こんにちは!ジョージア南部のサムツヘ=ジャワヘティ地方をのんびり旅行中、世界半周中ののぶよ(@nobuyo5696)です。
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このエリア最大の町・アハルツィヘから11km離れた深い山の中に、1000年以上の歴史を持つ美しい修道院があります。
それが、サパラ修道院(Sapara Monastery / საფარის მონასტერი)。
山々の深い緑に浮かび上がるようなピンク色の修道院の遠景は、まるで絵画の世界に迷い込んでしまったかのような印象を与える素晴らしいもの。
異教徒であろうともこの場所の神聖で厳かな雰囲気が肌で感じられ、聖地たる威厳に包まれています。
サパラ修道院は、中世以降激動の歴史をたどってきたジョージアという国の縮図のような存在。
度重なる異民族の侵攻や大国による支配を受けながらも、祈りの場所としての機能を現在にまで残している場所です。
また、サパラ修道院の歴史は、サムツヘ地方(=アハルツィヘ周辺)の歴史を象徴するもの。
この聖地の一番の特徴は、ジョージア他エリアでは13世紀のモンゴル帝国襲来時に多くの城塞や宗教施設が破壊されたのとは対照的に、破壊を免れて現在にまでオリジナルの建物が残っていることでしょう。
そんな背景から、一度も異民族による攻撃を受けずに建設当時の姿を残す「奇跡の聖地」として語られることもあるのだとか。
一時は放置されて無人になったり、宗教活動が禁止されたりと、激動の歴史をたどってきたサパラ修道院。
現在では修道院としての機能を取り戻し、周辺の住民はもちろんジョージア各地から多くの人々が巡礼に訪れる場所となっています。
今回の記事は、サパラ修道院の観光情報を解説するもの。
サムツヘ地方の独自の歴史にもスポットライトを当てているので、この土地のことを深く理解しながらの観光に役立つはずです。
ジョージア国内でも有数のピリッとした聖地感が感じられるサパラ修道院。
個人でのアクセスには難ありですが、苦労して訪れる価値は十分にありますよ!
サムツヘ地方とサパラ修道院の激動の歴史
中世ジョージア王国時代(10世紀〜13世紀前半):サパラ修道院の成立と黄金時代
この山深い地に修道院が建設されたのは、10世紀後半(1050年前)のことだと考えられています。
当時のサムツヘ地方一帯は、南に位置する中世アルメニア王国の支配から、現在のトルコ東部から領地を拡大してきたジャケリ一族(Jakeli Family)の支配へと権力が移りつつあった過渡期。
誰が、どうしてこの場所に祈りの場を作ろうと考えたのかは解明されていませんが、キリスト教を軸にこの地域を統治したジャケリ一族が、自身の権力を誇示するものとして小さな石造りの教会を建設したのがサパラ修道院のはじまりだと考えられています。
サパラ修道院敷地内の各教会の入口には、ジョージアの古いアルファベットであるアソムタウルリ(Asomtavruli)が用いられたレリーフが設置されています。
アソムタウルリが使用されていたのは9世紀頃まで(1200年前)と、サパラ修道院の成立よりも前のことですが、ジャケリ一族はあえて古いジョージア文字を使用することでこの地の伝統を演出しようとしたのかもしれません。
11世紀初頭~13世紀初頭(1000年前~800年前)のジョージアは、中世ジョージア王国のキリスト教文化が花開いた黄金時代そのものでした。
ここサムツヘ地方でもジャケリ一族の統治下で平和な時代が200年以上続き、アハルツィヘのラバティ城の敷地を拡大して城下町が整備されたりと、人々は黄金時代を謳歌していました。
モンゴル軍の襲来(13世紀前半):ジョージアで唯一モンゴル帝国と手を結び独立国家に
黄金時代を突き進んでいた中世ジョージア王国に激震が走ったのが、13世紀前半(800年前)のモンゴル帝国の襲来と侵攻でした。
最強の騎馬部隊を誇ったモンゴル帝国に対して、中世ジョージア王国の軍はあまりにも無力。
あれよあれよという間に領土を侵攻され、王国内の城塞や宗教施設の多くが攻撃を受け破壊されてしまいます。
しかしながら、当時中世ジョージア王国から半独立状態にあったサムツヘ地方では、状況が大きく異なりました。
相変わらず強大な権力でこの地を支配していたジャケリ一族の長であったサルギス・ジャケリ(Sargis Jakeli)は、モンゴル軍との話し合いの結果、友好条約を結ぶことに成功し、サムツヘ地方への敵軍の侵攻&攻撃を食い止めることに成功したのです。
モンゴル帝国によるジョージア地域の支配は長くは続かなかったものの、ほとんどの地域は度重なる戦闘により疲弊していました。
資金難から、破壊された教会や修道院が放置されてしまうケースも多くあり、中世ジョージア王国のキリスト教文化黄金時代はここに終焉を迎えます。
そんなジョージア他エリアの衰退を尻目に、ジャケリ一族が統治するサムツヘ地方では平和な時代が続き、中世のキリスト教文化の黄金時代が続きます。
モンゴル軍撤退後の13世紀後半から14世紀にかけて建設されたのが、サパラ修道院で最大の建造物である聖サバ教会。
「聖サバ」(St. Saba)というのは、サルギス・ジャケリ(モンゴル軍と友好条約を結んだジャケリ一族の長)が、後に自身が修道僧として出家した際に改名した聖名。
聖サバ教会を完成させたサルギスの息子・ベカ(Beka)が、父親の聖名を冠した名をつけたものです。
聖サバ教会内部に残るフレスコ画は、14世紀の完成時に施されたオリジナルのもの。
素晴らしいフレスコ画を見ていると、当時ジャケリ一族の統治下でいかにサムツヘ地方のキリスト教文化が黄金時代にあったのか、肌で感じることができます。
異民族による侵攻〜オスマン帝国支配時代(15世紀〜18世紀):修道院の閉鎖
モンゴル帝国の襲来以降、かつての栄光は影も形もなくなりつつあった中世ジョージア王国。
虫の息だった王国にとどめを刺したのが、1400年に現在のウズベキスタンから襲来したティムール朝と、その後に現在のトルクメニスタンから襲来した黒羊朝でした。
度重なる異民族の侵攻に耐えうる力はもう中世ジョージア王国には残っておらず、1466年に王国は完全に崩壊。
以後しばらくは、地域ごとに独立王朝が林立する群雄割拠状態に陥ります。
いっぽうのサムツヘ地方では、異民族侵攻による被害が少なかったことと、もともとジャケリ一族の統治下で中世ジョージア王国から半独立状態にあったことが幸いし、群雄割拠状態で混乱の最中にあった他地域を尻目に発展を続けます。
500年以上続いた、ジャケリ一族によるサムツヘ地方の黄金時代。
その終焉は、西方で強大な軍事力を元に領地をどんどん拡大していたオスマン帝国(現在のトルコ)の侵攻によるものでした。
16世紀~17世紀(500年前~400年前)にかけてのオスマン帝国は、北はバルカン半島、南はアラビア半島、西は北アフリカまでを支配する超巨大帝国。
ジョージア南部のいち地域のいち一族が敵う相手ではなく、あっという間にサムツヘ地方はオスマン帝国の占領下に入り、サパラ修道院などのキリスト教施設はすべて閉鎖されることとなります。
オスマン帝国による統治時代前後に建設されるようになったのが、現在ではサムツヘ地方伝統とされる半地下に居住スペースがある石造りの民家。
丘の傾斜を利用して居住スペースが半地下になるように工夫されており、遠目ではこれが民家だとは分からないようになっています。
また、トルコ人が攻めて来た際にこっそり逃げられるように、半地下部分と地上を結ぶ秘密のトンネルが設置されているのも興味深い点。
当時のサムツヘ地方の人々が敵の襲来からどのように自分たちの身を守ろうとしたのか、一目見るだけで理解できます。
ロシア帝国統治時代(19世紀〜20世紀初頭):ロシア正教会として利用される
サムツヘ地方をはじめ、ジョージア西部地域で長らく続いたオスマン帝国による統治。
再び支配者が入れ替わったのは、1893年のことでした。
ジョージアの東部・西部ともにロシア帝国の支配下に入ることとなり、長らく閉鎖されていいたサパラ修道院はロシア正教会として利用されることになりました。
中には、この場所を気に入って住み着いたロシア帝国の富裕層まで居たそうです。
ソ連統治時代(1921年〜1991年):宗教行為の禁止
1921年にジョージアがソ連の統治下に入ると、ソ連中央政府によって一切の宗教活動が禁止された影響で、サパラ修道院は再び閉鎖されることに。
非宗教的アクティビティーのみ許可されていたようで、この場所をプラネタリウムなどの別の施設に改装する計画まで立ち上がっていたそうです。
独立後(1991年〜):サパラ修道院の復活
サパラ修道院が再び聖地としての機能を担いはじめたのは、1991年のソ連崩壊&ジョージアの独立以降のことでした。
70年間にも及んだソ連時代の宗教行為の禁止を乗り越えて修道僧が戻り、現在に至るまで祈りを捧げながら生活する人々の姿が見られます。
サパラ修道院の見どころ
サパラ修道院の敷地はそれほど大きなものではなく、ゆっくりと観光しても1時間あれば十分にまわれる規模。
敷地内の各建物には説明書きなどはいっさいなく、どれがどんな歴史を持つ建物なのか分かりにくいのが難点です。
サパラ修道院の敷地内には大小合わせて12の教会があるのですが、名称が定かでないものがほとんど。
敷地内の代表的な教会と、修道院全体を見渡せるサパラ宮殿跡の4つの見どころを解説していきます。
注意したいのが、この場所は聖なる空間であること。
修道院訪問時のドレスコードはきちんと守り、大声で喋らない&フラッシュを焚いての写真撮影をしない等の基本的なマナーは遵守するようにしてください。
・男女共通:肩が隠れる服(タンクトップはNG) / 長ズボン or ロングスカート / 踵が隠れる靴(サンダルNG)
・女性のみ:髪を覆うスカーフ(聖サバ教会では貸出あり)
聖サバ教会
13世紀後半~14世紀(750年前~700年前)にかけて建設された聖サバ教会(St. Saba Church)は、文句なしのサパラ修道院のメイン建造物です。
中世ジョージア王国の黄金時代(11世紀初頭~13世紀前半)からは少しずれた時代の完成ですが、その建築様式は伝統に忠実なもの。
聖サバ教会の入口は2か所あり、そのどちらも凝った装飾が素敵。
重い鉄の扉を抜けて内部に足を踏み入れると、息を呑むような光景が広がっていました。
教会の内壁をびっしりと覆うフレスコ画は、すべて14世紀(700年前)のオリジナル。
剥がれ落ちてしまったり色褪せてしまっている部分も目立つものの、全体的にかなり良好な保存状態です。
とにかく神聖で、厳かな雰囲気が漂う聖サバ聖堂の内部。
お祈りに訪れているジョージア人も数名おり、みんな熱心に祈りを捧げている姿がとても印象的です。
▲ 教会正面(南側)の壁には、キリストの姿を描いたフレスコ画の下に、サルギス・ジャケリとベカ・ジャケリの姿も描かれています。
「サムツヘ地方とサパラ修道院の激動の歴史」の項で解説した通り、サルギスはモンゴル帝国からサムツヘ地域を守った人物で、その息子のベカは聖サバ聖堂の建設を命じた人物。
二人の統治者の姿は聖人として描かれ、現在にまでその魂を残しているかのようです。
▲ 聖サバ教会北側の回廊の天井に施された石のレリーフも圧巻。
こちらも700年前のオリジナルだそうで、当時の建築技術の高さに感嘆させられます。
聖ギオルギ教会
聖サバ教会の脇にある小さな祠のような建物が、聖ギオルギ教会。
「聖ギオルギ」とは、中世ジョージア王国発祥とされる聖人伝説の主人公のことで、馬に乗ってドラゴンを退治した逸話でしられています。
聖ギオルギ教会正面上部には、十字架をモチーフにしたレリーフと古ジョージア文字であるアソムタウルリが。
最上部には馬に乗ってドラゴンに剣を突き刺す聖ギオルギの姿を描いたレリーフが施されています。
鐘楼(ベルタワー)
聖サバ教会を見下ろす場所にたたずむのが、鐘楼(ベルタワー)。
聖サバ聖堂の建設と同時期である14世紀に完成したもので、現存しているオリジナルの鐘楼の中ではジョージアで最も古いものの一つなのだそうです。
サパラ宮殿跡
サパラ修道院の黄金時代を築いたジャケリ一族が、修道院すぐそばに別宅として建設したのがサパラ宮殿。
「宮殿」というよりも「城塞」といった雰囲気ですが、かつてはこの石造りの建物にサムツヘ地方の支配者が滞在していたそう。
サパラ修道院全体を見渡せる、小高い山の上に位置しています。
▲ サパラ宮殿への入口となるのは、サパラ修道院の入口の門から50mほど歩いたポイントの石の階段。
ここからかなり急な山道を登ること10分ほどで、山の頂上にたたずむかつての宮殿に到着します。
宮殿自体にはかつての面影はなく、完全に放置された廃城塞といった感じ。
見ごたえ自体は微妙ですが、急な山道をわざわざここまで登る価値は十分にあります。
なぜなら、サパラ宮殿からはサパラ修道院の敷地と周辺の山々の風景を一望できるため。
建築様式や雰囲気も素晴らしいサパラ修道院ですが、正直この眺めこそが観光のハイライトだと思います。
聖サルギス教会の周辺には木々が生い茂っていて視界を遮ってしまうため、ここまで建物の全体をちゃんと見られる場所は他にありません。
時折響き渡る鳥の鳴き声と風の音以外には何も聞こえない静寂。
深い緑に浮かび上がる聖地の姿は、お隣アルメニアのハガルツィン修道院を思わせる絶景でした。▼
サパラ修道院へのアクセス・行き方
サパラ修道院が位置するのは、サムツヘ地方最大の町であるアハルツィヘから南に11kmほどの深い山の中。
アクセス拠点はアハルツィヘ一択となります。
サパラ修道院へのアクセスを難しくしているのが、マルシュルートカなどの公共交通機関が存在しないこと。
多くの場合はアハルツィヘからタクシーをチャーターして往復することになるでしょうが、徒歩で往復することも不可能ではありません!
①アハルツィヘからタクシーチャーター
サパラ修道院への最も簡単なアクセス方法が、アハルツィヘで往復のタクシーをチャーターしてしまうこと。
サパラ修道院には客待ちのタクシーは存在しないので、片道での利用は非現実的です。
料金相場は、アハルツィヘ~サパラ修道院間の往復 + 観光待機時間1時間で40GEL~50GEL(=¥2000~¥2500)ほど。
個人的には、サパラ修道院の往復観光だけでなく、丸一日タクシーをチャーター(150GEL~200GEL=¥7500~¥10000)して周辺の他の見どころもセットでまわるのがおすすめです!
②アハルツィヘから徒歩
「自分の足で歩いて行けない場所などこの世にない!」と信じてやまないのぶよタイプの旅行者におすすめなのが、アハルツィヘ~サパラ修道院間を徒歩で移動すること。
片道11km/往復22kmとかなりの距離&アップダウン多めの道のりで、正直かなり疲れますが、往復5時間半~6時間ほどの移動時間なので日帰りも余裕です。
アハルツィヘ~サパラ修道院間徒歩コース詳細
・所要時間:行き→3時間15分~3時間45分 / 帰り→2時間30分~3時間
・距離:片道11km
・高低差:▲▼377m
行きは9割方上り / 帰りは9割方下りのコースなので、とにかくしんどいのは往路。
逆に復路は比較的楽に歩け、景色を楽しむ余裕も出てくると思います。
サパラ修道院までは一本道なので、ヒッチハイクしてしまうのもアリ。
しかしながらこの道路は交通量がかなり少なく、たまに通る車も家族全員でお祈りに訪れるジョージア人(=空席がない)か観光客を乗せたタクシーくらいなので、あまりヒッチハイクに期待するのも微妙だと思います。
その長い距離と高低差のため、万人におすすめはできない徒歩移動ですが、サパラ修道院の遠景が目に入る瞬間の感動はものすごいものがあります ▼
また、サパラ修道院への道のりの途中には、自家製ビールを醸造している地ビールレストラン”Lager Bräu”があるのも見逃せません。
頑張って歩いた自分へのご褒美に、キンキンに冷えた絶品ビール。
とにかく極上なので、立ち寄ってみるのもおすすめです!
おわりに
「奇跡の聖地」サパラ修道院の激動の歴史や見どころを解説してきました。
個人でのアクセスに難ありなこともあってか、その地名度の割に訪れる旅行者の数はかなり少なめ。
しかしながら、苦労して訪れる価値は十分にあります。
アハルツィヘの地元の人々が「サパラ修道院にはもう行ったか?絶対に行っておけ!」と激推ししてくるのも納得の聖地感と素晴らしい風景。
アハルツィヘ滞在時のデイトリップ先候補のひとつとして、ぜひプランに組み込んでみては?
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