こんにちは!ジョージア滞在ももう半年。世界半周中ののぶよ(@nobuyo5696)です。
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独立から約30年。
現在でこそ観光客や海外からのビジネスを呼び込む政策の下で発展しつつあるジョージアですが、かつてはソビエト社会主義連邦(ソ連)の構成国として、70年ほどの社会主義時代を経験しました。
ソ連時代の影響は今でも色濃くこの国に見られ、首都のトビリシの大部分にも旧ソ連感が強い町並みが広がっています。
ジョージアのソ連支配時代がどんなものだったのか当時を経験した世代の人に尋ねると、その声はさまざま。
「あれはソ連による占領だ!屈辱の70年だ!」と黒歴史のようにとらえる人もいれば、
「あの頃はみんな平等で良い時代だった…」と語る人もいるほどです。
のぶよのようにソ連時代を知らない世代にとっては、何となくネガティブなイメージが先行してしまうソ連支配時代ですが、実際の所はどうだったのでしょうか。
トビリシの中心街には、70年に及ぶジョージアのソ連支配時代に焦点を当てたミュージアムがあります。
それが、ソビエト占領博物館(საბჭოთა ოკუპაციის მუზეუმი)。
「占領( ოკუპაციის )」という単語を使っていることから、ソ連時代を良いものと捉えている展示内容ではないことが想像できます。
今回の記事では、「ジョージアの負の歴史」とも言えるソ連時代に焦点を当てた博物館内部の見どころや当時のジョージアについて解説していきます。
ソビエト占領博物館見学のポイントを押さえて、ソ連時代のジョージアを知る
ソビエト占領博物館は小さなホールのような場所で、30分~1時間ほどで十分に見学することが可能。
その展示内容は、主に三つのテーマに重点がおかれたものです。
時代ごとに展示内容が分かれており、英語での説明ボードもあるので、ジョージアが経験した70年のソ連時代を追体験するように鑑賞することができます。
ここでは、ソビエト占領博物館の展示内容を時代順に、簡単に解説していきます。
大まかな年表を知っておくと分かりやすいかもしれません。
- 1918~1921つかの間の独立時代
・ロシア帝国から「グルジア民主共和国」として独立
・1921年、ソビエト赤軍によってトビリシ占領 - 1922ソ連による支配の開始
・「市民はゲリラ戦で対抗→ソ連政府は武力で制圧」という大混乱の時代
- 1937スターリンの大粛清
・言論統制の下で、文化人や政治家など反体制派が次々に処刑される
- 1978ジョージア語の地位を守るデモの成功
・ソビエト連邦政府は、ジョージアでのロシア語の公用語化を断念
- 1991独立
つかの間の独立時代→ソ連による占領(1918年~1922年)
それまで100年近くに渡ってロシア帝国の一部であったジョージアですが、大きく状況が変わったのが1917年に起こったロシア革命。
翌年の1918年、ジョージア民主共和国として独立を達成することとなりました。
オスマン帝国、ペルシア、ロシアなど、中世からずっと大国の支配下に置かれてきたジョージア。
ようやくジョージア民族の国としてやっていこうと喜んでいたのもつかの間のことでした。
独立からわずか3年後の1921年、ロシア帝国に代わって成立したソビエトの赤軍が侵攻してきて、首都のトビリシを占領される事態となります。
こうしてつかの間のジョージア民主共和国時代は終焉し、翌1922年にはソビエト社会主義連邦を構成する共和国の一つとしての時代が始まっていくのです。
市民がゲリラ戦で対抗→ソ連政府による武力行使の混乱の時代(1922年~1924年)
ソビエト占領博物館で主要テーマの一つとなっていた展示が、1922年~1924年にかけてのソ連に編入(彼らは「占領」と呼ぶ)されて間もない時代について。
かりそめの独立を踏みにじられた形となったジョージアの人々の怒りは収まらず、市民は武装してゲリラ的手段で中央政府に暴力的に対抗する手段に出ました。
しかしながら、超大国のソビエトの前では、ジョージア市民によるゲリラを一掃することなど朝飯前。
ボリシェヴィキ( большевики )と呼ばれるレーニン支持派・暴力による中央統治を唱える一派によって、反体制的運動に加担した人々は躊躇いなく殺害されました。
反体制派や思想が異なる者に容赦なかったボリシェヴィキは、チェーカー( Чека )という秘密警察によって市民を見張り、場合によっては銃殺するという恐ろしい政策が行われました。
博物館入口にある鉄道の客車の一部(オリジナル)は、1924年にチェーカーによる銃撃を受けたもの。
中には反・ボリシェヴィキ運動に参加しようと移動していた人々が乗っていました。
自動小銃による銃撃を受けた客車の壁は、まるで蜂の巣のように無数の穴が空いていました。
こうして反体制運動に参加した人々は見せしめのように殺害され、貴族層や聖職者などジョージア社会で影響力のある人物を次々と処刑したソビエト政府。
1926年頃までにはソビエト政府に反対する運動も下火となってしまい、ソ連のいち構成国として歩んでいく姿勢が強くなりました。
スターリンの大粛清(1937)
ソビエト占領博物館で最大のスペースが割り当てられているコーナーが、1937年に行われたスターリンによる大粛清について。
「大粛清」とは、 スターリンの社会主義思想に反するジャーナリストや芸術家、詩人などを次々に銃殺刑に処した恐ろしい政策です。
スターリンはジョージアのゴリという町出身の人物ですが、その思想は急進革命家そのもの。
ソビエトの社会主義的な中央集権に何よりも固執し、反対するものは次々に処刑した人物で、自身の祖国・ジョージアだからといって情をかけることはありませんでした。
展示コーナーの一角には、当時銃殺刑に処されることとなった人々が収監されていた小部屋を再現したものがあります。
見るからに劣悪な環境で、恐ろしさが伝わってきました。
大粛清が主に行われたのは1937年~1938年にかけて。
その後は徐々に反政府思想は薄まっていったと言われています。
ジョージアがソ連に占領された1921年から1941年の20年間の恐怖と混乱の時代で、中央政府によって殺害された人数は72000人にのぼるそう。
他にも20万人が国外退去を余儀なくされ、生まれ育ったジョージアから離れることとなりました。
当時のジョージアの人口が400万人ほどだったので、たった20年間で人口の7%近くが殺害/国外追放されたことになります。
民族意識の高まり~独立へ(1978~1991)
大粛清の後は、第二次世界大戦にソビエト軍として参戦を強いられ、さらに多くの人々が戦死することとなったジョージア。
独裁者による支配への恐怖と戦争による混乱の時代は、1953年にスターリンが死去するまで続きます。
スターリンの後継者となったウクライナ人のフルシチョフは、「スターリン批判」を行ったことで有名な人物。
恐怖の時代は幕を下ろし、「理想的な社会」を目指すソビエト後期の新しい風がジョージアに吹くことになります。
それからは結構平和な時間が流れていたジョージアですが、その流れに変化が訪れたのが1978年のこと。
それまでのジョージアでは、憲法によってジョージア語が唯一の公用語であることを認められていたのですが、公用語をジョージア語とロシア語の二言語にするという政策がとられそうになったのです。
当時の最高指導者は、 ブレジネフという人物。
スターリン時代に懐疑的だったフルシチョフに代わって最高指導者となった人物です。
・スターリン崇拝
・中央集権体制の強化
など、いわば「第二のスターリン時代の訪れ」といった政策を次々に実行しようとしました。
1978年の4月14日のこと。
ブレジネフによるロシア語の公用語化に反対する人々がトビリシの通りを埋め尽くす大規模なデモ行進を行い、中央政府はこの政策を諦める結果になりました。
時は社会主義・共産主義陣営だった中欧・東欧・バルカン諸国に民主化の波が押し寄せていたころ。
ジョージア語を守るこの運動をきっかけに、ジョージアでも民族意識が高まり、民主化&独立への機運が強くなっていきました。
1989年にソビエト軍によってジョージア人20人が殺害された事件をきっかけに、ソビエトからの独立運動はさらに加速し、1991年の4月9日、ジョージアは晴れてソビエト連邦からの独立を達成しました。
ソ連崩壊後も続くロシアとジョージアの対立
ジョージアはバルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニア)とともに、ソ連崩壊(1991年12月26日)以前に自力で独立を達成した4か国の一つ。
(残り10か国はソ連が崩壊したことで自動的に生まれた)
ソ連崩壊直前に生まれた旧ソ連の国々による連合であるCIS(独立国家共同体)にもこの四か国は加盟せず、ソ連の後を継いだロシアと決別する形となりました。
ロシアとジョージアの間には現在でも根深い溝があります。
過去に「占領」されていた歴史的な問題はもちろん、ジョージアの国土の20%に及ぶ面積である南オセチアとアブハジアの二地域が、ロシアによって占領されているような状態となっておいるため。
しかしながら、投資による経済の発展や観光業の振興のためには、大きな購買力を持つロシアとの結びつきを無視することはできないため、ジョージア国民の対露感情は複雑なようです。
ソビエト占領博物館のその他の見どころ&基本情報
実は、ソビエト占領博物館は独立した一つのミュージアムではなく、ジョージア国立博物館内にある展示ホールの一角という立場。
(もしかしたらロシアに配慮したからなのかも)
ジョージア国立博物館は、先史時代~中世にかけてのジョージア地域での出土品などの貴重な展示が行われている場所。
ソビエト占領博物館とセットで見学していくのがおすすめです。
(入場料金はセットになっているので、ソビエト占領博物館見学者は無料で見学できます)
先史時代の出土品
ジョージア国立博物館の地下~2階部分にかけてのメインの展示内容が、ジョージア地域での古代の出土品の展示。
古いものでは紀元前10世紀頃(3000年前)の出土品もあり、古くからこの地域に人間が居住して文明社会が発展していたことを知ることができます。
特筆すべきが、金を使った装飾品などの多さ。
ジョージアはかつて金の産地として有名だったそうで、まばゆいばかりの黄金がちりばめられた美しいブレスレットやイヤリング、王冠などの貴重なコレクションが展示されています。
ジョージア各地の民族衣装
ジョージア国立博物館二階部分にあるのが、ジョージア各地域伝統の民族衣装が展示されたコーナー。
アジアのエキゾチックさととヨーロッパのスタイリッシュさが調和したような独特の民族衣装の数々は、どれもかなり美しいです。
19世紀頃までは日常的に着用されていたそうですが、現在では山奥の村でもほぼ見ることができないそうです。残念。
民族衣装の展示コーナーに関しては数が限られており、興味がある人には物足りないかもしれません。
そんなときは、トビリシ郊外のヴァケ地区にある野外民族博物館へ足を運びましょう。
ジョージア各地の伝統家屋をそのまま移築したものが展示パビリオンとなっていて、各家の中に伝統衣装や生活用品がそのまま残されています。
古代の出土品よりも民族文化や建築に興味がある人には、こちらにもぜひ訪れてほしいものです。
ソビエト占領博物館の基本情報
ソビエト占領博物館は、ジョージア国立博物館の3階部分に位置しています。
ソビエト占領博物館だけでの入場はできず、ジョージア国立博物館全体の料金(10GEL=¥350)を支払って入場する必要があります。
博物館の地下~2階部分には古代のジョージア一帯地域の出土品が主に展示されており、近世のソ連時代とのコントラストもなかなか面白いですよ。
おわりに
ジョージアのソ連支配時代を今に伝えるソビエト占領博物館の展示内容を元に、ソ連時代のジョージアの歴史を簡単にたどってみました。
小さな展示コーナーなため、展示内容は「超充実」といったものではありませんが、この国で過去に起こったことを知ることができる場所の一つとして、訪れる価値はあると思います。
のぶよ的に残念だったのが、ソビエトによって苦しめられた過去に焦点を当てているためか、 ソビエト占領博物館内では「古き良きソ連」時代の展示がほとんどない点。
この博物館の展示だけを見ると「ソビエト時代はただの恐怖の70年間だった」という印象を持ってしまうかもしれません。
しかしながら、1950年代以降(スターリンによる恐怖政治以降)に生まれてソ連社会で生きた人々が「ソ連は良かった」と口を揃えて懐かしがるのにも理由があると思います。
のぶよ的には、スターリンが死去した1953年を境にソ連時代(ジョージアに限らず他の旧ソ連の国も)は大きく二つに分けられると思います。
前半の恐怖の時代に焦点を当てたミュージアムは、トビリシ以外にもリヴィウ(ウクライナ)やタリン(エストニア)など、旧ソ連の構成国ではよく見られるもの。
一方で「意外とみんな結構楽しく生きていた」と言われる後半の時代に関する博物館はあまり多くありません。
ご存じの方がいたら、教えてください!
スターリン生誕の地・ゴリでは、彼の一生に焦点を当てた「スターリン博物館」があるそうなので、訪れた時にはまた記事にしたいと思います。
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