こんにちは!ジョージア滞在も4年目、世界半周中ののぶよ(@nobuyo5696)です。
(世界半周についてはこちらの記事へどうぞ。)
ジョージアが誇る第三の都市である古都クタイシ。
気品漂う中心街の町並みと、町の周辺に点在する珠玉の見どころの数々、独特の飲み文化やグルメなど、知れば知るほどに奥深い魅力が感じられる町です。
そんなクタイシには、かつて「コーカサスの伝説の宿」としてバックパッカーを中心に絶大な知名度を誇った宿が存在します。
その名も「メディコ&スリコゲストハウス」(またの名を「メディコ&スリコの家」)。
2022年より前にクタイシを訪れた旅行者の多くは、そこはかとない懐かしさに包まれるのでは。
「ゲストハウス」の名を冠していながらも実際はドミトリーが中心のホステルで、日本人が多く集まる宿としても知られており、「クタイシ観光の最大の目玉はメディコ&スリコに宿泊すること」なんて言われていたこともあります(理由は後述)。
そんなメディコ&スリコの家は、今どうなっているのでしょうか…
実際に宿泊してきたので、その様子をお伝えします。
かつて「伝説」と呼ばれ、多くの日本人に愛されてきたメディコ&スリコの家。
ここ数年間で激変したジョージアという国を取り巻く状況を反映するかのように、伝説の宿にも大きな変化が訪れていました。
クタイシの伝説の宿「メディコ&スリコの家」とは?
そもそもクタイシの「メディコ&スリコの家」とは、いったい何なのでしょうか。
現在では、その存在を知らないという人の方がもはや多数派でしょう。
メディコ&スリコの家とは、その名の通りメディコ婆さんとスリコ爺さんが住む民家。
ゲストハウスとして自分たちの家の一部を旅行者向けに開放している、ジョージアの地方部でよくあるスタイルの宿です。
一見すると、激安で泊まれるドミトリーがあるアットホームな宿くらいにしか見えませんが、この宿が伝説となったことにはある理由があります。
それが、家の主であるメディコとスリコのホスピタリティー。
メディコは毎日大量の料理を作っては宿泊客に(有無を言わさず)食べさせ、スリコは自家製のワインを樽から汲んできては宿泊客に(有無を言わさず)飲ませる、エクストリームな宿なのです。
スリコ爺さんは宴会芸を心得ており、カンツィ(ジョージア伝統の牛の角で作られたコップ)にワインを注いでは謎の音楽や踊りとともに一気飲みし、旅行者もそれに倣って一気飲みさせられ…というディープすぎる宴が数時間も続くのです。それも、毎晩。
そんなわけで、あまりのエクストリームエンドレス宴によって二日酔いになり動けなくなる旅行者が続出し、自動的にクタイシに沈没する旅行者のたまり場のようになっていたのが、このメディコ&スリコの家でした。
かつてはこの宿の存在は旅行者の間での口コミで語り継がれており、すでに「伝説の宿」たる数々のエピソードが囁かれていたものの、状況が大きく変わったのが2015年以降のこと。
ジョージアが日本国籍者を含む多くの外国人の入国要件を大幅に緩和(ビザなしで一年間滞在可能)したことにより、旅行者の数が一気に増え、当時の日本人旅行者が旅行ブログにこの宿について書いたことをきっかけに、「クタイシにものすごい宿がある」という話が一気に広がったのです。
こうして世界一周中の日本人が多く集まるようになり、エクストリーム宴の洗礼を受け、その噂を耳にした旅行者が新たにやって来る…といった流れができていきました。
当初の宿泊客の大半は日本人であり、遠く極東の島国からやって来た日本人旅行者をもてなそうと、メディコ&スリコのホスピタリティーにもさらに(エクストリーム方面に)磨きがかかっていきます。
メディコが作る料理の品数と量はどんどん増えていき、スリコは日本の童謡(はとぽっぽとか)をカセットレコーダーで流しながら宴会芸をするという、とにかくカオスな宿になっていったのです。
この宿の噂はそのうち日本人以外にも広まり、なんとLonely Planet(世界最大シェアの旅行ガイドブック)のコーカサス編にも掲載されるほどだったのだそう。
こうして日本人旅行者のみならず欧米圏や他アジア圏からのバックパッカーも集まる聖地のようになり、さらに伝説の宿としての風格を増していったのです。
メディコ・スリコの家の誕生秘話
そんなメディコ&スリコの家がいったいどのように誕生したのか…今となっては知る人はほとんどいないのではないでしょうか。
実はこの宿、もともとは宿として営業していたわけではなく、文字通りメディコとスリコがのんびりと生活する家でした。
時は、今からおよそ20年以上前の2001年頃のこと。
クタイシの中心街にスリコ爺さん(当時はまだ「おじさん」?)が車ででかけていたときに、欧米からの旅行者二人組を見かけて声をかけました。
当時のジョージアは多くの国に対してビザ取得を義務づけており、旧ソ連圏あるあるの招待状や滞在登録が必須だった時代。
数々の紛争を経験してきたばかりで、貧困や犯罪率の高さが社会問題ともなっていました。そのため、当時ジョージアを訪れる外国人旅行者などほとんどゼロに等しかったのです。
そんな激レアの外国人旅行者を偶然見かけたスリコ爺さんは、言葉の壁などもろともせずに自分の家に招待して寝泊まりさせました。
当時のクタイシには電気もガスも満足に通っておらず、水道からようやく綺麗な水が汲めるようになったくらいの時代。不便な環境ではありながらも突然の外国人の訪問を、大量の手作り料理とワインで精一杯もてなしたのだそうです。
生まれて初めて外国人と数日間の時を過ごしたスリコ爺さんとメディコ婆さんは、その時間のあまりの楽しさに感動し、旅行者を見かけては家に連れてきて(有無を言わさず)宿泊させるようになったのだそう。
ジョージアには「客人は神からの使い」という格言があるくらいなので、当初のメディコとスリコは「旅行者を泊めてお金をもらう」といった考えすらなかったのだそう。
2000年代後半に、ある欧米人旅行者がこの宿に長期で滞在した際に、宿として営業することを提案され、半ば行き当たりばったりで始めたのが現在にまで続く伝説の宿というわけです。
当時はインターネットこそあれど、現代のようなSNSやスマートフォンなどなかった時代。
それにもかかわらず、クタイシの民家での温かなおもてなしの噂は旅行者の間で口コミで広まり、2010年頃にスマートフォンが普及して以降は、年々多くの旅行者がやって来る場所になっていたのだそうです。
現在のメディコ&スリコの家を訪問
のぶよが初めてクタイシを訪れたのは2020年の8月のこと。
もちろん当時からメディコ&スリコの家の存在は知っていたものの、当時はコロナウイルスのパンデミックの真っ只中。そのため、この伝説の宿も閉鎖状態にあり宿泊できなかったのです。
あれからおよそ4年が経った2024年の6月、メディコ&スリコの家に宿泊するときがとうとうやって来ました。
「メディコ&スリコの家=日本人旅行者が多く集まる」というイメージがいまだに強いため、宿泊前はちょっとナーバス(?)になっていました。
というのも、のぶよ自身が日本人旅行者と出会うことにあまりポジティブな方ではないため。色々と面倒くさい人、多いしね…
門を開け、入口らしき鉄の扉を開けようとしたとき、窓から白い髪の老婆が顔を覗かせました。
どこから来たのか尋ねられ「日本だ」と言うと、少し柔らかな声色で「あらまあ、お入り」と家の中へ招かれます。ああ、この人がメディコ婆さんか。
入口の扉を抜けると小さなキッチン、その先には広々としたリビングルームがあり、最も奥の大きな部屋が往年の旅行者たちが寝泊まりしてきたドミトリー。
どうも静かだと思っていたら、日本人旅行者どころか他に宿泊客はいないのだそうです。ほっとするような、ちょっと寂しいような…
荷物を下ろすやいなやリビングに招かれ、名産のイメルリチーズや自家製のさくらんぼのジャムを食べるように言われます。
およそ20年間、世界各国からの旅行者を招いてきたメディコ婆さんは英語を少し話すことができるのですが、こちらがロシア語を話せることが分かると途端に饒舌に。先述の「メディコ&スリコの家」誕生秘話など、興味深い話を次々にしてくれました。
メディコ婆さんは御年72歳。スリコ爺さんは御年80歳になるそうですが、二人ともまだまだ健康。
とはいえ、メディコ婆さんは数年前にコロナウイルスに罹患したことをきっかけに体調を崩してしまい、数回の手術も経験したのだそう。足腰も弱ってきていて、杖をついてゆっくり歩かなければなりません。
かつてはこの宿の名物として知られた爆盛りの食事ももう作る体力がなく、自分たちが食べる分の簡単な料理を作るので精一杯なのだそうです。
スリコ爺さんも健康の問題を抱えているそうで、定期的に医者にかかっているそう。
もう二年ほど前からお酒と煙草を止められており、以前のようなエクストリームエンドレス宴などもっての他なのだとか。
とはいえ、医者に素直に従わないのがジョージアの男。
宿の半地下にあるかつての仕事スペースに篭っては、ちびちびとワインを嗜んでいるようで(これはメディコ婆さんに秘密だそう)、旅行者が飲める口だと知ると地下に呼んでは飲ませたがるのは昔と変わっていないのかもしれません。
二人ともに、「歳には敵わない」という言葉がこれ以上ないほどに感じられはするものの、頭はしっかりしています。
往年の旅行者たちとの宴の様子を撮影した写真はリビングに大量に保管されており、写っている宿泊客たちの国籍やエピソードまでちゃんと覚えているくらいに。
しかしその美しい思い出が逆に、現在の静けさに包まれた宿の寂しい雰囲気を強調しているようにも感じられます。
かつてのように大量の料理とワインでわいわい宴会というわけにはもういかないものの、夕食の時間帯になると旅行者をリビングに招いて一緒に食事をするという習慣は残っているよう。
メディコとスリコが食べるものを一緒に食べるといった感じで、お金をとるわけでもありません。
見た目こそ質素な食事ではあるものの、「せっかく来てくれたから」というホスピタリティーは強く感じられます。
メディコ婆さんもスリコ爺さんも、ロシア語が通じる日本人旅行者というなかなか珍しい来客が嬉しいようで、色々な話をしてくれます。
そんな中、宿の歴史の話の流れでメディコ婆さんがぽろりと零した言葉にはっとさせられました。
「この宿が有名なのはもちろん知っているし、色々な国から旅行者がやって来るのは楽しいし嬉しいけど、みんながみんな良い人であるわけではないし、なんだか少し疲れてしまった。」と。
メディコ&スリコの家が伝説の宿として黄金時代を迎えていたのは、2015年から2019年にかけての5年間。
ジョージア入国要件の緩和とスマートフォンやSNSの普及によって、この宿の存在が広く知られるようになり、毎日のように宴が開かれ、数多くの二日酔い旅行者を産出しつづけていた時期です。
当時の日本人旅行者はブログを書きながら旅をする人も多く、SNS上でも「ジョージアは旅人の聖地」といった感じでプロモーションがされていました。
そうした時代背景もあり、伝説として語り継がれるようになったメディコ&スリコの家。
しかし2020年からのコロナウイルスのパンデミックや2022年からのウクライナ戦争によって、ジョージアを訪れる外国人旅行者の数は激減。その間にメディコとスリコの体調は悪化してしまったため、いつの間にかこの伝説の宿も過去の存在と化しつつあります。
2022年以降もメディコ&スリコの家は宿として旅行者を受け入れてはいるものの、彼らの体調のムラもあり、かつてのような「とにかく毎日ワイワイ飲み食いして盛り上がる宿」といった雰囲気ではない状況。
しかしながら、初めての旅行者はそんなことなどつゆ知らず。
「エンドレスの宴と爆盛りの料理が出てくるものすごい宿」と過去の話ばかりを信じてこの宿を訪れ、「思っていたのと違った」などと平気で言う(または予約サイトのレビューに書く)ような人も少なくないのだそうです。
この話を聞いて、ジョージアの旅行情報を発信している身としても考えさせられる部分が多くありましたし、不特定多数の人々に何かを伝えることはとても難しいことだと改めて感じさせられました。
やっぱり、他人の温かさや思いやりやホスピタリティーにただ乗りして、それが与えられて当然だと思ってはいけないよな…と。
同時に、いつまでも変わらないものなどないということも実感。メディコとスリコがいつまで元気でいられるかは誰にも分かりませんし、宿として旅行者を受け入れていられるのも、もしかしたらもうそんなに長くはないのかもしれません。
また、とにかくお調子者で写真に撮られたがるスリコ爺さんとは反対に、メディコ婆さんは自身が写真に写るのが嫌なのだそう(「こんな白髪でよぼよぼな姿を見られたくない」からだとか)。
「日本人は静かで物分かりが良いけど、やたらとなんでもかんでも写真に撮って、後から来た別の日本人旅行者に自分(メディコ婆さん)が写った写真が勝手に載せられたSNSやブログなどを見せられるのは嫌だ」とのこと。
こういったところもやはり尊重してあげるべきだと思いますし、どうもここ数年(特に2020年~2022年の二年間でジョージアで急増したノマド界隈や移住界隈にもこの宿の存在が広まった時期)は、「メディコ&スリコの宿=面白い見世物」のような感じで発信されていたのが顕著だったので、メディコ婆さんに同情する部分もあります(そういった感じがなんだか微妙だと思ったからこそ、のぶよは日本人宿泊客が減るまでこの宿に泊まるのを避けていた)。
「そこにはちゃんと人間がいて、その人たちの生活があって、善意で旅行者を迎えてくれている」という基本中の基本を、こんな時代だからこそ忘れたくないものです。
(もちろん、ネガティブな思い出話ばかりではなく、純粋にメディコ&スリコの家を愛したかつての日本人宿泊客たちとの素敵な思い出話の方が圧倒的に多かったことはここに書き記しておきます。)
おわりに:昔とは変わっても伝説は健在
のぶよがメディコ&スリコの家に滞在したのは四日間。
その間、数人の旅行者(イタリア人、中国人、ドイツ人×2)が泊まりには来たものの、日本人旅行者が来ることはいっさいありませんでした。
かつては夜遅くまで飲み明かしていたスリコ爺さんも、現在は夜9時台には眠りにつく生活。
スリコ婆さんは、旅行者にワインや食事を振る舞いながらもう少し遅い時間まで起きていますが、足腰が悪いため、日中の多くの時間はベッドで横になって過ごしています。
この宿での夜の訪れは早く、夜11時にはもう消灯となるほど。
あとはひたすらに静かな時間だけが流れます。
そのため現在のスリコ&メディコの家は、かつて言われていたような「伝説の宿」とはもう呼べなくなっているのかもしれません。
しかし「せっかく来た旅行者をできる限りもてなしたい」という気持ちは、ひしひしと伝わってきます。
ある程度の人数が集まれば、多少無理してでもかつてのような宴会を開いてくれるかもしれません(特にスリコ爺さんはのぶよの滞在中ずっと「乾杯!乾杯!(唯一知っている日本語)」と言っていたくらいに宴がしたくてウズウズしている)。
しかし、高齢の二人に無理をさせるのも考えもの。万が一にも宴を開いてくれたとしても、かつてのようなエクストリームなものではなく、こじんまりとした飲み会くらいの規模だと考えておきましょう。
かつてこの伝説の宿に宿泊し、ひとときの楽しい思い出を作った旅行者の皆さんには、ぜひともできるだけ早いうちに再訪してみてほしいです。もしくは、何か手紙やメッセージ等を送ってあげるのも良いかも。
いつまでも同じ形であるものなど、この世には一つとして存在しないのですから。
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