“分断の町”ミトロヴィツァに見るコソボ紛争の傷跡と民族対立が、思った以上に深刻だった

“分断の町”ミトロヴィツァに見るコソボ紛争の傷跡と民族対立が、思った以上に深刻だった

こんにちは!コソボをのんびりと旅行中、世界半周中ののぶよです。
(世界半周についてはこちらの記事へどうぞ。)

コソボ北部に位地するミトロヴィツァ(Mitrovicë)という町をご存知でしょうか。

観光スポットでは全くない、どこにでもあるコソボのいち地方都市という雰囲気の町なのですが、この町には独特の呼び名があります。

それも分断の町というもの。

というのも、11万人ほどの人口のミトロヴィツァは、町の中央を流れるイバル川を挟んで北にセルビア人、南にアルバニア人と完全に住み分けがされているためです。

↑二つの地域を分けるイバル川。手前が南、奥が北ミトロヴィツァ

二つの地域を結ぶ橋は、コソボ平和維持軍(KFOR)によって現在でも警備がされており、車両の通行はできなくなっています。
それはまさに、二つの民族を隔てる「分断の橋」。

今回の記事では、コソボにおける民族対立を象徴するようなミトロヴィツァへの訪問を通して、コソボの闇の部分とも言える民族問題について考えていきたいと思います。

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どうして分断された?ミトロヴィツァの近代史

↑北ミトロヴィツァのメインストリート

セルビアに近いという地理的要因もあり、もともとはセルビア人とアルバニア人が共存していたミトロヴィツァ。

宗教の違いによる民族間対立は昔からあったものの、特に北部がセルビア人、南部がアルバニア人と居住地域が分断されるまでには至っていませんでした。

そんな状況が大きく変わったのが、1998年~1999年のコソボ紛争

セルビアによる民族浄化政策(コソボのアルバニア人を追放してセルビア人を入植させる)に反抗したアルバニア解放軍は暴徒化し、激しいゲリラ戦が繰り広げられ、かなりの被害を受けたミトロヴィツァの町。

特に、現在のアルバニア人居住地域である南部の被害はかなり大きなもので、セルビアからの報復を恐れた多くのアルバニア人が町を去ることとなります。

紛争終結後には多くのアルバニア人が町に戻ってきたのですが、この時にはアルバニア人が多数派。
かつて南部に居住していたセルビア人はすべて北部に強制的に移住させられ、「分断の町」ミトロヴィツァが形成されることとなります。

コソボ紛争終結後も、コソボ暴動の中心地となったり、発砲事件や手りゅう弾爆発事件などがしばしば起こり、ミトロヴィツァはコソボの民族対立の象徴として名前が挙がるようになります。

北部と南部をつなぐ橋は、人は自由に往来することができますが、テロや暴力行為を防ぐためか、車両の通行はできなくなっています。

同じような町として、地中海に浮かぶキプロス共和国のニコシア(レフコシア)が挙げられます。

ギリシャ系住民とトルコ系住民の対立は、一つの町を、そして一つの島国を二分してしまう結果となりました。

ミトロヴィツァの場合は、ニコシアにはない川が、一つの町に住む二つの民族を分断していると考えるとわかりやすいかもしれません。

分断の町ミトロヴィツァに実際に行ってみた

というわけで、数か月バルカン諸国を巡っているのぶよは、ミトロヴィツァの町にかなり興味を持ちました。

どんな雰囲気なのか、実際に町を訪れた様子をお伝えしていきます。

ミトロヴィツァ観光地図

黄色:バスステーション
青:観光スポット 

安定のコソボ。ミトロヴィツァ南側(アルバニア人居住地域)

↑南ミトロヴィツァの至る所ではためくアルバニア国旗

コソボ内他都市からミトロヴィツァを訪れる場合、アルバニア人居住地域の南ミトロヴィツァにあるバスステーションに到着します。

バスを降りたら殺伐とした雰囲気が漂っているのかと思いきや、至って普通。

何の変哲もないコソボの地方都市の雰囲気しかありません。
安定のコソボです(笑)

↑写真をとると勝手にポーズを決めてくる。コソボ七不思議のひとつ。

人々は外国人を見ると気軽に話しかけてきますし(もちろんアルバニア語で)、コソボお得意の露店や変な雑貨店、変な服屋が並びます。

平和すぎて何だか拍子抜け。
バスの中でちょっと緊張していた時間を返してほしいくらいです(笑)

南ミトロヴィツァの中心には、立派なモスクがそびえ立っています。

ちょうどイスラム教のお祈りの時間で、中心街のモスクには多くの人々が集まって礼拝していました。

若者もかなり多く、みんなお祈り用のマットや段ボールを持参しています。

コソボはアルバニアに比べてイスラム色がかなり強めなのですが、ここまでたくさんの人が一斉に、しかもモスクに入りきれずその辺の路上でお祈りするような光景を見たのは初めてでした。

モスクを通りすぎた先にある、南ミトロヴィツァの北側エリア(ややこしい)には、EUの援助を受けて整備された、モダンな歩行者専用の中心街が広がります。

ここだけ切り取ると、とても紛争で大きな被害を受けた町には見えません。

平日の昼間なのに多くの若者で賑わうカフェやレストランは、コソボ七不思議の一つ。

みんな毎日何しているんでしょうか。

こうして、至って平凡なコソボの日常風景か見られる南ミトロヴィツァ

しかし、きれいに整備された歩行者専用の中心街を抜けると、「分断の町」の象徴とも言える南北をつなぐ橋に到着します。

橋の前にはバリケードが張られ、警察車両やKFOR(コソボ治安維持部隊)の車両が警備を行なっていて、なんだか物々しい雰囲気。

しかし、それを除けば至って普通の橋。
普通に行き来している人々の姿が見られますし、とても民族対立があるようには見えません。

パスポートの提示なども全く必要なく、完全に自由に往来ができます

しかし、橋を渡った旅行者は実感することでしょう。
分断の町・ミトロヴィツァがそんな一筋縄で行くような町ではないということを。

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もはやセルビア。ミトロヴィツァ北側(セルビア人居住地域)

橋を渡ってまず感じるのは、そこはかとなく漂う荒涼とした空気

橋の南側には、EUの援助で整備されたモダンな歩行者専用の通りが整備されているのに、橋の北側で旅行者を待ち受けているのはただの空き地です。

空き地から北に伸びるのが、北ミトロヴィツァのメインストリート

こちらは綺麗に整備されているものの、目に入ってくるのはいくつものセルビア国旗
たまにロシア国旗まで見られます。

そう、北ミトロヴィツァはあくまでもセルビアなんです
そもそも、セルビアはコソボの独立を認めていませんから。

あくまでも、「セルビアのいち地方都市。(なぜかアルバニア人がやたらいる)」くらいの感覚です。

↑「コソボはあくまでもセルビアの一部」という主張を裏付けるような、コソボを含めたセルビアの地図

メインストリートにはいくつものレストランやカフェが並びますが、コソボの国産銘柄ビールであるPEJAは全く見かけません。

その代わりに、黄色い鹿のマークが目印のJelenが至るところに。
もちろんセルビアのビールです。

コソボでは全く見かけないJelenですが、北ミトロヴィツァではセルビア本国と同様に最もポピュラーな銘柄。

↑おそらくセルビア本国からやってくるJelen。コソボで見かける機会はゼロです。

以前、ボスニア・ヘルツェゴビナのビールの銘柄から民族対立を考える記事を書きましたが、それと似たような状況が起こっていると言えます。

↑セルビア国旗とロシア国旗。仲良しこよし。

また、町を歩いていると、全ての看板がセルビア語で書かれていることに気づくでしょう。

これまでアルバニア語だったのが、数十メートルの橋を渡っただけで一気にセルビア語になるんです。

しかも、北ミトロヴィツァでは、ほとんどのセルビア語がキリル文字表記

セルビア語はキリル文字、ラテン文字のいずれの文字で書いてもいいという珍しい言語なのですが、セルビア正教・民族を象徴するキリル文字を敢えて使用するところに、北ミトロヴィツァのセルビア人の民族意識が表れています。

のぶよ的に、セルビア本国以上にキリル文字が使われているという印象を受けました。

繰り返しますが、北ミトロヴィツァはあくまでもセルビアなのです。

セルビア国旗やビールの銘柄、セルビア語なんてまだまだ可愛いもの。

こちらをご覧ください。

八百屋で売られている野菜ですが、注目すべきはその値段

そう、全てセルビアの通貨であるディナールで表記されているのです。

驚くことに、北ミトロヴィツァで流通しているのはセルビアと同様にディナール
ATMを利用するとディナールが出てきますし、カフェも商店も全てディナールで料金計算をします。

↑カフェの看板。最初ユーロだと思って「どんだけ高いねん!」と思いました。

もちろん、コソボの公式な通貨はユーロ。
ここでも「ここはコソボじゃない。セルビアだ!」という主張をひしひしと感じさせられました。

北ミトロヴィツァには、ストリートアートがいくつかあり、そのほとんどが民族的・政治的なもの。

「コソボはセルビア、クリミアはロシア」と描かれたものまで。
まさかロシアが裏でどうこうしているんでしょうか。

きっとしているんでしょう。某大統領のポスターまである始末ですから(笑)

↑こういった地域でやたら支持されているこの人。

北ミトロヴィツァには、分断の町の全景を望めるスポットがあります。

それが、高台に位置するこちらのセルビア正教会前のテラス。
ここから眺めるミトロヴィツァの町はとても南北に分断されているとは思えません。

ちょうど南北を隔てる川が死角になって見えないためでもありますが、これこそが本来の町の姿。

この景色のように、一つの町で二つの民族が仲良く手を取り合える日はいつやってくるのでしょうか。

ミトロヴィツァへの行き方

プリシュティナ〜ミトロヴィツァ間のバス移動

プリシュティナのバスステーションから、20分に1本バスが出ています。

所要時間:1時間
料金:€1.5(=¥177)

ペーヤ〜ミトロヴィツァ間のバス移動

コソボ第三の都市・ペーヤ~ミトロヴィツァ間は、1時間半に1本程度ミニバスが走っています。

所要時間:1時間半
料金:€3(=¥352)

ペーヤ~ミトロヴィツァ~プリシュティナと移動をしながらの観光も可能ですが、ミトロヴィツァのバスステーションには荷物預り所などのサービスはありません

大きな荷物がある場合はなかなか厳しいと思うので、プリシュティナからの日帰り往復をおすすめします。

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そもそもコソボは誰のもの?〜コソボの歴史〜

「コソボ」と聞いて、紛争があったことは多くの人がイメージすることでしょう。

しかし、何がきっかけで紛争が起きたのか学ぶ機会はなかなかないのが現状です。

ミトロヴィツァというコソボの民族対立を象徴するような町を訪問するにあたって、コソボ紛争に至るまでの歴史やその背景、そして紛争後の動向を理解しておくことはとても大切

ここからは、コソボ問題がここまで複雑になってしまった原因である、セルビア人とアルバニア人の対立の歴史を軸に、コソボという国の在り方について考えていきます。

古代〜中世のコソボ

コソボの歴史の始まりは、2000年近く前のローマ帝国時代にさかのぼります。

ローマ帝国が東西分裂し、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の一部となったコソボは、中世初期にはセルビアの前身であるラシュカ公国のものとなります

その後、現在のセルビアの中核となるセルビア王国の中心地として発展したコソボ。

コソボの世界遺産「コソボの中世建造物群」に指定されている四つのセルビア正教の修道院・聖堂は、この時期に造られて、セルビア正教の中心として発展したものです。

ここまでを見ると、「コソボはもともとセルビアのもの」というセルビア側の主張は正しいものであるように感じます。

オスマン帝国によるイスラム化とアルバニア人の増加

コソボにおけるセルビア王国のキリスト教文化が終焉を迎えたのが、15世紀半ばのこと。

コソボは、当時バルカン半島の国を次々と征服していったオスマン・トルコ帝国領となりました。

オスマン帝国の支配下で、コソボのイスラム化が進みます。

元々コソボに居住していたセルビア人に加えて、すでにイスラム化していたアルバニアから多くのアルバニア人がやってきて、コソボの民族構成が複雑になってきたのもこの時代。

しかし、500年に渡って続いたオスマン帝国支配時代には、民族間の対立は表面化することなく、なんとなく和が保たれていました。

コソボ問題の始まり〜アルバニア人勢力の躍進

そんなコソボでの民族的均衡が崩れたのが、オスマン帝国が弱体化していた19世紀後半〜20世紀初頭にかけてのこと。

コソボの古都・プリズレンで始まったアルバニア人による民族運動は、オスマン帝国からの独立を求めるアルバニア本国にまたたく間に広がり、1912年、アルバニアはオスマン帝国からの独立を達成します。

しかし、アルバニアの独立時にコソボを含めることを西側諸国は許しませんでした。

人口の75%がアルバニア人であるにも関わらず、コソボはセルビアに割譲され、アルバニアはコソボを手離した状態での独立をさせられたのです。

これが、現在まで続く民族対立の根源と言えるでしょう。

セルビアは、もともと自分たちの領土であったコソボをイスラムから「解放した」とみなし、アルバニアは、同一民族であり、民族運動の起源となったコソボをセルビアに「占領された」とみなしたためです。

ユーゴスラビア時代

第一次世界大戦後にユーゴスラビア連邦が成立すると、コソボはセルビア人の国であるセルビア共和国の一部となりました。(後に自治州となる)

しかし、後の第二次世界大戦中には、イタリアの後押しを受けたアルバニア人によってコソボは占領され、一時的にアルバニアの一部に戻ります。

しかしイタリアが降伏すると、その勢いはどこへやら。
終戦後は、再びユーゴスラビア連邦のセルビア共和国の一部に戻ります。

その後はユーゴスラビアの父、チトー大統領のもとでなんとかやっていたものの、彼の死後は民族対立が表面化することとなるのです。

ユーゴスラビア崩壊とコソボ紛争

クロアチア、ボスニアと、旧連邦構成国が戦争の果てに独立していくと、コソボでもセルビアからの分離独立・アルバニア人国家樹立の機運が高まります。

当時のコソボの人口比率は、90%がアルバニア人
セルビア人主体のユーゴスラビアに留まることは民族的感情が許さなかったのでしょう。

一部のアルバニア人過激派は、ゲリラ攻撃やテロ攻撃に走り、セルビア側はそれを抑制しようと武力行使に走ります。

これが1998年~1999年にかけて起こったコソボ紛争です。

このコソボ紛争に対する西側諸国の姿勢は、コソボの独立を支持するものでした。

NATO軍は、「コソボでアルバニア人の権利が侵害されている」とし、セルビアの首都・ベオグラードを空爆します。

一方のコソボでの戦火も熾烈を極め、50万人近くのコソボ在住のアルバニア人がアルバニアへと逃れることとなります。

紛争終結〜現在

コソボ紛争終結後には、国連による平和維持活動部隊が置かれたコソボ。

一見平和が戻るかのように思えたのも束の間のことでした。

戦火を逃れてアルバニアに避難していたアルバニア人がコソボに帰還し、セルビア人に「復讐」し始めたためです。

セルビア正教会や修道院、果ては一般のセルビア人が住む民家ですら攻撃の対象となり、今度は多くのセルビア人がコソボからセルビアに逃れることとなりました

混乱が完全に収まったとは言えない2008年、コソボはセルビアからの独立を一方的に宣言し、それを認めないセルビアとの対立は続いています。

国家レベルではなく、民間レベルでも憎しみが蔓延っているのがコソボ問題の複雑なところ

紛争から20年が経った現在でも、コソボに住むセルビア人とアルバニア人の対立はかなり深刻です。

お互いにコミュニケーションが皆無なのはもちろん、セルビア人を見たら石を投げる過激派のアルバニア人も少なからず存在するそう。

セルビア人にとってコソボは、もともと自分たちの領土で、宗教的中心地がある大切な場所。
一方のアルバニア人にとっては、人口のほとんどがアルバニア人のコソボはどう考えてもアルバニア人の国。

どちらが正しいのかはわかりません。

しかし、”分断の町”・ミトロヴィツァは、そんなコソボの闇の部分を直に感じさせられる町なのです。

おわりに:分断の町に垣間見える希望

コソボにおける民族対立を象徴するような町・ミトロヴィツァ。

どうしても負の部分にばかり目がいってしまいがちですが、二つの民族の和解の兆しを感じられる場面もありました。

かつては両民族間で緊張が続いた橋は、現在では民族問わず行き交うことができるようになっています。

また、北ミトロヴィツァにある商店では、コソボのビールであるPEJAと、セルビアのビールであるJelenが並んでいる光景も。

↑上段にセルビアのビール(LAV, Jelen…)、下段にコソボのビール(PEJA)が。まさに奇跡の光景です。

敢えてそうしたのかは分かりませんが、誰もが気分で好きなビールを選んでいいように、セルビア人、アルバニア人の双方が歩み寄って共存できる日への希望を感じました。

きっとその時は、ミトロヴィツァの南北をつなぐ橋は、「分断の橋」ではなく「友好の橋」として、多くの人を惹きつける場所になっていることでしょう。

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