【ウクライナ】チェルノブイリから4km。人が消えた街・プリピャチに見る原発事故の恐ろしさ。

【ウクライナ】チェルノブイリから4km。人が消えた街・プリピャチに見る原発事故の恐ろしさ。

こんにちは!ウクライナの首都、キエフの街の魔法にかかり、のんびり滞在している世界半周中ののぶよです。
(世界半周についてはこちらの記事へどうぞ。)

史上最大の原発事故であるチェルノブイリ原子力発電所事故。
キエフから出ている日帰りツアーに参加したのですが、その中でも最も印象的だったのがプリピャチという町でした。

チェルノブイリ原発で働く人たちとその家族が多く居住していたプリピャチの街は、事故を起こしたチェルノブイリ原発4号機からたった4kmのところに位置しています。
事故後は強制退去命令が布かれ、人が住めない町となってしまいました。

最悪の原発事故から30年余り。
当時原発マネーで繁栄を極めた裕福な町を待ち受けていたのは、廃墟が立ち並ぶゴーストタウンという末路でした。

ソ連崩壊後も人の手が加わることなく放置されたプリピャチ。
そこは、ソ連当時の建物がそのまま残る異様な光景と、それを再び自らの手に還そうとする自然の力、そして原発事故の恐ろしさを肌で感じられる貴重な場所でした。

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かつてのプリピャチ

プリピャチ(Прип’ять)は、ウクライナ北部に位置する町で、その住民のほとんどは、たった4kmしか離れていないチェルノブイリ原子力発電所に関わる仕事をしていた人たちでした。

そもそもプリピャチは、チェルノブイリ原子力発電所の運行開始に合わせて1970年に作られた非常に新しい町で、住民のすべては他の地域からチェルノブイリ原発で仕事をするためにやってきた人たちとその家族でした。
当時のプリピャチの人口は約5万人。驚くのが住民の平均年齢で、なんと25~26歳だったそうその多くが原発で働く若い世代の人々とその子供たちでした。

原発作業員の給料は、当時のソ連の人々の平均給料の4倍ほどもあったため、プリピャチはソ連の中でも最も裕福な町のひとつでした。

町には複数の映画館、プール、芸術センター、競技場などあらゆる施設があり、インフラが整備され、女性たちは家事をすることなく、家事代行に頼って、この町で優雅な人生を満喫していました。

そんな当時のソ連でも特異であった町、プリピャチの運命を変えたのが、1986年に起こったチェルノブイリ原子力発電所事故だったのです。

事故直後のプリピャチ

事故が起きたのは、1986年4月26日の未明。土曜日のことでした。当初、プリピャチの住民は、事故の重大さを知らされることなく、普段と変わらない土曜日を満喫していました。原発で事故が起きたことは公表されてはいませんでしたが、プリピャチ市内から原発4号炉が炎上しているのが見えたため、人々は一応、事故が発生したことは知っていたこととなります。(市内から原発が見える場所の一つである橋の上には、事故を見物しようと多くの人が集まり、彼らは多量の放射線を浴びることとなりました。のちにこの橋は「死の橋」と呼ばれるように。)

翌27日には、事故の重大さを認識したソビエト政府により、プリピャチ全市民に避難命令が出されます。この時は「3日間だけの避難なので、最低限のものしか持たないように」との指示だったといいます。結果的に、二度と戻れなくなるということを、この時誰が予想できたのでしょうか。

現在のプリピャチ

現在まで誰も戻ることが許されなかったプリピャチの街。30年という月日は、一つの人工的な町を自然が再び支配するのに十分な月日であることを実感させられるでしょう。

かつて繁栄を極めた「原発の町」の建物は、当時の栄華がほとんど感じられないほどに朽ち果て、人間の手が加えられなくなった道路や広場には木々が茂って林のよう。

ソ連時代から全く人の手が加えられていない建物や家屋などは、現在に当時の雰囲気や人々の生活を伝える貴重な存在となっています。

ここからは、チェルノブイリ日帰りツアーで訪れたプリピャチの町の現在の様子を、ソ連時代当時の人々の生活の様子を考えながら見ていきます。

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カフェ

プリピャチ市民が思い思いの時を過ごしていたカフェ。ガイドさんが同時のカフェの外観を写した写真を見せてくれましたが、その違いに愕然としました。

割れた窓ガラス、荒れ果てた室内。当時としてはかなり最先端であった店内の装飾だけが、ここが裕福な町のおしゃれなカフェであったことを思い起こさせます。

カフェの横には、水の販売機が。
ガイドさん曰く、当時はペットボトルなどではなく、共用のコップをみんなで利用していたとのこと。なぜかソ連時代には物が盗まれたりすることは少なかったそうで、「みんな共同で」という意識が強かったそうです。

湖沿いの遊歩道

プリピャチの町には、原発の冷却水を確保するための人工湖が作られ、水辺は遊歩道として市民の憩いの場となっていました。

先述のカフェのすぐ裏手に広がる湖。きっとレイクビューの絶好のロケーションだったのでしょう。
人がいなくなってたった30年で、見るも無残に荒れ果てていました。

カフェから遊歩道へと降りる階段。おしゃれな装飾がされたものでしたが、もはやハイキングトレイルのようになっています。

病院

プリピャチの病院には、事故当時、急性放射線障害で運ばれた原発作業員が多くいました。しかし医者は放射線障害に関する知識などなかったため手の施しようがなく、彼らの多くは命を落とすか、モスクワの病院まで移送されたそうです。

学校

プリピャチはかなりの若い町でした。そのため、市内にはなんと27もの学校があったそうです。
そのうちの一つを見学することができました。

かつての教室には、子供たちが使っていた机がそのまま残されています。

学校の建物の半分ほどは、もはや原形をとどめないほどに崩れ落ちてしまっていました。

幹線道路

かつて多くの車が行き交っていた、プリピャチの大通りは、草木が生い茂っており、ここを車が通っていたなんてにわかには信じられないほど。通りの真ん中に立つ街灯だけが、この場所のかつての姿を示す手がかりとなっています。

放置され、朽ち果ててしまったソ連製の車もありました。

映画館

事故の当日は土曜日。この映画館では多くの家族連れが週末を楽しんでいたことでしょう。

音楽学校

音楽、バレエなどの芸術教育にかなりの力を入れていたソ連。プリピャチの町にも、子供たちに芸術教育を行う音楽学校がいくつかありました。

上部の装飾は、パイプオルガンを表したものだそうです。ガイドさん曰く、「ソ連時代の建物の装飾はとても美しいんだけど、一目見ただけだとそれが何の施設なのかわからない」ということ。

市庁舎

当時のプリピャチの市庁舎は、バスターミナルやホテルなどがあった中心広場近くにあります。
事故後に対策本部が置かれ、この建物に政府の上層部や科学者が集まり、プリピャチに避難命令が出されることとなりました。

市庁舎の壁には、事故の後でストーカー(Stalker)と呼ばれる人たちによって描かれた落書きが。

ストーカーというのは、立入禁止区域や未開の地などに敢えて立ち入ることを楽しみにしている人たちのこと。もちろん違法なのですが、当時のストーカーたちはチェルノブイリで起こったことを客観的に見て伝えたいという人が多かったそう。

この落書きは、チェルノブイリ原発事故後に生まれるはずだった子供たちを描いたもの。
というのも、事故後に放射能の胎児への影響が明らかになるにつれ、妊婦たちは恐怖を覚えました。そのため、事故の年には妊娠中絶を選ぶ妊婦が激増したそうです。そんな生まれてこられなかった子供たちの無念を描いた落書き。もちろん違法な行為ではあるものの、考えさせられますね。

ホテル

町の中心広場にある高級ホテルも廃墟になっていました。ここには、事故後の対応を考える政府上層部や科学者たちが宿泊していたそうです。

バスターミナル

かつて首都キエフと多くのバスで結ばれていたプリピャチ。大きなバスターミナルはもう二度とやってこないバスをただ待ち続けています。

レストラン

かつてのレストラン。その店名は「レストラン」というシンプルさ。ここも多くの人でにぎわっていたのでしょう。

スーパーマーケット

プリピャチで一番の巨大スーパーマーケットの内部は、見るも無残な姿に。
商品棚の種類を示した案内板だけが、当時の様子をイメージさせてくれます。

遊園地

プリピャチの町で最も有名なのが、こちらの遊園地。黄色い観覧車は、チェルノブイリツアーのシンボルとなっています。

実はこの遊園地は1986年5月1日にオープンする予定でした。その直前の原発事故によって、誰にも利用されることのないまま朽ち果てていくままとなっています。

空中ブランコ。

バンパーカート。

この観覧車付近が、チェルノブイリツアーで立ち入り可能な場所の中でも最も放射線量が高いホットスポットだそうです。
ガイドさんが計測したところ400マイクロシーベルトと異常な数値が。しかし観覧車から1mほど離れると平常の数値に戻ります。

おそらく、除染作業をしたときに、放射線を含んだ水が観覧車の底に溜まってしまったため、そこだけピンポイントで放射線量が高いのではないかということでした。

サッカー競技場

裕福だったプリピャチの町は、なんとサッカーチームまで有していました。そのホームとなるサッカー場の一部が今でも残っています。

観客席から競技場を見渡しても、そこはただの林。とてもサッカーができる状態ではありません。

おわりに

チェルノブイリツアーのハイライトとも言える、ゴーストタウン・プリピャチへの訪問。
原発事故の影響と恐ろしさを肌で感じられる場所であると同時に、人間の作ったものなど自然の前ではちっぽけなものでしかないということを認識させられます。たった30年でこうも変わってしまうのですから。

街並みはソ連時代そのもので、多くの建物の上部にソ連式のスローガンが描かれているのがとても印象的でした。
ツアーガイドさんはソ連時代の人々の生活や文化などについての知識が大変豊富で、ソ連時代をしらない世代の人でも当時の町の様子をイメージしやすいです。

のぶよは、この町を訪問しながら、現在も立入制限措置がとられている福島第一原発の周辺の地域の未来に思いを馳せていました。
確かにそこに存在していた人々の生活、それがたった数十年という月日でもう二度と戻らないものとなってしまうという事実を目の当たりにするのはショッキングです。

ちなみに、プリピャチを含む強制退去命令によって避難を余儀なくされた地域の人々の、事故後の死因第一位は、実は放射線障害ではないんです。

それはホームシックという名の、突然の生活環境の変化による精神的苦痛による自殺や病だったそう。

特に、人生のほとんどの時間を同じ場所で過ごしてきた高齢者たちにその傾向は顕著で、中には禁止されているにもかかわらず、それを無視して自分の家に戻ろうとする人までいたそうです。

こうしたチェルノブイリの事故によって生じた結果から決して目をそらさずに、私たち日本人は、その全てを学び、理解し、これからどうしていかなければならないのか考えていかないといけません。

フクシマだって、チェルノブイリと同様、もう起きてしまったことなのですから。

 

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