こんにちは!ジョージア滞在も間もなく1年半、世界半周中ののぶよ(@nobuyo5696)です。
(世界半周についてはこちらの記事へどうぞ。)
ジョージア中部のシダ・カルトリ地方の中心都市・ゴリ。
トビリシから1時間少々とアクセスしやすいこともあり、外国人旅行者も多く訪れる町です。
旅行者がこの小都市を訪れる理由の99%は、スターリン博物館の存在ではないでしょうか。
スターリンとは、言わずと知れたソヴィエト連邦(以下「ソ連」)の最高指導者。
実は彼はロシア人ではなくジョージア人で、ここゴリの出身なのです。
スターリンが統治していた時期のソ連は農業の集約化や工業化に成功し、第二次世界大戦ではナチス・ドイツや大日本帝国を相手に戦い、戦勝国となりました。
国力が一気に増大したため、「ソ連の英雄」として支持する人もいまだに存在します。
いっぽうで、「大粛清」と呼ばれる反体制派の弾圧などの独裁体制でも知られ、「スターリン=悪の帝王」といったイメージも根強く残っているのも現実。
人によって評価が大きく割れるスターリンという人物。
彼の生涯に焦点を当てたのが、生まれ故郷のゴリに建つスターリン博物館なのです。
館内には、彼の功績を現在に伝える写真や、愛用品が数多く展示されています。
効率良く見学するなら、スターリンに関する知識を事前につけておいて、ミュージアム内の展示に関してだいたいのポイントを押さえておくのがおすすめ。
というわけで、今回の記事はゴリのスターリン博物館見学に必要な情報をまとめたものです。
館内には英語のインフォメーションがほとんどなく、何も知らずに見学したところで「???」となってしまうかも。
この記事を読んでおけば、ジョージアが生んだ指導者に関して理解が深まること間違いありません!
スターリンとは?知られざる人物像とジョージア国民の複雑な思い
「スターリン」と聞いて、良いイメージが浮かんでくる人は少数派なのではないでしょうか。
社会主義体制であったソ連という国が成立した当初から要職に就いていたスターリン。
最高指導者となった後は、アメリカと並ぶ超大国へとソ連を導く土台を作った人物です。
いっぽうで、スターリンの悪いイメージは独裁的な政治体制によるものが大きいでしょう。
旧ソ連圏でも評価が大きく分かれる人物ですが、生まれ故郷であるジョージア国民の感情はさらに複雑なものがあります。
この項では、ミュージアム観光前に知っておきたいスターリンという人物に関しての最低限の知識をシェアしていきます。
実際にのぶよが見学した際に、ガイドが語っていた内容も含めて解説していきます。
悪の独裁者?英雄?スターリンの一生
1878年にジョージア(当時はロシア帝国領)のゴリに生まれたヨセフ・ベサリオニス・ゼ・ジュガシヴィリ(იოსებ ბესარიონის ძე ჯუღაშვილი)。
この子供こそが、のちにヨセフ・スターリンとしてソ連の最高指導者となる運命の人物でした。
彼の家庭は裕福ではありませんでしたが、学業では超優秀な成績をおさめます。
しかしながら、当時のマルクス主義(社会主義思想)に徐々に傾倒し、1899年(21歳)には革命家となり、ロシア帝国の転覆を企てるようになりました。
自身を「スターリン(ロシア語で「鋼鉄」の意味)」と名乗り、数々の政府転覆活動を企ててはシベリアなどへ流刑に処されていました。
1917年(39歳)に起こったロシア革命において、レーニンの独裁体制が成立しソヴィエト社会主義共和国連邦が成立すると、スターリンは要職に就き権力を拡大。
1924年(46歳)のレーニン没後には、ソ連の最高指導者としての立場を手にします。
最高指導者となった後のスターリンは、権力を最大限に行使した独裁的な政治手法をとります。
その強権ぶりはすさまじく、1930年代半ばには「大粛清」と呼ばれる反体制派の弾圧をおこない、100万人以上が収容所に収監されたと言われているほど。
1940年代前半の第二次世界大戦においてはナチス・ドイツと戦い(独ソ戦)、最終的に勝利。
また、アジア方面では大日本帝国に攻め込み、ソ連を戦勝国へと導きました。
こうしてアメリカに並ぶ超大国へとソ連を導いたスターリンでしたが、それは同時に東西冷戦の始まり。
大戦後の1940年代後半は、社会主義陣営の拡大に尽力します。
1953年に74歳でこの世を去るまで、30年近い激動の時代においてソ連を超大国へと導き続けたのがスターリンという人物。
そのいっぽうで、反対勢力の弾圧など、無慈悲なほどに強権を行使していたことは事実だと思います。
スターリンの意外な一面
「鋼鉄」の意味の名を自分につけたスターリンのイメージは、冷血で無慈悲なものに思えます。
しかしながら、実際のスターリンの人物像は私たちの想像とは異なる部分も。
ミュージアム見学時のガイドによると、思ってもいなかったような一面があったそうで驚きました。
・実は人前での演説が不得意で、文章を書いて読み上げることを好んだ
・身長は163cmしかなく、シークレットブーツを着用して高く見せていた
・普段はあまり人と接することを好まなかった
・顔には天然痘の後遺症であばたが多くあり、写真はすべて修正して肌をきれいに見せていた
・酒好きで、酒を飲むと饒舌になった
・自身の暗殺を何よりも恐れ、食事の際は必ず部下に味見をさせていた
・酒席で自分よりも先に他の人が退席/眠ることを許さなかった(居眠りした人にはトマトを投げつけたそう)
・いたずら好きで、椅子にトマトを置いて職員が気づかずに座るのを待っていた
「鋼鉄」という名が示す冷酷で無慈悲で完全防備なイメージとは異なり、実は小柄で臆病で内向的な性格だったスターリン…
酒好きだったり、自身の見た目を気にしたりと、なんとなく人間臭い部分も感じられます。
(あと、やたらトマトに関する逸話が多いのはなぜなのか…)
スターリン博物館内には、多くの写真とともにスターリンの愛用品の数々が展示されており、ベールに包まれた彼の実像をイメージすることができるかもしれません。
ジョージア人も複雑な感情?スターリン博物館について
ゴリのスターリン博物館がオープンしたのは、スターリンが死去してから4年後の1957年のこと。
その建物は、まるで聖域や神殿を思わせるほどに巨大で豪華なTHE・スターリン建築。
彼の功績や生涯を讃える展示が目白押しで、オープン当初は「スターリン崇拝の中心地」のような存在でした。
今も昔も、スターリンはソ連統治の象徴的な人物。
そのため、ジョージアでソ連からの独立の機運が高まった1989年にミュージアムは一度閉鎖されますが、ゴリの観光の目玉として(ゴリ市民の強い希望もあって)再オープンします。
2008年の南オセチア紛争をきっかけにジョージア(当時はグルジア)とロシアの関係が悪化すると、スターリン博物館自体が「ソ連統治を美化する負の遺産」とみなされます。
この場所を閉鎖し、南オセチア紛争の被害を伝える新たなミュージアムにリノベーションする計画がジョージア政府主導で持ち上がりました。
しかしながら、すでに各国から多くの観光客を集めていたスターリン博物館の閉鎖&リノベーションにゴリの市議会(と一部の市民)が反対し、結局オープン当初のまま「スターリンの功績と生涯を讃える場所」として現在に至っています。
現在でも多くの外国人にとって「ゴリ=スターリンの町」であるのは事実。
ジョージアが生んだ最も有名な人物の一人でありながらも、その経歴には黒い部分も多いスターリン。
彼に対するジョージア人の思いには複雑なものがあるように思います。
いっぽうで、スターリンの出身地であるゴリでは、他の地域に比べてスターリンを英雄視する人の比率は大きいそう。
町のメインストリートは「スターリン通り」の名を冠し、ゴリ鉄道駅にはスターリン像専用の部屋まであるほどですから…
ソ連そのままな雰囲気のゴリ市庁舎前や、スターリン博物館前の広場には、10年ほど前まで巨大なスターリン像が立っており、観光客に人気の撮影スポットとなっていました。
しかしながら、2008年の南オセチア紛争以降のロシアとの関係悪化にともない、ジョージア政府の意向で撤去されることに。
市民の間では、「スターリンの町」というマイナスイメージの払拭を喜ぶ人と、ゴリが生んだ「英雄」のイメージが薄れることを嘆く人、どちらも多くいたそうです。
現在、ゴリの町に残るスターリン像は、ミュージアム館内のものを除くとたった二つ。
ゴリ鉄道駅内の小部屋の像と、スターリン博物館の入口前に立つ小さな像のみとなっています。
(こちらは博物館の敷地内にあたるので、撤去されなかったのでしょう)
古びて黒みを帯びつつあるスターリン像を、先祖の墓を扱うような丁寧さで掃除するミュージアム職員の姿を目撃したときは、さすがにちょっと驚きましたが…。
スターリン博物館の見どころ
スターリンという人物像やその生涯、ミュージアム設立の背景はぼんやりとつかめたはず。
ここからは、スターリン博物館内の見どころを解説していきます。
ミュージアムの建物は2階建てですが、1階はエントランスと職員用のスペースで、展示コーナーは2階部分のみ。
館内の展示は、幼少期→革命家時代→最高指導者時代→晩年と、スターリンの生涯を順番にたどる構成となっています。
スターリン博物館見学の際には基本的にガイドがついてきます。(料金は入場料に含まれている / 詳細は後述)
ガイドに従っていけば、おのずと当記事で解説している順番に見学することになるはず!
①エントランスホール
スターリン博物館は、典型的なスターリン様式の建造物。
「スターリン様式」とは、ジョージアの都市部で現在でも多く見られる建築様式のこと。
「社会主義の発展を摩天楼で表現し、労働者を鼓舞することを狙った」のだそう。(いやはや…)
四角形の高層建築が特徴的で、摩天楼のような尖塔や巨大アーチなどの装飾が見られることが多く、スターリン博物館はそのあたりも忠実に造られています。
内部に一歩足を踏み入れると、そこはまるでソ連時代に逆戻りしたかのような雰囲気でした ▼
エントランスホールで旅行者を出迎えるのが、レッドカーペットの先に堂々と立つスターリン像。
ステンドグラスから射しこむ光に照らされ、もはや神々しさまで感じるほどです…。
エントランスホールには、チケットブースに併設された売店があるのですが、販売されていたのは一つの例外もなくスターリングッズでした ▼
スターリンボールペンやスターリンTシャツ、スターリンワインなど、とにかく全てにスターリンの顔、顔、顔。
興味のある人はチェックしてみては。(のぶよはスルーしました)
②スターリンの幼少期~革命家時代
スターリン像の前を通って二階へと階段を上ると、展示コーナーに入ります。
最初の部屋は、スターリンの幼少期~青年革命家になるまでの時代に関する展示。
1878年にゴリ郊外の小さな集落で誕生したのが、後にスターリンとなるヨセフ・ベサリオニス・ゼ・ジュガシヴィリ。
靴職人であった父ヴィッサリオンと母ケテワンの間の3人目の息子として生まれました。
ヨセフの家は裕福ではなく、父親のヴィッサリオンは自宅の地下に作った小さな靴工場で働く毎日。
事業の失敗からアルコール依存症となったヴィッサリオンは、妻のケテワンや息子のヨセフにたびたび暴力をふるうようになり、ある日、ケテワンは幼いヨセフを連れて家を出てしまいます。
ケテワンは息子のヨセフにまっとうな学校教育を受けて聖職につくことを強く願っており、地元ゴリの学校に入学させます。
いっぽうで、当時のヨセフの将来の夢は歌手だったそう。
ガイドいわく「それはそれは美しい声の持ち主だった」そうで、教会の聖歌隊としても活動していたそうです。
学校でのヨセフの成績の良さは群を抜いており、1894年(16歳)にはトビリシの神学校への入学を許可され、寮生活が始まりました。
トビリシの神学校でもヨセフは文句なしの優秀な成績をおさめます。
読書を趣味としてあらゆる書籍を読みふけりましたが、彼に大きな影響を与えたのがマルクスの「資本論」。
マルクス主義に傾倒した結果、それまでの神学への興味を失ってしまったヨセフ。
神学校での礼拝の拒否や規則違反を繰り返し、1899年(21歳)にとうとう退学して革命家へと転身を果たします。
革命家となったヨセフは、トビリシで社会主義の宣伝活動を秘密裏に行っていました。
最も有名なのは、1903年~1906年の間に秘密の地下印刷所でプロパガンダ紙を印刷していたこと。
周辺住民に社会主義思想を広める活動に熱心に取り組んでいました。
当時のロシア帝国では、こうした政権転覆を企てるのは犯罪行為。
ヨセフは逮捕され、シベリアへの3年間の流刑に処されました。
その後も各地を転々としながら放免→逮捕→流刑を繰り返したヨセフ。
1913年(34歳)に発表した論文が高く評価され、その時に用いた「スターリン」というペンネームが広く知られるようになり、ヨセフ自身も好んでこの名前を用いるようになりました。
ここに、後にソ連の最高指導者となる「ヨセフ・スターリン」が初めて誕生することになったのです。
③ソ連最高指導者時代
ミュージアムの二つ目の部屋は、ソ連の最高指導者となる前後のスターリンについての展示。
第一次世界大戦、ロシア革命、第二次世界大戦…と激動の時代にソ連を超大国へと導いたスターリンという人物を讃えるものとなっています。
このコーナーに多く展示されているのが、レーニンとの姿を描いたもの ▼
レーニンは、1917年(スターリン38歳)に勃発したロシア革命によってロシア・ソビエト社会主義連邦を成立させた人物で、いわば「ソ連の生みの親」。
1922年(スターリン43歳)には東欧~中央アジアまでの広い範囲を支配下に置くソビエト社会主義連邦が成立し、スターリンはレーニンの下で要職に就きました。
1924年(スターリン45歳)にレーニンが死去。
後継者争いを見事に勝ち抜いたスターリンはソ連の最高指導者となる書記長に就任し、その権力を絶対的なものとします。
ソ連の経済を大きく成長させて共産党の権力を維持するためには、農業の集団化と国の工業化が必須だと考えたスターリン。
さまざまな政策を打ち出して国家の近代化に努めつつ、共産党支配を絶対的なものとします。
のぶよが一つ気になったのが、スターリンがソ連の最高指導者となる前後の歴史的な展示が明らかに少ない点。
・1921年の赤軍によるグルジア民主共和国(現在のジョージア)の侵攻→併合
・1936年~1938年の間に政敵や反体制派を弾圧した「大粛清」
に関する展示はいっさいありません。
スターリンの幼少期~ロシア革命~レーニンとの蜜月までの展示はかなり充実しており、ガイドの説明も詳細に及んでいました。
いっぽうで、ジョージアがソ連支配になるきっかけとなった赤軍侵攻やスターリンがその権力を確かなものとした1930年代のアレコレに関しては完全にスルーされていました。
「スターリン博物館を見学した感想」の項で後述していますが、黒い歴史には触れないようにしているのが見え見え…ちょっと偏った印象を持ちました。
ともかく。ソ連内での権力を確固なものとしたスターリンとともに時代は1940年代へ…第二次世界大戦の混乱が幕を開けるのです。
④第二次世界大戦
三つ目の部屋には展示はほとんどなく、第二次世界大戦中に演説したスターリンの写真や戦地で戦う兵士の写真が、まるで一つの芸術作品のように飾られているだけの空間。
ガイドからの説明もほとんどなく、ほぼ素通りといった感じでした。
というのも、第二次世界大戦におけるスターリンの政策は、お世辞にも褒められたものではなかったからかもしれません。
第二次世界大戦初期は、スターリン率いるソヴィエト連邦はナチス・ドイツと手を組み、ポーランド侵攻などを成功させていました。
ところが1941年(スターリン62歳)にドイツが条約を破ってソ連に侵攻し、独ソ戦に突入します。
初めこそナチス・ドイツ軍有利に進んでいた戦局でしたが、結局はソ連軍がドイツ軍を撃退。
1945年には連合国の一部として降伏間際の大日本帝国へと侵攻し、北方領土や樺太を支配下におきます。
こうして、いちおうは戦勝国となったソ連ですが、スターリンは軍事の才能に恵まれてはいなかったよう。
戦時中の彼の政策が二転三転したことが一つの原因となり、ソ連側の犠牲者数は2800万人にも及んだそうです。
⑤晩年~死去
第二次世界大戦に関する説明はほとんどないままに、急かされるようにガイドに案内された四つ目の部屋が、スターリンの晩年に関する展示。
終戦後、資本主義圏と共産主義圏の間で起こった東西冷戦の真っ只中の1953年のこと。
夕食後に自分の寝室で倒れたスターリンは、74歳でその生涯に幕を下ろしました。
スターリンの死因は脳卒中であったとされていますが、不審な点もいくつかあったそう。
政敵によって毒を盛られたという説や、あえて病院に運ぶのを遅らせたとする説など陰謀論もささやかれてはいますが、真相はもう闇の中です。
当時の超大国の最高指導者の突然の死はソ連全体はもちろん、世界にも大きな衝撃を与えました。
大規模な葬儀が行われ、彼の遺体はモスクワのレーニン・スターリン廟に安置されます ▼
スターリンの死後、ソ連の最高指導者の座についたフルシチョフは、それまでの数十年間におよぶスターリン時代の政策やスターリンへの個人崇拝を真っ向から批判(いわゆる「スターリン批判」)し、世界に衝撃を与えます。
その影響もあってか、1961年にスターリンの遺体はレーニン・スターリン廟内から移動され、別の場所に埋葬されることとなりました。
スターリン博物館の四つ目の部屋はとても小さく、展示物はかなり少なめですが、見逃せないものが一つ。
それが部屋の中央にあるスターリンのデスマスクです ▼
デスマスクの周囲にはまるで神殿を思わせるような白い柱が十数本設置されており、なんだか神々しささえ感じさせる雰囲気。
およそ70年前にこの世を去ったソ連の指導者の魂がこの場所に息づいているかのよう。
何とも言えないほどにピンと張りつめた空気がただよっていました。
⑥各国首脳陣からの贈呈品コーナー
デスマスクを見学した後は、各国の首脳陣がスターリンに贈った品々が展示されているコーナーに案内されます。
どれも大変貴重なものだそうで、当時のスターリンがどれほど世界的な影響力を持っていた人物であったのか理解できます。
東ヨーロッパ地域や中国など当時の共産主義陣営に入っていた国々からの贈呈品が多いですが、それ以外の首脳陣もスターリンとの交流はあったよう。
世界史の教科書で習ったような有名人物とスターリンを写した写真も多く展示されており、一つの時代を築いた人物であったことを改めて感じさせます。
⑦スターリンの愛用品展示コーナー
博物館内で最後に案内されるのが、スターリンの愛用品や嗜好品などを展示した小部屋。
部屋の一角には、当時のクレムリン内部でスターリンが使用していた部屋が再現されており、椅子や机もオリジナルのものなのだそうです。
「スターリン=煙草」のイメージがある人も多いと思いますが、彼が生涯吸い続けた銘柄である”Герцеговина Флорや、直筆のメモ書き、愛用していた万年筆なども展示されています。
小部屋内の見学を終えると、博物館のエントラス部分へいったん戻り、外へ出るように指示が。
そう、とうとうスターリンが生まれた家の見学です!
⑧スターリンの生家
博物館の建物の正面にあるのが、スターリンの生家。
スターリンが生まれた家はもともとはこの場所ではなく、ゴリ近郊の村に建っていました。
それをそっくりそのまま博物館の敷地内に移設したものです。
スターリンの生家は木製テラスを備えた石造りの平屋建てで、ゴリが位置するシダ・カルトリ地方の典型的な建築様式。
スターリンの父・ヴィッサリオンが仕事場としていた自宅地下の靴工房も完璧な状態で保存されています。
家の敷地はとても小さく、ここでソ連の最高指導者が生まれたとは信じられないほどに粗末なたたずまい。
ガイドが入口の鍵を開け、内部の様子を見せてくれます ▼
ジョージア地方部ではどこもそうなのですが、スターリンの生家でもトイレやキッチンなどの水回りは建物内にはなく、外に設置されていたのだそう。
家具や調度品なども展示されてはいますが、どれもやや新しめで小綺麗。
オリジナルのものではなく、博物館内に移築された際に持ち込まれたのではないかと思いました。(ソ連最高指導者の家にボロボロのベッドは似つかない!等の理由かと邪推)
⑨ヤルタ会談出席時の列車
最後に案内されたのが、スターリンがヤルタ会談に出席する際に乗車した列車。
ヤルタ会談とは、1945年に第二次世界大戦の連合国(アメリカ・イギリス・ソビエト連邦)が行ったもの。
ナチス・ドイツ降伏後の領土分割や、ソ連が対日本戦に参戦することを協議したもので、クリミア半島のヤルタという町で開かれました。
ミュージアムの裏側の一角にひっそりと展示されているのが、モスクワからヤルタへの移動の際にスターリンが実際に利用した列車なのです。
ガイドが列車の入口の扉の鍵を開け、中に案内してくれます。
そこはまるで、80年前から時が止まっているかのような空間が広がっていました。
推理小説の舞台になってもおかしくないほどにレトロで、窓枠やシャンデリアなど細部にまでこだわられた装飾。
この空間で数日間スターリンが過ごしたと考えると、なんだか不思議な気持ちになります。
列車内でスターリンが宿泊していたという部屋もそのままに残されていますが、こちらは意外にも質素。
もう少し仰々しい装飾があるかと思っていたので、少し拍子抜けしました。
ここまでで、スターリン博物館のすべてを見学したことになります。
熱心に色々と説明してくれたガイドでしたが、最後は特に笑顔を見せるでもなく、颯爽と去っていきました。
スターリン博物館観光のアドバイス&見学した感想
スターリン博物館の基本情報
スターリン博物館は、年中無休で開場している(月曜日も!)のが旅行者にとっては嬉しいポイント。
ゴリ中心街のど真ん中に位置しており、ゴリ市内観光と組み合わせて訪問することも可能です。
入場料金にはガイド代が含まれており、一組に一人ガイドがついて館内を案内してくれるスタイルでチップ等も必要なし。
ガイドは英語/ロシア語/フランス語/ジョージア語のみの対応となります。
スターリン博物館観光のアドバイス・注意点
スターリン博物館見学は午前中に!
スターリン博物館を見学するなら、絶対に午前中がおすすめ。
ゴリを訪れる旅行者の大半は、トビリシ発の団体日帰りツアーでやって来るのが定番。
ツアー客にかぶってしまうと博物館の見学がゆっくり楽しめないかもしれません。
ほとんどの日帰りツアーは、午前中にウプリスツィヘ洞窟住居群観光→ランチ→午後にスターリン博物館見学 というスケジュールなので、この裏をかいた時間帯の訪問が良いでしょう。
ガイドの写真撮影は禁止
スターリン博物館内の写真撮影は自由ですが、ガイドとして案内してくれる人の写真撮影は禁止されています。
「スターリン博物館で働いている」ということを知られたくない人もいるのか…?と勝手に考えています。
ガイドなしでの見学も可能
スターリンの生涯や功績を、こと細かく(情熱有り余るほど熱心に)説明してくれるガイドの存在はとても心強いもの。
いっぽうで、自分のペースで見学することができなかったり、言葉が分からない人にとってはガイドと行動を共にするメリットは少なめ。
スターリン博物館は、ガイドなしで自分でまわることも可能です(料金は変わらず15GEL)
言葉が分からない人でも個人で見学することができるようにこの記事を書いているので、ぜひとも見学のお供に!
とはいえ、博物館の建物の外にある⑧スターリンの生家と⑨ヤルタ会談の列車には鍵がかかっているため、内部を見学するにはガイドの同伴が必要となります。
スターリン博物館を見学した感想
スターリン博物館は、かなり見ごたえがあります。
ゴリ最大の観光名所としてポピュラーなのも納得なほどに、展示品の多さが際立っています。
スターリンの私物や愛用品などの貴重な展示はもちろん、彼の生涯を追体験できるような素晴らしい展示方法も印象的でした。
しかしながら、展示の内容が少し偏っているのが気になった点。
スターリンの功績や指導者としての才能を放つエピソードなどを通して、「スターリンがどれだけ偉大な人物だったか」が博物館全体のテーマとなっています。(つまり、「キラキラスターリン」ってところ)
いっぽうで、スターリンによる大粛清に関する展示や、グルジア民主共和国がソ連に組み込まれることになった赤軍侵攻などに関する展示はほとんどありません。
ガイドもあえてそこに触れずに「いかにスターリンが素晴らしかったか」を語っており(少なくとものぶよのガイドはそうでした)、この博物館の展示だけでスターリンという人物&ジョージアの近代史を正しく理解できるかと言われると疑問です。
より多角的にスターリンという人物を知り、当時のジョージアでどのような事が起こっていたかを知りたいなら、トビリシにある「ソ連占領時代博物館」も訪れるのがベストだと思います。
(名前から分かるように、こちらもこちらでやや偏った展示ではあるけど)
おわりに
ゴリ観光最大の目玉と言えるスターリン博物館の展示に関する情報と、実際の見学を通して見えたスターリンという人物像や歴史について解説しました。
ジョージアという国の運命を大きく変えたスターリンに関する展示の数々は、事前知識がゼロで見学しても無意味。
あらかじめ最低限の知識をつけておいてからの訪問がおすすめです!
ジョージア国内のソ連時代のスポットやミュージアムには他にも色々と訪れて記事にしているので、そちらもあわせてチェックしてください!
コメント