こんにちは!トルコに3ヶ月滞在した、世界半周中ののぶよ(@nobuyo5696)です。
(世界半周についてはこちらの記事へどうぞ。)
東洋と西洋を結ぶ独特の地理的条件から、様々な歴史の舞台となってきたトルコ。
私たち日本人の間では、アジアとヨーロッパの境目にあるエキゾチックな国というイメージが強いですが、たった100年前までは、ヨーロッパから中東、北アフリカまでの広大な範囲を支配した大帝国でもありました。
そんなオスマン帝国のイメージが強いためか、トルコ=イスラム教というイメージがありますが、実はトルコにイスラム教がもたらされてからまだ1000年も経っていないのです。
(とはいってもすごいですが。)
それ以前はヨーロッパのキリスト教社会の一員だったため、現在でも中世初期のキリスト教文化の影響が見られる場所もあるほど。
それどころか、トルコ人はもともとトルコに住んでいた民族ではないというのも大きなポイントです。
このように、トルコの歴史はなかなか簡単には語れない、超複雑なもの。
しかしながら、国内に点在するモスクや遺跡などを観光する際に何も知らないと、
「うわーキレイ!はい、写真!オッケー、次行こ!」という残念な観光客になってしまいます。
よく考えてみてください。
どうしてイスタンブールの観光の中心・スルタンアフメット広場に、キリスト教とイスラム教が混ざったようなアヤ・ソフィア聖堂が鎮座していたり、その横のヒッポドロムには古代遺跡っぽい柱が数本立っているのかを。
「なんか色々ある~!すごーい!エキゾチック~!」でとりあえず写真だけ撮って終わってしまう人、色々と損してます。まじで。
今回の記事では、トルコを観光する際に最低限理解しておきたい歴史の流れと、それぞれの時代に関連する観光スポットをまとめています。
できる限り分かりやすく(長いですが)、でも時代の流れをちゃんと理解できるように書いたつもりなので、トルコ観光前に頭の片隅にでも入れておいていただければ。
トルコの歴史を理解するためには、大まかな時代の流れを把握しておく必要があります。
- 1ヘレニズム時代(紀元前333年〜紀元前133年)
・初めてのヨーロッパ文明 - 2ローマ帝国・ビザンツ帝国時代(紀元前133年〜1037年)
・キリスト教の広がり - 3セルジューク朝時代(1037年〜1324年)
・イスラム教の広がり - 4オスマン帝国成立~コンスタンティノープル陥落(1326~1453年)
・オスマン帝国の成立 - 5絶頂期~衰退~トルコ共和国成立(1453年〜1923年)
・オスマン帝国の栄光~衰退
この5つの時代の流れを理解しておくだけで、トルコの歴史はバッチリです!
1.ヘレニズム時代のトルコ(紀元前333年〜紀元前133年)
世界で初めて鉄器製造に成功したヒッタイト族の帝国が崩壊し、地方政権が林立していたアナトリア半島。
紀元前552年にはアケメネス朝ペルシア(現在のイラン)によって全域を支配され、ペルシア化が進んでいました。
そんな勢力構図が大きく変わったのが、紀元前4世紀のこと。
西からもたらされたギリシャ風文化(ヘレニズム文化)によって、トルコの文明は大きく発展することとなったのです。
- アレキサンダー大王(紀元前333)
・マケドニア帝国によってアナトリア半島制圧
・ギリシャ文化がもたらされる
- リュキア同盟(紀元前205)
・ローマ帝国に対抗するため、都市国家が連帯
・自治権を守る
- アッタロス3世(紀元前133)
・ペルガモン王国の国王
・遺言で領土の支配権をローマ帝国に委ねる
・ヘレニズム時代の終了&ローマ帝国時代の始まり
紀元前333年:アレキサンダー大王がもたらしたヘレニズム文化
トルコの歴史を大きく変えたのが、マケドニア王国のアレキサンダー大王でした。
父フィリッポス2世の後を継いだ大王はギリシャ系。
小国マケドニアから東へとどんどん領土を広げ、たった一代でヨーロッパからインドにまで及ぶ大帝国を築き上げたのです。
マケドニア王国の栄華は長くは続かなかったものの、アレキサンダー大王によってギリシャ風文化(ヘレニズム)がトルコにもたらされたのはこの時。
以後、ギリシア風の都市国家がアナトリア半島で次々と誕生し、アクロポリスや神殿を中心とした町が整備されていったのです。
紀元前205年:リュキア同盟の結成
こうしてアナトリア半島で花開いたヘレニズム文化。
特に、ギリシャと距離的に近い、エーゲ海や地中海沿岸では、ギリシャ風の都市国家が力をつけていきます。
西には領土をどんどんと拡大していくローマ帝国、南にはセレウコス朝シリア大帝国に挟まれていたアナトリア半島の小さな都市国家は、連帯を組んで自治権を維持する必要にせまられました。
トルコ南部の地中海沿岸に位置する「リュキアの道」と呼ばれる地域には、オリンポス、クサントス、ミラなどの都市国家が連帯したリュキア同盟が設立され、ローマ帝国からの独立を維持しながらヘレニズム文化を発展させていきます。
独自のヘレニズム文化の跡が見られるリュキアの道。
どれも規模は小さいものの、ローマ帝国支配以前の都市国家の様子が見られる貴重なものばかりです。
紀元前133年:ヘレニズム時代の終了
強大なローマ帝国の影響下に置かれ始めていたアナトリア半島の都市国家。
時代が完全に変わったのが、紀元前133年のことでした。
アナトリア半島西部で広大な領土を所有していたペルガモン王国の国王・アッタロス3世が亡くなる際に、自国の領土をローマ帝国の統治に委ねることを指示した遺言を残したのです。
こうして、ペルガモン王国の領土であったエフェソス(エフェス)などのエーゲ海沿岸地域にローマ帝国の支配が及ぶこととなり、ギリシャ風のヘレニズム文化は幕を下ろしたのです。
ギリシャからローマへと時代が変化した象徴となる存在が、世界遺産のエフェソス(エフェス)遺跡。
ローマ帝国支配下では港湾都市として栄え、栄光の時代を経験しました。
2.ローマ帝国支配からビザンツ帝国支配へ(紀元前133年〜1037年)
こうして、強大なローマ帝国の支配下におかれることとなったアナトリア半島。
ギリシャ風の都市国家はローマ風に作り変えられ、ローマ式浴場や円形競技場などが多く建設されました。
- キリスト教の公認(313)
・コンスタンティヌス帝のミラノ勅令による
・それまでは異教として弾圧対象
- コンスタンティノープル遷都(330)
・コンスタンティヌス帝による
・アヤ・ソフィア聖堂の建造(350年)
- ローマ帝国東西分裂(395)
・コンスタンティノープルを首都とした東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が成立
- ユスティニアヌス帝(527~565)
・ビザンツ帝国の最盛期
- ビザンツ帝国の衰退期(7世紀~11世紀)
・アラブ人の侵入や度重なる戦争による疲弊
313年:キリスト教の公認
ギリシャ時代は多神教が主流だったのに対し、当時ローマ帝国の人々の間で広まっていたのはキリスト教でした。
始めこそ異教として弾圧の対象となったものの、313年に当時のローマ皇帝・コンスタンティヌスによって国教として公認されます。(ミラノ勅令)
ローマ帝国支配時代には温泉保養地として栄えたのが、真っ白な石灰棚で有名なパムッカレの真上にあるヒエラポリス遺跡。
観光客に大人気のパムッカレもいいですが、素晴らしい保存状態で当時の町の様子が目に浮かぶヒエラポリス遺跡も、絶対に訪れたい世界遺産です。
地中海沿岸に位置するシデ(Side)は、ヘレニズム時代の遺跡とローマ帝国時代の遺跡が混在する場所。
ローマ式浴場や円形競技場の素晴らしさはもちろん、ギリシャ風のアポロ神殿が最大の見どころです。
330年:コンスタンティノープル成立
コンスタンティヌス帝が行った改革は、キリスト教の公認だけにとどまりませんでした。
長い歴史の中で、保守的な元老院が牛耳っていたかつての首都・ローマを嫌った皇帝は、東の果てにあるコンスタンティノープルをローマ帝国の首都として定めます。
コンスタンティノープルとは、現在のイスタンブールのこと。
それまではただのローマ帝国領内の地方都市に過ぎなかった場所が、急に大帝国の首都とされたのだから、その変化は凄まじいものがあったことでしょう。
イスタンブールでも最もローマ時代の遺跡が多く残るのが、観光の中心となるスルタンアフメット地区。
コンスタンティヌス帝が運ばせたオベリスクや円柱などが残っており、歴史を知っているととても楽しめます。
また、世界遺産のアヤ・ソフィア聖堂も、この時代(350年)に建設されたものが起源。
スルタンアフメット地区=イスラムというイメージがありますが、実はローマ帝国時代の遺跡や建造物も多く残っているのです。
コンスタンティノープルについで開発されたのが、現在はブルガリアの首都であるソフィアでした。
温泉が湧いていたことが注目されたソフィア。
当時はセルディカ(Serdica)と呼ばれ、コンスタンティノープルに次ぐ第二の都市として発展した歴史を物語るような遺跡が町中に点在しています。
6世紀:ビザンツ帝国の絶頂期
395年のテオドシウス帝が没すると、ローマ帝国は東西分裂状態となり、コンスタンティノープルを中心とした東側は東ローマ帝国となります。
異民族の侵入によって衰退し続ける西ローマ帝国を尻目に、東ローマ帝国はどんどん発展。
6世紀初頭のユスティニアヌス帝の統治時代に最盛期を迎えます。
東ローマ帝国?ビザンツ帝国?
まるで別の国のように呼ばれる「東ローマ帝国」と「ビザンツ帝国」ですが、実際には395年にローマ帝国が東西分裂した際の東側を占めた同一の国です。
1453年にオスマン帝国によってコンスタンティノープルを奪われるまでの長期間続いた国のため、初期を「東ローマ帝国」、中期~後期を「ビザンツ帝国」と呼称することが多いようです。
当時のコンスタンティノープルは、東方のキリスト教世界の中心。
聖堂や教会がどんどん建設され、首都として栄光の時代を迎えます。
ユスティニアヌス帝が整備したのが、イスタンブールのスルタンアフメット地区にある「地下宮殿」と呼ばれる場所。
当時水不足に悩んでいたコンスタンティノープルの地下に水をためておくための貯水池だったものですが、現在ではその幻想的な空間が観光客に人気となっています。
7世紀~11世紀:ビザンツ帝国の衰退
7世紀に入ると、東方・南方で力をつけていたアラブ人の侵入に悩まされることになったビザンツ帝国。
そこからは戦乱で国力を落としては、なんとか持ち直すといったことの繰り返しで、徐々領土は縮小していきました。
かつて広大だった領土は、11世紀までに東ヨーロッパとアナトリア半島のみとなってしまったものの、歴史あるキリスト教の大帝国として何とかその地位を保っていました。
現在ではトルコ観光のハイライトとして多くの観光客が訪れるカッパドキア。
洞窟内に作られた住居や教会の跡に見られる色鮮やかなフレスコ画を描いたのは、この時代に異民族の侵入・迫害を恐れてこの地に移り住んだキリスト教徒たちでした。
また、万が一異民族による攻撃があった際に、住民が避難するシェルターとしての役割を果たしていたのが、巨大な地下都市。
アリの巣のように複雑に入り組んだ迷路のような地下都市には、最大で数万人もの人が暮らしていたというのですから驚きです。
3.セルジューク朝時代のトルコ(1037年〜1324年)
アレキサンダー大王によってもたらされたヘレニズム文化に始まったヨーロッパ風文明が1300年ほど続いたトルコ。
その歴史における大きな転換点となったのが、東方からやってきたセルジューク朝によるアナトリア半島の征服でした。
現在のトルコ人の祖先となるテュルク人は、セルジューク朝の一地方であった現在のカザフスタン周辺からやってきた遊牧民。
現在でもトルコ人は自分たちのことを「テュルク(Türk)」と呼び、民族の起源に誇りを持っています。
- マラズギルトの戦い(1071)
・ビザンツ帝国に勝利
・中央アジアからアナトリア半島にかけて支配
- 十字軍の襲来(1095)
・エルサレムを奪われる
・首都をコンヤに遷都
- ルーム・セルジューク朝の繁栄(12世紀~13世紀)
・セルジューク朝は地方分裂。アナトリア半島はルーム・セルジューク朝に。
・政治・文化面で黄金時代
- モンゴル軍襲来(1243)
・グユク・ハンによってモンゴルの属国化
・1308年にセルジューク朝は滅亡
1071年:セルジューク朝によるアナトリア半島の支配
現在のトルクメニスタンで10世紀に成立したセルジューク朝は、西へと移動・征服を続ける騎馬民族による王朝でした。
イラン、アゼルバイジャン、イラクなどを次々と征服し、ビザンツ帝国が支配していたアナトリア半島に到達。
ビザンツ帝国軍を打ち破ったのが1071年のことでした。
それ以降、ビザンツ帝国はみるみる弱体化し、コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)周辺のみを領土とした超弱小帝国となり果てます。
イスラム王朝であったセルジューク朝は、中央アジア、イラン、中東までの広い範囲を領土とし、その文化はイスラム教をベースとして支配地域各地の美術や風俗を取り入れたものでした。
石を利用した屈強な建築物に精巧な装飾を行うのがお決まりのスタイルで、トルコ各地に残るセルジューク朝時代のマドラサ(神学校)やモスクなどにイランや中央アジア美術の雰囲気が感じられるのはそのためでしょう。
セルジューク朝時代の雰囲気を色濃く残すのが、アナトリア半島中央部のカイセリ(Kayseri)。
中心街には当時の建造物が点在し、トルコにありながらも別の国に来てしまったかのような感覚を受けます。
カイセリには、セルジューク朝時代の歴史や文化が学べる「セルジューク朝博物館」があり、こちらも必見です。
1095年:十字軍の襲来
セルジューク朝の勢いはすさまじく、キリスト教の聖地であったエルサレム(現在のイスラエル)まで支配下に置いてしまったほど。
これを重く見た当時の教皇によって、「キリスト教の聖地をイスラムから奪還する」ことを目的とした第一回十字軍が結成され、セルジューク朝の支配地域へと侵攻しました。
セルジューク朝の支配地域であったアナトリア半島を地中海沿いに進んだ十字軍は、エルサレムの奪還に成功します。
一方のセルジューク朝は、十字軍の影響を受けにくい内陸部のコンヤを首都と定め、十字軍によって征服された地域の奪還に奔走します。
セルジューク朝時代の首都が、コンヤ(Konya)。
中心街には当時の建造物がいくつか残っており、その装飾の素晴らしさには目を見張るものがあります。
12世紀~13世紀:ルーム・セルジューク朝の繁栄
いつの時代も、領土を拡大しすぎた大帝国の統治は難しいもの。
セルジューク朝も例外ではなく、イラン、イラクなどの四つの地域政権が誕生し、アナトリア半島の政権はルーム・セルジューク朝と呼ばれるようになります。
他の地域政権がどんどん没落していくのに対し、ルーム・セルジューク朝だけは発展を続け、12世紀~13世紀前半頃に黄金時代を迎えます。
支配地域にはセルジューク朝様式のマドラサ(神学校)やモスクが建設され、アナトリア半島のイスラム化が一気に進んだのもこの時代。
音楽や薬草などを利用した医学や、スーフィズム(イスラム教神秘主義)の儀式であるセマー儀式など医療・文化面でも独自の発展がみられるようになります。
現在でも行われているセマー儀式は、セルジューク朝時代にジャラル・ウッディン・ルミ(Djalāl ad-Dīn Rûmî)という人物によって生み出されたもの。
かつての首都・コンヤには、彼が眠る霊廟があるメヴラーナ博物館があり、セマー儀式の歴史や文化を学ぶことができます。
また、後にオスマン帝国の首都となったブルサ(Bursa)では、現在でも無料でセマー儀式が開催されています。
セルジューク朝時代の医学について学ぶなら、アマスヤ(Amasya)のセルジューク朝医学博物館は必見。
現在では「トンデモ医学」の烙印を押されそうなセルジューク朝時代の手術の様子などが知れるディープな博物館です。
1243年:モンゴル軍の襲来
周辺諸国でのセルジューク朝地方政権の勢力低下を尻目に、自身は栄光の時代を満喫していた、アナトリア半島のルーム・セルジューク朝。
しかし、刺客はさらに東からやってきたのです。
1243年に遥か東方からやってきたモンゴル帝国のグユク・ハンによって、ルーム・セルジューク朝は大敗。
その後、モンゴルの属国として細々と生きながらえていたものの、1308年に最後のセルジューク皇帝が亡くなったことで自動的に滅亡するというあっけない最後を迎えました。
セルジューク朝後期のモンゴル支配時代の建造物が多く残るのが、アナトリア半島中央東部のシヴァス(Sivas)。
中心街には当時のマドラサ(神学校)が残り、セルジューク朝最後の数十年間の様子を現在に伝えます。
4.オスマン帝国の成立〜発展(1326~1453年)
私たち日本人の中では、「トルコ=オスマン帝国」というイメージがかなり強いもの。
しかし、トルコの長~い歴史をたどってみると「ここでようやく登場!」といった印象を受けるのでは(笑)
ヨーロッパから中東、北アフリカまでの広い範囲を支配下においたオスマン帝国ですが、初めはただの地方政権に過ぎませんでした。
ここではそんなオスマン帝国の誕生から、超大国へと発展していく段階をたどっていきましょう。
- オルハン・ガジ(1326~1360)
・オスマン帝国の設立者。
・オルハン1世として初代皇帝となる - ムラト1世(1360~1389)
・コソボの戦いに勝利→バルカン半島征服 - ティムール(1402)
・チャガタイ・ハン国の皇帝。
・アンカラの戦いでオスマン帝国を破る
・オスマン帝国はアナトリア半島の多くの領土を失い、バルカン半島の支配も不安定に - メフメト1世(1413~1421)
・アナトリア半島再統一 - ムラト2世(1421~1451)
・バルカン半島再征服
・コンスタンティノープルを包囲 - メフメト2世(1451~1481)
・コンスタンティノープル陥落
・ヨーロッパ・中東方面に領土拡大
1326年:オスマン帝国の成立
オスマン帝国の成立に関しては、史料が少なく様々な説があるものの、1326年に現在のブルサ(Bursa)近郊で遊牧民族の長であったオスマン・ガジが組んだ軍事的集団が起源とされています。
ブルサ一帯は、すでに滅亡(1308年)していたセルジューク朝と、細々と生きながらえていたビザンツ帝国の国境に位置していた、力の空白地帯。
オスマン・ガジの没後、息子であるオルハン・ガジがその地の理を活かして、この集団を中心としてオスマン帝国を建国。
ブルサを首都と定めます。
オルハン・ガジはブルサの西にあるダーダネルス海峡を渡り、ヨーロッパ側であるガリポリ半島へと進出。
後のバルカン半島支配の礎を築き上げました。
オスマン帝国始まりの地であるブルサは、初期オスマン帝国風建築様式のモスクや霊廟などが多く残る古都。
それ以前からシルクロード交易の西の端として栄えた町は、現在でも当時の雰囲気が色濃く残っています。
1389年:コソボの戦い
オルハン・ガジ(オルハン1世として即位)の息子であるムラト1世は、父が広げた領土をさらに広げるため、ガリポリ半島を拠点にバルカン半島へと進出します。
1389年のコソボの戦いは、オスマン帝国のバルカン半島支配を決定的にしたものでした。
現在のコソボやその周辺を領土としていた、キリスト教国であるセルビア王国(現在のセルビア)は、この戦いによって大敗。
こうして、周辺のマケドニアやブルガリアなどドナウ川以南の広大な地域はオスマン帝国の支配下におかれることとなったのです。
以後、500年近くオスマン帝国の領土となったバルカン半島の国々。
しかしながら、イスラム化の進み具合は各地域によってかなりばらつきがありました。
後に「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた民族構成・宗教が入り混じって戦争が繰り返されることとなった原因の一つは、この時代にまで遡るのです。
1413年~1421年:メフメト1世・ムラト2世の統治
西へと進出を進めていたオスマン帝国でしたが、東からは新たな脅威が訪れます。
モンゴル帝国が分裂してできたチャガタイ・ハン国のティムールが、アナトリア半島中央部のアンカラにまで迫ったのです。(アンカラの戦い)
ティムールの侵攻によって、アナトリア半島のオスマン帝国領は分裂状態となり、せっかく支配下においたバルカン半島の支配も不安定となったオスマン帝国。
東も西も、領土がみるみる縮小されていきました。
そんなオスマン帝国を救ったのが、ムラト1世の孫にあたるメフメト1世でした。
メフメト1世は分裂状態のアナトリア半島各地域を再統一し、その息子であるムラト2世時代には、バルカン半島を再び制圧。
ビザンツ帝国が最後の最後まで残ったコンスタンティノープルを包囲するまでに国力を回復します。
ムラト2世がバルカン半島に進出した際に、オスマン帝国側に協力したのがアルバニアでした。
すでにイスラム化していたアルバニア人は、当時バルカン半島で力を持っていたキリスト教徒のセルビア王国に対抗しようと考えたのですが、これが見事に成功。
ムラト2世率いるオスマン帝国は再びセルビア王国を打ち破ることに成功し、バルカン半島での支配を確固たるものとしたのです。
そんなわけで、セルビアとアルバニアは今でも険悪な関係。
未解決のコソボ問題も含め、対立の根はこんなところにあったのかもしれません。
1453年:コンスタンティノープル陥落
再び勢いに乗ったオスマン帝国を阻むものは、もはや何もありませんでした。
ムラト2世が没すると、息子であるメフメト2世が皇帝に即位し、父が包囲したコンスタンティノープルへと軍を進めます。
四方を川と海に囲まれたコンスタンティノープルは、難攻不落の町として名を馳せていたものの、当時のビザンツ帝国にはそれを守るだけの力さえ残っていませんでした。
こうして、1453年にコンスタンティノープルは陥落し、ビザンツ帝国は滅亡。
アナトリア半島~バルカン半島までの広い地域を支配するオスマン帝国の栄光の時代が始まったのです。
コンスタンティノープル陥落に関して、有名なエピソードを誇るのが、ルメリ・ヒサル(Rumeli Hisar)。
イスタンブール北部に位置するこの城塞は、コンスタンティノープルに攻め込む準備をしていたメフメト2世の命で、たった4か月間で築かれたものなのです。
当時のオスマン帝国の勢いを象徴している屈強な城塞は、ボスポラス海峡のクルーズでも見ることができます。
5.オスマン帝国の栄光と衰退(1453年〜1923年)
コンスタンティノープルがオスマン帝国の手に渡った後は、街はイスタンブールと呼ばれるようになり、オスマン帝国の首都として栄光の時代を迎えます。
15世紀~16世紀は、オスマン帝国の黄金期。
ほぼ無敵の軍隊を誇り、さらに領土を拡大し、西ヨーロッパ諸国に大きな脅威を与えます。
セルジューク朝時代に受容したイスラム文化をさらに発展させたオスマン帝国。
芸術面や食文化もかなり発展し、支配地域に大きな影響を与えました。
- セリム1世(1512~1520)
・エジプトを支配下におく
・メッカ・メディナを支配下におく
- スレイマン1世(1520~1566)
・ヨーロッパ~中東~北アフリカの広い範囲を支配下に置く
・オスマン帝国の黄金時代
- マフムト2世(1808~1839)
・ロシアとの戦争に敗北
・帝国の西洋化・近代化政策
- アブデュルハミト2世(1876~1909)
・露土戦争(1878)に敗北→バルカン半島の多くの領土を失う
・恐怖政治→のちの青年トルコ革命の引き金に
- メフメト6世(1918~1922)
・第一次世界大戦敗戦後の不平等条約に調印
・オスマン帝国最後の皇帝
- ケマル・アタテュルク(1923~1938)
・対ギリシャの祖国解放戦争で活躍
・トルコ共和国初代大統領
1517~1566:セリム1世・スレイマン1世の統治時代
コンスタンティノープルを陥落させ、領土を広げたメフメト2世の孫にあたるセリム1世は、エジプトとの戦争に勝利し、支配下におくことに成功します。
これにより、オスマン帝国の支配は北アフリカにまで及び、イスラム教の聖地であるメッカ・メディナを統治したことから、イスラム世界の統一王朝としてのオスマン帝国の存在感を大きなものとします。
セリム1世の息子が、有名なスレイマン1世。
北はブダペスト、西はアルジェリアまでを支配下におき、文字通りオスマン帝国の最盛期を築き上げた人物です。
当時ヨーロッパで一世を風靡していたハプスブルク家や北方のロシア帝国と対立し、戦争に次ぐ戦争でどんどん領土を拡大していったスレイマン1世率いるオスマン帝国。
現在でもスレイマン1世はトルコ人が誇りに思う人物の一人で、彼にゆかりがあるモスクや建造物などは人気の観光スポットとなっています。
スレイマン1世にささげられたスレイマニエ・モスクは、イスタンブールの金角湾を見下ろす高台にそびえ立つ巨大な外観。
当時のオスマン帝国の勢いを象徴しているかのように壮大なモスクは、スレイマン1世に絶大な評価を受けたミマール・シナン(Mimar Sinan)による建築です。
シナンは、イスラム建築界においては知らぬ人はいないほどの著名な人物で、「オスマン帝国調」と言えば彼が設計した建造物を指すことが多いです。
いくつものパステルブルーのドーム型天井の曲線美と、屈強で四角い建物部分の直線美の融合が一番の特徴であるシナン建築。
イスタンブールでは、彼の設計したモスクが多く点在しているので、建築めぐりするのも楽しいかもしれません。
17世紀~18世紀:領土拡大の終焉と衰退
スレイマン1世による華々しい時代の後は、オスマン帝国の領地拡大はストップすることとなります。
新大陸(南北アメリカ)から銀が流入してヨーロッパの経済構図ががらりと変化したこと
1683年の第二次ウィーン包囲に失敗したこと
オーストリア=ハプスブルグ家にベオグラード(セルビア)を奪われたこと
など複数の原因が考えられます。
当時北方で強大な軍事力を誇っていたロシア帝国との対立は続いており、18世紀には数度にわたる戦争の後に敗北、黒海周辺のウクライナやクリミア半島など黒海北岸の領地をロシア帝国に割譲することとなります。
19世紀:帝国の西洋化政策~支配地域の独立
19世紀に入ると、お互いに軍事力を競い合うフランスやオーストリア、ロシアなどヨーロッパの大国が、弱体化したオスマン帝国への影響力を強めようとします。
オスマン帝国の支配地域はどんどん縮小し、アナトリア半島とシリア・イラクなどの中東地域、バルカン半島のみとなります。
大帝国の衰退を目の当たりにした皇帝・マフムト2世(在位1808年~1839年)は、西洋化改革を推し進めた人物。
「過去の栄光にすがりついているままでは発展できない」と考え、軍事や教育を始め、郵便制度の導入などの改革に努めました。
しかしながら、一度衰退してしまった大帝国を立て直すことは簡単ではありませんでした。
1877年には、支配下にあったモンテネグロ王国の独立問題に端を発した露土戦争(ロシア帝国vs.オスマン帝国)が起こり、オスマン帝国は敗北。
セルビア、モンテネグロ、ルーマニアの独立を認めさせられ、ブルガリアには大幅な自治権を与えるという屈辱的な結果となりました。
これを機に、アルバニアやマケドニアなど残りのバルカン半島の支配地域でも独立運動が高揚し、20世紀初頭にはオスマン帝国の領土はアナトリア半島とイスタンブール周辺のみ(+シリア・イラクなどの中東地域)という、現在のトルコに近いものにまで縮小してしまいます。
当時の皇帝・アブデュルハミト2世は、オスマン帝国の敗戦を受けて、自身に批判の矛先が向けられることを恐れるあまり、恐怖政治を敷いたことで知られています。
政府を悪く言うことは禁じられ、国民同士の密告が奨励されていたこの時代に民衆の不満は爆発し、後の革命と戦争の連続という混乱の時代へと繋がっていくのです。
イスタンブール新市街の町並みは、19世紀のオスマン帝国の西洋化政策を反映したもの。
西洋風の建築が連なるイスティクラル通り周辺はこの時代に整備されたもので、ヨーロッパの雰囲気が強く感じられます。
また、ガラタ橋の南側のエミノニュ地区には、シルケジ駅があります。
1883年に開通した、パリ~イスタンブールを結ぶオリエント急行の終着駅だった場所で、駅構内には小さなミュージアムが併設されています。
ヨーロッパに向けて大きく扉を開いていた19世紀のオスマン帝国を象徴するようなシルケジ駅。
レトロな駅舎も含めて、なかなか見どころがあります。
1923:トルコ共和国成立
アブデュルハミト2世の恐怖政治によって国民の間に溜まっていた不満は、1908年の青年トルコ革命によって爆発しました。
西洋式の教育を受けてきた当時の若者は、古くから続くオスマン帝国のスルタン(皇帝)制度に懐疑的で、民主化を求めた革命を起こします。
こうしてアブデュルハミト2世は、帝国の民主化を進めざるを得なくなります。
そんな中、時代は西ヨーロッパの大国の思惑が入り交じる第一次世界大戦(1914)へ。
ドイツやオーストリア、ブルガリアと組んだオスマン帝国でしたが、結果は敗退。
シリアやイラクなど、数少ない領土を割譲させられ、そこにはもうかつての大帝国の栄光はかけらも残っていませんでした。
自信の保身と引き換えに、戦勝国との間に結んだセーブル条約という不平等条約を締結したオスマン皇帝・メフメト6世に反旗を翻したのが、先の青年トルコ革命や戦時中の功績で存在感を増していたケマル・アタテュルク。
新たな政府を樹立するためにトルコ国民軍を結成したアタテュルクは、大戦後不法にトルコ西部を侵攻していたギリシャ軍を撃退し(祖国解放戦争)、西側諸国に対して不平等条約を撤廃させることを認めさせます。
アタテュルクの活躍の一方で、保身に走った皇帝メフメト6世の威厳はどこにも残っておらず、国民の間ではアタテュルクをトップとした新しい国家の樹立が望まれていました。
こうして1923年、ケマル・アタテュルクを初代大統領としたトルコ共和国が成立します。
ここに600年近く続いたオスマン帝国の長い歴史は幕を下ろすこととなったのです。
おわりに
紀元前4世紀から1923年のトルコ共和国成立まで、およそ2200年に渡るトルコの歴史を解説してきました。
書いてて筆が止まらなくなったのですが、かなり疲れました。
それはここまで読んだ読者の方も同じだと思います(笑)
しかしながら、トルコの歴史の豊かさはまだまだこんなものではありません。
国土の大部分を占めるアナトリア半島では、ヘレニズム文化がもたらされるよりも前から独自の文明が発展していましたし、アタテュルクによるトルコ共和国設立前後の歴史はもっと詳しく知っておくべきです。
知れば知るほど、その奥深さに夢中になってしまう魔法のようなトルコ沼。
歴史に関しても、きっと同じことが言えるでしょう。
トルコ旅行の際には、モスクや歴史スポット、遺跡などの文化的な場所の観光が多くなるもの。
その際に、少しでも歴史を知っているかどうかで、観光の満足度は大きく変わります。
有名な場所をさっさとまわって、写真だけ撮って、はい終わり。
そんなスタイルの観光から、一歩踏み込んでみましょう。
きっと、トルコという国に対してもっと興味が湧いてくることは間違いありません。
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