアジア系民族。
すでに定住していたスラブ人と同化して、681年には第一次ブルガリア帝国としてこの地を支配するに至りました。
当時のブルガリア(現在の北マケドニアを含む)地域では、スラブ文化が花開きます。
ブルガリア帝国皇帝のボリス一世による庇護のもと、聖クリメントや聖ナウムが生み出したのが、スラブ系言語の国で多く使用されているキリル文字でした。
↑現在の北マケドニア、オフリド周辺にある、聖ナウムを祀った聖ナウム修道院
「キリル文字=ロシア語」のイメージが強いですが、実際にキリル文字が発明されたのはブルガリアなんです。
これが、ブルガリア人が自国を誇りに思う点の二つ目だと言えるでしょう。
この時代に関連する観光スポット
10世紀建造のリラ修道院は、世界遺産にも指定されているブルガリア正教の総本山。
第一次ブルガリア帝国時代に、皇帝の庇護の下、イヴァン・リルスキによって設立されたものです。
現在でも現役の聖地として多くの巡礼者が訪れるリラ修道院。
1000年以上の長い歴史を感じながら訪問したい場所です。
黒海沿岸のヴァルナ(Varna)は、現在でこそ「ブルガリアの夏の首都」と呼ばれる一大リゾート都市へと成長したものの、もともとは紀元前5000年に遡る歴史を持つ町です。
第一次ブルガリア帝国建国時には一時的に首都と定められ、当時のブルガリア文化の中心的な役割を担った都市でした。
ブルガリアを旅するなら、ブルガリア人が誇るキリル文字とブルガリア語を少しでも知っておいた方が良いでしょう。
ブルガリアの歴史を旅するキーワード3:第二次ブルガリア王国(1185年~1396年)
せっかく独立したのもつかの間。
1014年ブルガリアは再びビザンツ帝国によって征服され、200年近く支配下に置かれることとなってしまいます。
しかし、1185年にペタルとアセンという兄妹が起こした反乱がきっかけとなり、その長い支配も終焉を迎えることに。
彼らは自身をペタル4世、アセン1世として皇帝(ツァーリ)に即位し、ブルガリア中部のタルノヴォ(現在のヴェリコ・タルノヴォ)を首都と定め、第二次ブルガリア帝国を興します。
中世初期のブルガリア文化が花開いたのがこの時代。
首都となったヴェリコ・タルノヴォやその周辺地域には皇族たちの居住地や別荘が建てられ、キリスト教信仰の後押しによって、各地に教会や修道院が建設されます。
ブルガリア人が誇るポイントその3は、「ブルガリアでは他のバルカン半島の国々に比べてビザンツ帝国による支配が短かったため、独自の文化を育てることができた」という点。
確かに、ブルガリア各地に点在する第二次ブルガリア帝国時代の建物や教会を見学すると、その繊細な装飾や独特な建築様式に圧倒させられます。
この時代に関連する観光スポット
かつての首都、ヴェリコ・タルノヴォは、町を蛇行して流れるヤントラ川が形成する谷に造られた独特な地形を誇る町。
町の東側には当時の皇族やその関係者が居住していたツァレヴェツ要塞が建ち、現在でも町を見守るかのようにそびえたっています。
ブルガリア北部にあるイヴァノヴォ岩窟教会は、この時代のブルガリアにおけるキリスト教文化を現在に伝える存在。
その名の通り切り立った岩山の中の洞窟に造られた小さな教会内部には、700年前のフレスコ画が素晴らしい保存状態で残っています。
ブルガリアの歴史を旅するキーワード4:オスマン帝国支配時代(1396年~1878年)
自国の歴史をとにかく誇りに思うブルガリア人にとって、屈辱であり黒歴史のような存在であるのが、500年近くに渡って続いたオスマン帝国による支配時代。
ブルガリア人は、この時代を「支配」とは呼びません。「隷属(esclavage)」と呼びます。
(オフィシャルな観光案内所のパンフレットにもそう記載されているのだからすごい。)
スラブ民族の誇りであるキリル文字を発明したり、中世初期の華々しいキリスト教文化を謳歌した帝国が、急に南からやってきた訳の分からない異民族に支配されてしまい、しかもそれが500年近く続いたのです。
このプライドからか、当時のブルガリアではオスマン帝国支配に対する反感が凄まじく、他のバルカン半島の地域に比べてなかなかイスラム化が進まなかったのもそこに原因があるようです。
地理的にイスタンブールに近いブルガリア。
民衆の反オスマン感情に対抗するためか、オスマン帝国の支配の厳しさは他地域よりも抜きんでていたと言われています。
ブルガリアのイスラム化があまり進まなかった一番の原因は、当時ほとんどの住民が農村部に生活していたためだそう。
農村部では、オスマン帝国に中央政府よる支配がどうしても届きにくく、住民も自身の言語や伝統、文化を伝え続けることができたのです。
この伝統もあってか、現在でもブルガリア人は農村での伝統的な生活が大好き。
山の中の木造の家で、伝統衣装を纏ってラキア(蒸留酒)片手に自家製の郷土料理を家族で食べる。
そんな光景が、ブルガリア人が思い描く理想の生活として挙げられるのです。
ブルガリアでは、オスマン帝国支配に否定的な考えが根強かったのですが、イスタンブールとの地理的な近さもあり、なかなか表に出せない複雑な感情が人々の心の中で長い間燻っていました。
それが「建築様式」として表れたのが、民族復興様式と呼ばれるもの。
まだオスマン帝国支配下にあった19世紀初頭に、プロブディフを中心としたブルガリア中部~南部で広がった民族復興様式。
中世の伝統的な木造建築と、オスマン帝国支配時代を経て獲得した石造りの新しい様式がミックスしたものです。
大都市のものは後の共産主義時代に多くが建て替えられてしまったものの、ブルガリア中部~南部の地方都市や山村では現在でも民族復興様式の家々が連なる町並みが多く残っています。
この時代に関連する観光スポット
かつての首都、ヴェリコ・タルノヴォ近郊のアルバナシ(Arbanassi)村は、元々皇族の別荘地として開発された場所。
そのため商人が多く行き交う村となり、オスマン帝国時代には税制上の優遇措置を得た商人によってオスマン帝国風の石造りの邸宅が建てられます。
石塀が続く町の雰囲気はとても独特で、多くの建物が重要文化財に指定されているのもポイントです。
ブルガリア南西部、ピリン地方にあるメルニク(Melnik)は、オスマン帝国調の建築様式とこの地域伝統の建築様式が混ざった独特の家々が建ち並ぶ小さな村。
背後には「メルニクのピラミッド」と呼ばれる奇岩群が立ち並び、その風景をさらにユニークなものにしています。
名物のワインを片手に、静かな路地を歩いていると、まるで数百年前にタイムスリップしたような感覚になることでしょう。
ブルガリア第二の都市・プロブディフの南に位置するロドピ地方(Rodopi)は、オスマン帝国支配の影響が強かったエリア。
そのためイスラム教に改宗した住民も多く、独特の文化が形成されました。
中心都市のスモリャン(Smolyan)をはじめ、山あいの小さな村々には現在でもブルガリア人のイスラム教徒であるポマク(Pomak)と呼ばれる人々が多く居住しています。
ブルガリアの歴史を旅するキーワード5:独立~二つの世界大戦(1878年~1946年)
500年近く続いたオスマン帝国への「隷属」がようやく終焉を迎えたのが、19世紀後半に入ってからのこと。
モンテネグロ王国の独立問題など、バルカン半島で興った民族運動に端を発した、1878年のロシア帝国とオスマン帝国間の戦争(露土戦争)でのオスマン帝国の敗北は、ブルガリアを含むバルカン半島全域に独立という新しい風を吹き入れました。
ブルガリアではオスマン帝国から大幅な自治権を獲得することに成功し、その後オーストリア=ハンガリー帝国の後押しにより、1909年にブルガリア王国として完全独立を達成します。
独立後のブルガリアを待ち受けていたのは、ブルガリア人が全く誇れない時代。
戦争に参加しては敗戦の連続でした。
かつてのブルガリア帝国の栄光を取り戻そうと目論んだブルガリアは、マケドニアの領有権を巡って第一次・第二次バルカン戦争(1912年、1913年)に参戦したものの、結局敗戦。
マケドニアの領有権を得ることはできず、逆に周辺国に領土を割譲することとなってしまいます。
その後の第一次世界大戦においては、ドイツ、オーストリア、オスマン帝国と手を組み参戦するものの敗戦。
その教訓を活かすことなく、第二次世界大戦ではナチス・ドイツと組んで枢軸国側として参戦します。
そう、ブルガリアは第二次世界大戦の敗戦国なのです。
ブルガリアが第二次世界大戦の敗戦国として知られていないことの理由の一つに、終戦直前に起こったクーデターによって政変がおこり(1944年)、手のひらを返したようにドイツにすべり込みで宣戦布告したためです。
運が良いというか、狡猾というか(笑)
とにかく、ブルガリアは敗戦国としてお咎めを受けることはありませんでした。
この時代に関連する観光スポット
ドナウ川をはさんでルーマニアと国境を接する、ブルガリア北部の第五の都市・ルセ(Ruse)は、オスマン帝国支配終了後にブルガリア経済・文化の中心地として栄えた町。
オーストリア=ハンガリー帝国のおかげで独立できたという、かつての大帝国との強い結びつきを象徴するようなバロック調の美しい町並みが広がるルセ旧市街は、「リトル・ウイーン」と称されるほどです。
ブルガシアで最も早く近代化されたルセでは、「ブルガリア初の〇〇」がたくさんあります。
ブルガリアで初めての劇場、郵便局、鉄道駅、薬局…。
これらをとても誇りに思っているルセの人々の気質も含めて、ブルガリア国内でも独特の雰囲気を持つ町です。
ブルガリア中部のトリャヴナ(Tryavna)は、19世紀のオスマン帝国支配時代後期に、ブルガリア人の民族意識の高まりによって生まれた民族復興様式の家々が連なる町。
伝統的な建築様式と19世紀の様式がミックスした独特の町並みは、とてもレトロでノスタルジック。
小さな町ですが、ただ散策しているだけでなんだか懐かしい気分になれます。
ブルガリアの歴史を旅するキーワード6:共産主義(1946年~1989年)
第二次世界大戦後にブルガリアを待ち受けていたのは、周辺の東欧・バルカン諸国同様、共産主義の波の襲来でした。
王政の廃止に伴って共産党一党独裁のブルガリア人民共和国が成立。
ゲオルギ・ディミトロフが初代首相に就任します。
その後は「ソ連の16番目の共和国」と呼ばれるほどに親ソ連路線を貫いたブルガリア。
伝統的な農村文化はソ連式の社会主義システムによって破壊され、都市部には無機質で巨大な建物や集合住宅が多く建設されます。
日本人にとってはマイナスなイメージが強い社会主義、共産主義。
しかしブルガリアの場合は悪いことばかりではありませんでした。
元々農業国であったブルガリアでは、「ヨーロッパの最貧国」と言われるほどに経済発展が遅れており、ほとんどのブルガリア人は国外へ出稼ぎに行かなければ家族が生計が建てられないほどでした。
それを根本的に変えたのが、急激に導入された共産主義。
国民全員がある程度平等となり、仕事が与えられ、最低限の生活が保障されたのです。
しかしながら、現在のブルガリアでは共産主義によって人々が怠惰になってしまったという意見が多数派。
効率的とは言えない社会システムや交通システム、果ては商店での買い物の際でさえ、共産主義時代の名残を感じることができるでしょう。
そんな共産主義が終焉を迎えたのが1989年のこと。
他の東欧諸国の民主化に影響され、ブルガリアでも共産党は失脚することとなります。
「血で血を洗う」と言われるほど壮絶だった、お隣のルーマニア革命とは対照的に、ブルガリアの民主化は平和裏に達成されたこともポイントです。
この時代に関連する観光スポット
現在のブルガリアの首都・ソフィアは、古代ローマ時代から続く豊かな歴史を持つ町。
しかしながら、共産主義時代には数多くの巨大な建造物や広々とした道路、無機質な建物の数々が整備され、町の雰囲気は一変することとなります。
周辺の国々よりも共産主義時代が短めだったブルガリア。
その影響もあってか、共産主義の暗い雰囲気よりも、ヨーロッパの首都としての開放的でエネルギーに満ちた雰囲気の方が、現在のソフィアでは強く感じられます。
これからどう発展していくかとても楽しみな首都ソフィアは、大都市ながらどこかのんびりしていて居心地も良いおすすめの町です。
ブルガリアの歴史を旅するキーワード7:現代(1989年~)
民主化後のブルガリアは、かつての親ソ連路線からは一転、西側諸国へと接近します。
2004年にはNATOに加盟、2007年にはルーマニアと共にEUへの加盟を果たします。
しかしながら、あまりにも大きな西側諸国との経済格差や、南からやってくる移民問題など、ブルガリアが直面する問題は決して少なくありません。
EU加盟後の人口流出も深刻で、EU加盟後に数百万人単位でブルガリア国内から人口流出が起こっていると言われています。
地理的に西ヨーロッパから遠いブルガリア。
「東欧」という偏ったイメージもあってか、長らく観光国として日の目を浴びることはありませんでした。
しかしながら、豊かな大自然と歴史、それらに育まれた独自の文化など、近年では多くの観光客がブルガリアに注目し始めています。
格安航空会社の路線網もここ数年でどんどん増えてきており、イスタンブール~ウイーンを結ぶ幹線道路も通っているブルガリア。
古くから交通の要衝として発展してきた歴史は、再び繰り返されそうとしています。
ブルガリアの観光業はまだまだ途上段階。
これからさらに注目を浴びるようになって、どのように変化していくのかとても楽しみですね。
この時代に関連する観光スポット
国土の中央に中央バルカン山脈、西にピリン山脈が走るブルガリア。
東には黒海があり、北にはドナウ川と、大自然の宝庫としても注目されつつあります。
リラの七つの湖は、そんなブルガリアの大自然の美しさを象徴するような場所。
まるで別の惑星に来てしまったかのような風景の中に点在する天空の湖は、ブルガリア観光のハイライトと言えるでしょう。
ブルガリアの観光業界が近年注目しているのが、ヘルス&ビューティーツーリズム。
すでにヨーグルトやローズオイルなどが有名なブルガリアですが、近年では国中に湧く温泉を観光に活かそうという動きが生まれています。
ブルガリアでは、温泉=飲用という考えが強いのですが、入浴もできるスパ施設や公衆浴場などの整備も徐々にされており、私たち観光客もブルガリアの温泉の魅力を味わうことが可能になって来ています。
ブルガリア南西部のサンダンスキは、その温暖な気候と山の美味しい空気が評価され、ローマ時代から温泉保養地として栄えた場所。
スパ施設付きの大型ホテルに滞在することも可能ですが、公衆浴場風の温泉施設で格安で温泉に浸かることもできます。
おわりに
ブルガリアを旅行する際に知っておきたい歴史を、7つのポイントに分けて解説してきました。
ブルガリア人はとにかく国内旅行が大好き。
私たち外国人でも、旅行先でブルガリア人と知り合う機会が多くあります。
その際に少しでもブルガリアの歴史を理解していたり、かつての偉人の名前を知っていると、驚かれると同時にとても喜んでもらえます。
そこから「どれだけブルガリアの歴史が素晴らしいか」という話に繋がっていくのは間違いありません(笑)
ただ観光地を点から点へとまわるだけではなく、歴史的背景を知っていることで、より深くその場所の魅力を満喫することができるのは言うまでもなし。
誇り高き東欧の美しい国・ブルガリアをもっと知って、実際に訪れる際にはその豊かな歴史に育まれた文化を感じてみてはいかがでしょうか。
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とにかく情報量が半端じゃありません。人と違う場所へ行ってみたい人は是非!
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