マケドニアの歴史が残念すぎるから、せめて観光スポットを紹介してあげたい件【存在感なし、観光客ゼロ】

マケドニアの歴史が残念すぎるから、せめて観光スポットを紹介してあげたい件【存在感なし、観光客ゼロ】

こんにちは!北マケドニアに2週間滞在した、世界半周中ののぶよです。
(世界半周についてはこちらの記事へどうぞ。)

「マケドニア」と聞いて、何か具体的なイメージが湧く人は、かなりの世界史オタクかバルカン半島マニアだけでしょう。

バルカン半島を旅する旅行者でも、マケドニアをスキップしてしまう人はかなり多いです。

のぶよも、入国前にマケドニアに対して何のイメージも持っていませんでした。

そんな存在感が薄く、パッとしない国の歴史は、とにかく色々と残念ポイントが多く、周辺諸国にいじめられてきた可哀想なものでした。

今回の記事では、そんなマケドニアが少しでも報われるよう、その残念な歴史を辿りながら、各時代を反映する観光スポットを紹介していこうとするものです。

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マケドニアの残念ポイント1:黄金期が遠い過去すぎる (紀元前4世紀)

↑古代マケドニア王国の立役者、フィリッポス二世(手前)とアレキサンダー大王(奥)の銅像

マケドニアが栄華を極め、世界史にその名を刻んだのは今から二千年以上も前のこと

紀元前4世紀に、当時バルカン半島南部に位置していた小国・マケドニア王国の王であったフィリッポス2世が、当時繁栄を極めていたギリシャの都市国家を次々と征服していったのが始まりです。

そのフィリップ2世の息子が、有名なアレキサンダー大王

父が拡大した領土をさらに大きくしようと東方遠征を行った彼は、一代でマケドニア王国の領土を瞬く間に拡大し、その範囲は遠くインドにまで至ったとされています。

こうして、マケドニア王国が世界を制するかのように思われたのもつかの間。
いつの時代も絶頂期は長くは続かないものです。

アレキサンダー大王の死後、マケドニア王国の政情は不安定になり始め、領土はみるみるうちに縮小していき、紀元前168年には、とうとうローマ帝国によって征服されてしまいます。

その後は他のバルカン諸国同様にローマ化が進んだマケドニア。

コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)とアドリア海沿岸を結ぶ交易路の中継地点に位置するという地の利もあり、繁栄を極めます。

この時代に関連する観光スポット

古代マケドニア王国時代に築かれたのが、マケドニア第二の都市・ビトラ(Bitola)に残るヘラクレア・リンケスティス遺跡

マケドニアの黄金時代から後のローマ帝国支配時代、ビザンツ帝国支配時代にかけての遺跡が混在する、小さいながらも面白い場所です。

特に、素晴らしい状態で残るモザイク画は必見です。

マケドニアの残念ポイント2:かつての栄光はどこへやら。ビザンツ帝国支配時代 (1世紀〜7世紀)

↑ビザンチン様式の教会が多く残る、世界遺産の町・オフリド

ローマ帝国が東西分裂した395年、マケドニアは東ローマ帝国(のちのビザンツ帝国)の支配下におかれることになります。

かつての大王国は見る影もなく、ビザンツ帝国のだだの一地域としての地位に留まることに。

長く続いたビザンツ帝国支配時代。
かつては支配下においたギリシャの影響を受けた正教会が成立し、ビザンチン様式の教会が多く建造され、キリスト教国家としての性格が強くなります。

この時代に関連する観光スポット

世界遺産の町・オフリドには、当時の初期キリスト教建築のバジリカの遺跡であるプラオシュニクが残っています。

4世紀建造のバジリカ跡は、現在でも発掘作業が進められている場所。

敷地内に建つ聖クリメント・パンタレイモン修道院とともに必見です。

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マケドニアの残念ポイント3:結局アレキサンダー大王はマケドニアに関係ない?スラブ民族の躍進〜ブルガリア支配時代 (7世紀〜11世紀)

↑スラブ民族の文化の父・聖ナウム

平和が続いたビザンツ帝国支配時代のマケドニア。
そこに異変が生じたのが、7世紀に入ってからのことでした。

当時東ヨーロッパで勢力を拡大していたスラブ人が、ブルガリアからマケドニアにやってきて、ビザンツ帝国支配との共存が始まります。

モラビア(現在のチェコ)出身の聖クリメントと聖ナウムは、スラブ民族の言語を文字化したキリル文字を整備するのを手助けし、オフリドにスラブ民族初の文学学校を開きます。

こうして、当時のオフリドはスラブ民族の文化的中心として栄えました。

初めこそうまく共存していたビザンツ帝国とスラブ民族だったのですが、10世紀に入ると隣のブルガリア王国が勢力を拡大してきます。

当時のブルガリア皇帝・サモリにより、今度はブルガリア王国の一部となったマケドニア。

当時彼がオフリドに建築した城は、サモリ皇帝の城塞として現在もオフリド湖を見下ろす丘の上に残っています。

しかしブルガリアによる支配は長くは続きませんでした。
1014年のベラシツァの戦いにおけるブルガリア軍の敗北により、マケドニアは再びビザンツ帝国の支配下に置かれます

全国民の誇りであるアレキサンダー大王の時代から、すでに1500年が経っていた当時のマケドニア。

当時では完全にスラブ民族が多数派となり、古代ギリシア人の血筋であるアレキサンダー大王とは何の関係もない人々の国となりました。

そう、アレキサンダー大王が築いた大王国はマケドニアが中心でこそあったものの、その血筋はスラブ系の現在のマケドニア人とは全くの無関係

いわば時を超えた「同郷のよしみ」で英雄とされているに過ぎないのです。

アレキサンダー大王が、マケドニア人ではない。
マケドニア人はこの事実を知りつつも、目を背けながら彼を敬愛しているのです。

この時代に関連する観光スポット

オフリド近郊には、スラブ文化の礎を築いた一人である聖ナウムを祀った聖ナウム修道院があり、オフリドからのデイトリップにはぴったりです。

ブルガリア王国支配時代のサモリ城塞は、オフリドの町と湖を一望する絶景スポットでもあります。

マケドニアの残念ポイント4:今度はオスマン帝国に支配される (14世紀〜1912年)

↑マケドニアの多くの都市にあるオールド・バザールは、イスラムの香り漂うエリア

再度のビザンツ帝国支配によって、さらに多くのビザンチン様式の教会や聖堂が建設されたマケドニア。

しかしながら、13世紀頃にはビザンツ帝国の弱体化によって、北に位置するセルビア王国によって征服されてしまいます。

この時代に関連する観光スポット

マケドニア南部のプリレプ(Prilep)にあるマルコの塔と呼ばれる城塞跡は、当時のセルビア国王によって築かれたもの。

天空の城ラピュタのような世界が広がるマルコの塔。
ここから眺めるプリレプの町のパノラマには、感動すること間違いありません。

そんなセルビアによる支配も長くは続かず、次にマケドニアを支配したのはオスマン・トルコ帝国でした。

当時交易の中継地点として栄えたのはスコピエ

当時町の中心であったオールド・バザール地区にはモスクやハマムが次々と建設され、マケドニアのイスラム化が促進されます。

キリスト教徒の権利は制限されたものの、長く続いたキリスト教時代の影響は根強く、マケドニアの人々の多くは改宗することなく信仰を守り続けます。

地理的にギリシャに近いマケドニアでは、ギリシャ正教の影響力を無視できなかったオスマン帝国。
マケドニアに対しては、他の支配地に比べてイスラム化の促進が弱かったことも、マケドニアのイスラム化が抑えられた原因でしょう。

これが、イスラム色が強いバルカン半島南部において、マケドニアにキリスト教徒が多い理由となっています。

500年以上続いた、オスマン帝国による支配

1878年、モンテネグロ王国の独立問題に端を発する、ロシア帝国とオスマン帝国間の戦争(露土戦争)のオスマン帝国の敗北によって、バルカン半島各地で民族独立運動が広がっていきます。

しかしながら、マケドニアが国家として成り立つことはありませんでした。

露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約によって、マケドニア地域はすでに独立を達成していたブルガリア公国に割譲されることとなります。

この時代に関連した観光スポット

スコピエのオールド・バザール地区は、オスマン帝国支配時代に交易が行われていた、かつて市場だったエリア。

かつてのほどの活気はないものの、鄙びたレトロ感が感じられる町並みは、どこか懐かしくなること間違いありません。

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マケドニアの残念ポイント5:かつての大王国、とうとう地図から消える!国家消滅時代(1912年~1918年)

↑マケドニア独立運動を率いた、ゴセ・ドルチェフが眠る棺

一度はブルガリア公国に割譲されたマケドニア。
しかし、バルカン半島におけるロシア帝国の影響を恐れた西側諸国の圧力により、マケドニアは再びオスマン帝国領に戻されることに。

本当に、マケドニアはいつの時代も大国の思惑のせいで大変な思いをしています。

そんな中、周辺諸国と同様にマケドニアにおいてもマケドニア民族の国家樹立・独立の気運が高まっていきます。

1903年には、ゴセ・ドルチェフをリーダーにしたマケドニア革命部隊が独立を求めて蜂起を起こすものの、オスマン帝国により制圧されて失敗に終わります。

それでも、ゴセ・ドルチェフはマケドニア人の英雄的存在。
彼の遺体は、スコピエのオールド・バザール地区にある聖スパス聖堂に眠っています。

その後、1912年に起こったのが第一次バルカン戦争
バルカン連盟(セルビア・モンテネグロ・ギリシャ・ブルガリア)とオスマン帝国間の戦争だったのですが、この戦争の主要な戦地となり、多くの被害をうけてしまったのが、可哀想なマケドニア。

何もしていないのに、ちょうど真ん中にあるというだけで戦場とされてしまったのだからたまったものではありません。

その後まもなく起こった第一次世界大戦においては、バルカン連盟を脱退し、ドイツと連合を組んだブルガリアによってマケドニアは占領されてしまいます。

結果ブルガリアは降伏。
その占領地であったマケドニアは、ギリシャとセルビア人・クロアチア人・スロベニア人連合(のちのユーゴスラビア)、ブルガリアによって三つに分割されてしまいます。

ここで、国家としての統一マケドニアは消滅してしまうことに。

世界史で有名なのは、第二次世界大戦前に地図から消えたポーランドの分割ですが、マケドニアでも同じようなことが起こったのです。

現在私たちが「マケドニア」(もしくは「北マケドニア」)と呼ぶのは、この三分割によってユーゴスラビア領となった地域のみを指します


ソース:By NikoSilver – English wikipedia (w:en:File:Europe_Balkans_Macedonia_geo.jpg),https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1032439

上の画像のオレンジ部分が現在のマケドニア、薄い色で塗られている部分がかつてのマケドニア地域(緑:ブルガリア領ピリン白:ギリシャ領マケドニア)です。

マケドニア人の統一国家樹立の野望は永遠に叶わぬままであるどころか、この分割が後の「マケドニア国名問題」に発展し、ギリシャからいじめられることとなるのです。

マケドニアの残念ポイント6:弱り目に祟り目。ユーゴスラビアのお荷物な国を襲った大地震(1918年〜1991年)

↑地震の被害が大きかったスコピエでは、共産主義風の建物はあまり見かけない

かつてのマケドニア地域北部を割譲されたセルビア・クロアチア・スロベニア連合がユーゴスラビア連邦となり、その占領地であったマケドニアも自動的にユーゴスラビアの一部となりました。

戦争の傷跡を引きずるマケドニアの国力はほぼゼロ
ユーゴスラビアで最も貧しく、なんの産業も資源もないお荷物的存在となり果て、中央政府によってマケドニア語やマケドニア風の名前をつけることまで禁止されてしまいます。

その後は、ユーゴスラビアの父・チトー大統領の強力な共産主義が進められ、他のバルカン諸国同様に共産主義風のコンクリートの建物が造られます。

ようやくユーゴスラビアのいち共和国として発展の兆しが見えてきたマケドニア。
そこに大打撃を与えたのが、1963年に起こったスコピエ大地震でした。

首都の建物はほとんどが破壊されてしまい、長い歳月をかけての復興を余儀なくされてしまいます。

この時代に関連した観光スポット

首都のスコピエは、大地震からの復興過程で斜め上すぎる方向へ進んでしまったトンデモな町。

おびただしい数の銅像があふれる中心街には、凱旋門やギリシャ風神殿、ホワイトハウスなど、有名建造物を模したハコモノが建ち並びます。

どこへ向かっているのか誰にも想像できないスコピエ。
とにかく色々とブッ飛んでいるので必見です。

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マケドニアの残念ポイント7:独立後も絶賛迷走中。解決しない民族・外交問題 (1991年〜)

↑マケドニア人の誇り、マザー・テレサ。でも、祈るだけじゃ何も解決しません。

建国の父・チトーの死後、急速に分裂が広がった旧ユーゴスラビア諸国。

クロアチアの独立戦争やボスニア内戦にセルビアが手を焼いていた1991年、どさくさに紛れて国民投票を行ったマケドニアは、旧ユーゴスラビアで唯一、武力介入なしで独立を達成することとなります。
(一番最初に独立したスロベニアでさえ、小規模の武力攻撃を受けた)

当時のユーゴスラビア中央政府が他の紛争で手一杯だったのと、そもそも国力が小さいマケドニアにそこまでこだわらなかったというのが定説です。

しかしながら、ユーゴスラビア中央政府は「勝手に独立したマケドニアにはもう用はない」と言わんばかりに、軍を撤退し、多くの物資を本国に持ち帰ってしまいます。

もともと大した国力もない上に、これまで国防をしてくれていた中央政府の軍隊もいなくなったマケドニアを待ち受けていたのは、ギリシャからの侵略への恐怖でした。

ギリシャは、かつてのマケドニア王国の北の一部でしかない場所が「マケドニア」を名乗っていることに猛反発。
かつてのマケドニア王国の旗と国名を変更するよう圧力をかけます。

そうしてかわいそうなマケドニアは国旗を変更させられ、国名を「マケドニア旧ユーゴスラビア連邦共和国」という謎すぎる名前に変更させられることに。

外交面だけでなく、内政でも問題は山積みでした。

1998年に起こったコソボ紛争の際には40万人以上のアルバニア人難民を受け入れたマケドニア

しかし、せっかく受け入れてあげた恩はどこへやら。
マケドニア国内のアルバニア人の過激派は、自分たちの居住地のマケドニアからの分離を求め、国家解放軍(UCK)を結成します。

マケドニアからしたら、「後から来た奴らが何をしゃあしゃあと」といった感じなのですが、結局この動きが2001年に紛争へと発展。

マケドニア正教会を攻撃するアルバニア系住民と、モスクを攻撃するマケドニア人という、バルカン半島の平常運転とも言うべき暴力の応酬が繰り広げられました。

マケドニアにおける紛争は、今のところバルカン半島で起こった最後の紛争とされており、不名誉なこと極まりない限りです。

↑プリレプの町に残る、マケドニア人によって攻撃を受けたモスクの跡

オフリド条約締結により、この紛争は終焉を迎えました。
マケドニアは、少数派であるアルバニア人の言語や国旗を公式のものと定めさせられ、公的機関にアルバニア人を一定の割合で雇用することも認めることとなります。

しかしながらマケドニア国内でのマケドニア人とアルバニア人の対立は水面下で続いているのが現状です。

EUへの加盟が悲願のマケドニア
しかし、散々いじめられてきた歴史は21世紀になっても続いているようです。

国名問題で争ったギリシャはマケドニアのEU加盟に猛反対し、ブルガリアも懐疑的な姿勢。
(そもそもブルガリア人の多くは、マケドニアを国として捉えておらず、「かつてブルガリア領だった所」と考えています)

自分たちだけではどうしようもないマケドニアはトルコに接近し、多くの支援を得ることに成功しました。

その構図は、まるで100年前のオスマン帝国時代に逆戻りしたかのよう。

絶えず続くギリシャからの圧力により、2019年には国名を「北マケドニア」というこれまた残念な名前に変更させられてしまったマケドニア。

北朝鮮・韓国や南北キプロスなど、紛争による分断以外の理由で国名に方角が付くのは、世界広しと言えどもここだけなのではないでしょうか

というわけで、かつての大王国の迷走は、現在進行形で続いているのです。

おわりに

知れば知るほど残念でかわいそうなマケドニアの歴史。

のぶよがバルカン半島で最後に訪れた国がマケドニアなのですが、知れば知るほどマケドニアは何も悪くないのにと思ってしまいます。

観光客もほとんど来ないため、観光地や交通機関の整備も周辺諸国に比べてかなり遅れているマケドニア。

のぶよ的には、このままのんびりとした国であってほしいのですが、ここで暮らす人々のことを考えると、もう少し発展したほうがいのかもしれません。

というわけで、バルカン半島を旅行する際は是非、スキップせずにマケドニアへどうぞ

観光地こそオフリドくらいしかありませんが、きっとそののんびりとした空気に癒されるはずです。

マケドニアだけでなく、周辺の国の歴史も学んでみませんか。歴史 × 旅をテーマにした記事を書いています。

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