こんにちは!トルコの首都・アンカラにのんびりと滞在中、世界半周中ののぶよ(@nobuyo5696)です。
(世界半周についてはこちらの記事へどうぞ。)
アンカラの二大観光スポットといえば、建国の父、ケマル・アタテュルクが眠るアタテュルク廟と、アナトリア文明博物館です。
いずれもトルコの歴史を深く学ぶことができる場所なのですが、アタテュルク廟が20世紀の激動のトルコの近代史に焦点が当てられているのに対して、アナトリア文明博物館はその真逆。
先史から続くトルコの古代史を詳しく理解することができるのです。
どちらかというとのぶよは歴史に興味がある方なのですが、正直トルコでうん千年前に何が起こっていたかなんて知ったこっちゃありません(笑)
そんなずぶな素人でも、素晴らしい展示品の数々を鑑賞しながら、トルコで興亡した数々の文明や王国の歴史や文化、美術を学ぶことができるのが、アナトリア文明博物館の素晴らしいところ。
何と言っても、「世界の素晴らしい美術館10選」に選出されたというのですから。
今回の記事では、アナトリア文明博物館の観光を最大限に楽しむために、博物館内の見どころ(時代別になっている)と、関連する歴史を解説していきます。
歴史的な出来事の解説は最小限にして、各時代の人々の暮らしや文化、発明されたものなど、博物館内の展示の趣旨に即したものとなっているので、実際に見学する際の参考となるはず!
先史時代のアナトリア:文明の誕生から都市の形成まで
アナトリア半島において、現在証明されている最も古い歴史(=文字を使って記載された最も古いもの)は紀元前1950年(4000年前)のこと。
しかしながら、そのずっと前からこの地には文明があったことが確認されているのは事実。
先史時代の遺跡も各地に残っています。
古代文明として知られるエジプトやメソポタミアとも地理的に近く、文字には残されていないものの、高度な文明社会が形成されていたと考えられている古代アナトリア。
まずは、アナトリア半島で最初の人類の生活の痕跡が残る100万年前(博物館内に展示されているものは、最も古くて約1万2千年前)から、徐々に文明が高度になっていく紀元前2000年(4000年前)までの歴史を見ていきましょう。
1.旧石器時代(100万年前~1万1千年前)
人類の歴史が始まったのは、今から100万年ほど前のこと。
「旧石器時代」と呼ばれるこの時代に関してはまだわかっていないことが多く、約1万1千年前に新石器時代が始まるまでの期間は、私たち人類は原始的な生活を送っていたようです。
アナトリア半島でも旧石器時代の生活の痕跡が発見されており、古くから人類が居住していたことが証明されています。
旧石器時代の人々の暮らし
旧石器時代の人々は、現代社会とは全く異なった生活をしていました。
農耕や牧畜などは行われず、鉱物などを利用して道具が生産されるということもなく、人々は自然に生えている植物を採って食べたり、狩猟をして生活をしていました。
住居は自然にできた洞穴内に作られ、そこを寝場所に生活が営まれていたようです。
「大自然の中で動物として生きる」という表現が正しいと思えるほど、いち動物としての人類の姿がありました。
道具:石器、石をそのまま利用
旧石器時代初期には、鉱物などが使われることはなく、自然界に存在する石をそのまま利用していました。
時代が下るにつれ、石を削って狩猟道具を作ったり、動物の皮を剥ぐための石のナイフのようなものを作ったりする技術が生まれました。
2.新石器時代(1万1千年前~紀元前5500年)
旧石器時代と新石器時代の一番の違いが、農耕が行われたかどうかという点。
かつては動物を狩ったり植物をそのまま食べたりしていた人類は、より効率的に食料を生産する農耕技術を発明しました。
それによって、収穫物や水をためておく土器が作られ、ある程度の人数で効率的に農耕を行うために村のような共同体が形成され、人々は一か所に定住するようになりました。
新石器時代の人々の暮らし:農耕、村のようなものを形成
農耕が私たち人類にもたらしたものは、安定した食料供給だけではありませんでした。
それまでは狩猟をして生計を立てていた人類は、洞窟から洞窟へと移動しながら生活を送っていたのですが、農業をするとなると一か所に定住する必要が生まれます。
人々は気候の安定した場所を選び、村のようなものを形成し、集団で生活を送るようになりました。
アナトリア文明博物館内には当時の家屋の様子が再現されているコーナーがあります。
注目すべきが、床下に置かれた人骨。
当時は、亡くなった人の遺体を自分の家の地面の下に埋めていたそうです。
そうすることで、死後も家族とともに存在することができるという考えがあったのでしょう。
道具:陶器の器
農耕を通して、人類は道具を生産することを学びました。
土を形にして焼き上げることで、収穫物や水を保存するための陶器の壺を作る技術が生まれ、農耕を容易にする器具などが発明されました。
始めは生活に必要な土器や道具ばかりが作られていましたが、徐々に他の道具も作られるようになります。
こちらは、当時使用されていたスタンプ。
しかしながら現在とは用途が異なっていたようで、紙に押すためではなく、体にカラフルな模様をつけるためのもの。
当時のアナトリアの人々は、体中にカラフルな模様を描いて魔除けをしていたと考えられているそうです。
美術:石に直接色付けする技術
かつては毎日が生きるか死ぬかだった狩猟生活から農耕生活に移行したことによって、人々の生活には余裕が生まれました。
そうなると生まれるのが、美術作品。
こちらは紀元前6000年頃の作品で、牡牛を狩る様子が描かれたもの。
当時は石に直接色をつけるという方法で絵を描いていたことがわかります。
遺跡:ギョベクリ・テペ
トルコ国内の新石器時代の遺跡として有名なのが、世界遺産にも指定されているギョベクリ・テペ(Göbekli Tepe)。
トルコ南東部・シャンルウルファ(Şanlıurfa)の郊外に位置するこの遺跡は、トルコで最も古い人類の生活の痕跡が残る場所の一つです。
古代の神殿だと考えられている遺跡からは、T字型のオベリスクが多数発掘されており、アナトリア文明博物館内にもその内二つが展示されています。
3.金石併用時代(紀元前5500年~紀元前3000年)
旧石器時代で発展した農耕文化は、人々の間に社会や経済という概念を与えました。
共同体の中で上下関係が生まれ、上の人間が下の人間を支配するという現在にも続く社会モデルが最初に形成された時代を金石併用時代と呼びます。
その名前が示す通り、それまでの土や石を使ったものづくりに加えて、鉱物が採掘され利用されるようになったのが一番の特徴です。
人々の暮らし:村を中心とした共同体を形成
金石併用時代の人々の暮らしは、新石器時代の村のような共同体をさらに発展させたものでした。
共同体であるためにはルールが必要で、そのルールを決める人の存在が必要とされたためです。
こうして身分のような概念が生まれ、上の人間が下の人間を支配するという構図が出来上がったのです。
人々は共同体の中で自分の役割につくようになりました。
農業に従事する者、鉱物を採掘する者、工芸品を作る者…。
現在の「仕事」の概念に近いようなものが存在していたと考えられています。
道具:赤色のセラミックの器
金石併用時代のアナトリア地方の出土品で特徴的なのが、赤い色で装飾された陶器です。
単純な線の模様から、動物の姿が描かれたものまで。
それ以前には見られなかった「装飾」という概念は、物に付加価値を与え、後に「交易」や「経済」の概念を形成することとなったのです。
4.初期青銅器時代(紀元前3000年~紀元前2000年)
アナトリア半島で多くの遺跡が見つかっている、初期青銅器時代。
鉱物と石や土を併用していた金石併用時代から発展し、鉱物を用いた道具が生産されるようになったため、この名前で呼ばれます。
それまでの村を中心とした共同体が発展し、「都市」という概念が生まれたのもこの時代。
だんだんと現代の私たちの生活に近づいてきたような感じがしますね。
人々の暮らし:都市を中心とした共同体の形成
それまでの小さな村の共同体が点在していた社会から一転、人々は一か所に集まって都市を形成するようになります。
都市の周りには防衛のための城壁が築かれ、政府機関のようなものが人々を統治するようになりました。
この時代の代表的な都市国家が、トロイヤという町があったトロイ遺跡や、トルコ南部の海岸沿いで繁栄したリュキア王国。
トロイ遺跡はギリシア人によって滅ぼされてしまうものの、深い山に囲まれて地理的に孤立していたリュキア王国は独立を貫き、後述するアケメネス朝ペルシアによる支配(紀元前6世紀)までその名が残っています。
道具:鉱物の鋳造技術の確立
鉱物の発掘およびはそれを利用した道具の生産は、人々の生活をさらに豊かなものにしました。
それまでは一つ一つ手作りでかなりの時間がかかっていた土器作り。
初期青銅器時代では、溶かした銅などを型に流し込むなどの方法で、一度に大量の道具の生産が可能となったのです。
銅は日用品を始め、あらゆる道具の原料として使用されるようになります。
興味深いのが、こちらの太陽盤(サン・ディスク)と呼ばれるもの。
葬式の際に棺の中に遺体とともに納められたもので、神聖視されていた太陽の形を表しているものだと考えられています。
どの棺にも、必ず二つの太陽盤がペアになるように納めされていたそうなのですが、その理由ははっきりとしていません。
太陽と同様に、初期青銅器時代のアナトリアでは牛や鹿が神聖視されていたことも忘れてはなりません。
内側に弧を描くような角の形が宇宙を表すと信じられていたという説もあるそうです。
太陽盤を始め、多くの彫刻等のモチーフとして、これらの動物が使用されています。
美術:金・銀・銅細工
見た目も美しい金や銀などの鉱物を使った装飾品などが作られるようになったのもこの時代。
金のネックレスや耳飾りなど、現在でも通用しそうなものも見られます。
また、アナトリア中部のカイセリ地域で発見された赤土の陶器類もこの時代のもの。
「カッパドキアの色付け陶器」と呼ばれており、現在でも陶器の町として有名なアヴァノスの起源はもしかしたらこの時代にまで遡るのかもしれません。
遺跡:トロイ
ギリシア神話のトロイア戦争における「トロイの木馬伝説」で有名なトロイ遺跡ですが、トロイア戦争が起こったのはずっと後の紀元前13世紀頃(3250年前)のこと。
トロイの町自体は、初期青銅器時代にあたる紀元前3000年頃(5000年前)から存在していたことが証明されており、現在でも当時の城壁の跡を見ることができます。
アナトリア最初の統一国家:ヒッタイト帝国成立~滅亡まで
紀元前1500年のアナトリア半島。source:https://www.timemaps.com/
初期青銅器時代に徐々に「都市」や「国家」という概念が根付いてきたアナトリア半島ですが、ここまでは群雄割拠状態。
一つの都市が一つの国家を形成しており、現在の「国家」の概念とは少々異なった社会でした。
それが大きく変化したのが、紀元前2000年頃(4000年前)に現在のイラク北部で力をつけていた古アッシリア王国との交易でした。
当時の先進国との交易は文明の発展を加速させ、ついにアナトリア初の中央集権国家であるヒッタイト帝国が成立するのです。
5.古アッシリア交易時代(紀元前1950年~紀元前1750年)
↑当時の装飾品は金ぴか。すごすぎるセンス。
洞窟→集団生活→村→都市と一歩一歩文明の発展を続けてきたアナトリアの人々。
彼らの歴史が大きく変化することになるのが、たった200年ほどの古アッシリア交易時代と呼ばれる時代において。
南方の先進文明・古アッシリア(現在のイラク北部)との交易が始まり、商業を円滑に行うための文字や秤(はかり)などが用いられるようになったのです。
始めてアナトリアの歴史が石碑などに刻まれた時代でもあり、当時を知るための重要な手がかりとなっています。
人々の暮らし:商業の発展
↑それまでのアナトリアでは見られなかった貝を使った工芸品も発掘されている
アッシリア人たちは、イランで採掘された青銅の中継交易で栄えた民族。
彼らはロバに乗ってアナトリアに点在する都市国家へとやってきました。
アナトリア産の繊維や羽毛、金銀細工などを購入することが主な目的で、対価はペルシア(現在のイラン)で豊富に採れた金や銀で支払われました。
古アッシリア王国はアナトリア半島の大部分での交易を通して徐々にその存在感を強めますが、それでもアナトリアの都市国家の多くは自治を保っていたそうです。
道具:文字、おもりの発明
この時代で特筆すべきことは、アッシリア人によって文字がもたらされたこと。
借入を記載しておいたり、交易時のルールを記しておいたりと、文字の存在はアナトリアの人々の生活様式を根本的に変えたと言えます。
↑借金の利子に関して記載されたもの
他にも、商品の重さを計るためのおもりや、アッシリア王国があった地中海沿岸からもたらされた貝を使った工芸品などが発掘されており、かなり密な交易関係にあったことがうかがえます。
美術:キュルテペ陶磁器
この時代を代表する工芸品の一つに、キュルテペ(Kültepe)で生産された陶器が挙げられます。
古くから陶器の生産が行われていたアナトリアにおいて、この時代はその黄金期とも呼べるものでした。
精巧な装飾が施された陶磁器は、祭祀用に使われていたものだと考えられています。
当時キュルテペ周辺に居住していたのが、後にヒッタイト帝国を興すヒッタイト族。
その装飾の仕方などに、彼ら独自の文化の一端が見られます。
遺跡:キュルテペ遺跡
現在のカイセリ(Kayseri)近郊に位置するキュルテペ遺跡(Kültepe)は、古アッシリア王国との交易路の重要な拠点として栄えた都市の遺跡。
後にアナトリア初の統一国家を建設することとなるヒッタイト族が居住していたとされ、古アッシリア王国との交易によってもたらされた品々や、文字が記された石碑などが多数発掘されています。
興味深かったのが、キノコの形をした工芸品の数々。
キュルテペ遺跡があるカイセリは、キノコ岩で有名なカッパドキア地域からそう遠くはありません。
古代から存在していたキノコ岩に、何か神聖さのようなものを見出していたのかもしれませんね。
6.ヒッタイト帝国時代(紀元前1750年~紀元前1200年)
アッシリア王国との交易において力をつけたヒッタイト族が、中央アナトリアにヒッタイト帝国を興したのが紀元前1700年頃のこと。
この地で豊富に採れた鉄鉱石を利用して、世界で初めて製鉄技術を身に着けた民族として有名なヒッタイト族。
周辺の国がいまだに青銅器時代と変わらない技術を用いているのをしり目に、独自の製鉄技術を背景にした強大な武力でアナトリア地方に点在していた小国の属国化を進めます。
それまでのアナトリアの各都市では、一つの都市が一つの国家という概念でしたが、ヒッタイト帝国はアナトリア初の中央集権国家。
王を頂点として、権力を持つものが人民を支配するという構図のもので、現在の国家の概念にかなり近いものであったと考えられています。
周辺諸国との関係:製鉄技術がもたらした軍事力と存在感
↑戦車に乗るヒッタイトが描かれた石碑
当時は最先端の技術であった製鉄という武器を手にしたヒッタイト帝国はとても強大で、領土の拡大のための軍事行動が目立つ民族でした。
まずは紀元前1595年に、「目には目を…」で有名なハンムラビ王のもとでメソポタミア文明を発展させたバビロン第一王朝を滅ぼし、その武力を示します。
アナトリア中央部から東地中海沿岸(現在のシリア)にかけての広い地域を支配下においたヒッタイト帝国でしたが、同時期に領土拡大を目論んでいたエジプト新王国と対立することになります。
紀元前1269年、エジプト新王国との間の覇権争いの戦争(カデシュの戦い)を経て、世界最古の国際条約と言われる平和条約を結びました。
このように、ヒッタイト帝国には現在の国家で見られるような「国際政治」や「軍事」の概念がすでに存在していたのがポイント。
それまでは統一国家が存在していなかったアナトリアの歴史の中の、大きな転換点だったと言えるでしょう。
人々の暮らし:二種類の文字を使用
ヒッタイト帝国時代における文字の発展は著しいものがありました。
法律はもちろん、商業や宗教行事など、市民生活におけるあらゆる場面において文字を使って記す文化が根付いたのもこの頃。
彼らの文字は、東のメソポタミアの文字を改良した楔形文字(ヒッタイト語)と、古代エジプトで見られるような象形文字・ヒエログリフ(ルウィ語)の二種類が存在していました。
・公式な事項の記載:楔形文字(ヒッタイト語)
・建造物のレリーフなど建物の装飾:ヒエログリフ(ルウィ語)
と、使用用途が異なっていたようです。
↑ヒエログリフ(ルウィ語)で書かれた碑文
細かい線の組み合わせで文字を構成する線文字に比べて、ヒエログリフの方が遠くからでも認識することが可能です。
多くの人が集まる宗教施設や建造物などの装飾にヒエログリフが多く用いられたのはそのためでした。
美術:鉄器だけではない、精巧な陶器
ヒッタイトといえば製鉄技術で有名ですが、彼らが製造した鉄器はほとんど残っていません。
(鉄は錆びてしまい土に還ってしまうため)
一方でヒッタイト帝国時代に作られた陶器は多く残っており、日常的に利用するものと祭祀などの特別な機会に利用するもので大きく異なったデザインが施されていたのが特徴的。
立体的な装飾をするのが得意だったヒッタイト族は、動物や人間の形をした装飾を施した陶器を多く残しました。
中でも傑作なのが、イナンディクという遺跡で発掘された壺。
宗教的な意味合いを持っていた祭祀用の壺であったとされ、側面には当時の結婚式の場面が描かれたものです。
遺跡:ハットゥシャ&カッパドキア
ヒッタイト帝国の首都だったのが、首都のアンカラの東150kmの所に位置するハットゥシャ(Hattuşa)でした。
彼らが神聖視していたライオンの像が設置されているライオンの門などの建造物が残っており、考古学的にとても重要な場所として現在でも発掘作業が続いています。
また、現在はトルコ最大の観光地となっているカッパドキアに点在する、天然の洞窟を利用した洞窟住居や地下都市などに一番最初に居住したのもヒッタイト族だと考えられています。
現在のカッパドキアの洞窟住居に残るのは、だいぶ後になってからのキリスト教徒たちの生活の跡ですが、その起源はさらに1000年以上前だったなんて、ロマンに満ち溢れていますね。
ヒッタイト帝国滅亡後のアナトリア:諸民族の定住~アナトリア文明の終焉
紀元前1000年のアナトリア半島。source:https://www.timemaps.com/
500年以上に渡って、その軍事力を背景に圧倒的な力を誇示してきたヒッタイト帝国ですが、その終焉は謎に包まれています。
紀元前1200年頃に地中海を渡ってアナトリアにやってきた海の民の侵攻によって衰退し、ついに滅ぼされてしまったという説が有力ですが、この海の民が何者でどのようにヒッタイト帝国を滅ぼしたのかは解明されていません。
ヒッタイト帝国の滅亡によって、アナトリアとその周辺の勢力図は大きく変化します。
その一番の理由が、それまでヒッタイトが独占していた鉄器製造技術が周辺諸国に広まったこと。
こうして鉄製の武器や戦車を製造することに成功した国が力をつけていきました。
ヒッタイト帝国滅亡後のアナトリア半島には、様々な民族による小王国が点在するようになり、各地で異なる文化が根付くようになりました。
ここでは、ヒッタイト帝国滅亡後のアナトリア半島で繁栄した4つの国を見ていきます。
フリギア人の定住(紀元前1200年~紀元前700年)
ヒッタイト帝国が滅亡したのは、紀元前1200年頃のこと。
アナトリア地方では力の空白地帯となり、他地域から異民族がやってきて定住し始めました。
そのうちの一つが、北部のバルカン半島から南下してアナトリア半島中央西部に定住したフリギア人。
彼らは現在のアンカラ西部に位置するゴルディオン(Gordion)を都と定め、ヒッタイトに代わって中央アナトリアの広い範囲を支配しました。
人々の暮らし・文化:ギリシャ文化の流入
↑フリギア語で刻まれた石碑。ローマ字のように見えなくもない。
マケドニア周辺(ギリシャ文化)から移動してきたフリギア人は、トルコ西部の海岸線を通ってアナトリア中央部へと至ります。
途中でトロイⅦの町を征服し、エーゲ海からアナトリア半島中央部までの広大な地域を支配下におきました。
彼らが都としたゴルディオンを代表するのが、トゥムルス(Tumulus)と呼ばれる古墳。
↑ヒエラポリス遺跡に残るトゥムルス。だいぶ後のヘレニズム時代のものです。
土を盛って作った巨大な丘のような外観のトゥムルスは、当時のヨーロッパ世界(主にギリシャ)ではポピュラーだったものの、アナトリア半島にもたらされたのはこの時が初めてでした。
後のギリシャ帝国支配時代にもトゥムルスの伝統は受け継がれており、ヒエラポリス遺跡を始め、トルコ国内にもいくつか残っている場所があります。
美術:木工細工の発達とグレイ・セラミック
フリギア人の工芸品として有名なのが、精巧で色とりどりの陶器の数々。
それまでは見られなかった鮮やかな青色で装飾された陶器は、異なる文化がアナトリアにもたらされたことを証明しています。
また、フリギア人は数多くの木工細工を残したことでも有名。
木々が密集していた中央アナトリアに居住したこともあって、身近な素材である木材を用いた装飾品や調度品などが多く作られました。
もう一つ、フリギア人の文化で特徴的なのが、グレイ・セラミックと呼ばれる陶器の数々。
その名の通り灰色をした陶器の数々は、すでにヒッタイト帝国時代に発明されていた鉄器に影響を受けたものだと考えられています。
グレイ・セラミックの技術は陶器だけでなく装飾品にも利用されました。
フィブラスと呼ばれるこちらの道具は、洋服をつなぎ合わせるためのアクセサリー。
「世界初の安全ピン」といったところでしょうか。
アナトリア西部で活躍したリュディア人
フリギア王国が衰退した紀元前7世紀頃に、代わって力をつけたのがリュディア人でした。
アナトリア半島西部で力をつけていたリュディア人はリュディア王国を成立させ、フリギア人が居住していたアナトリア半島中央部からエーゲ海・地中海沿岸までの広い地域を支配します。
エーゲ海を利用した交易で栄えたリュディア人は、世界で初めて貨幣を製造したことで有名。
その繁栄ぶりはすごかったようで、紀元前560年のクロイソス王の統治時代には、エフェソス(エフェス)を征服し、損傷が激しかったアルテミス神殿を再建したことでも知られています。
しかしながらそんな栄光は長くは続かず、紀元前546年に後述するアケメネス朝ペルシアによって滅ぼされてしまいます。
ウラルトゥ人の定住(紀元前1200年~紀元前600年)
フリギア人のアナトリア半島中央部定住と同時期に、東からやってきたのがウラルトゥ人。
彼らが定住したのは、トルコ東部のヴァン湖の周辺でした。
国王を頂点とした中央集権体制を敷いたウラルトゥ人は、東のアッシリアの影響を大きく受けた独自の文化を発展させたことで知られています。
人々の暮らし・文化:中央集権体制の確立
↑ウラルトゥ人が築いた神殿の柱に描かれたレリーフ
お隣のアッシリアで使用されていたものを改良したウラルトゥ語という独自の言語を持っていたウラルトゥ人。
中央集権体制のもとで、領土は複数の県に分割され、それぞれの県には王によって指名された長となる人物が権力を握っていました。
都市の周りには城壁が築かれ、その周辺の城下町となる場所では名産の陶器の製造が盛んにおこなわれていたそうです。
ウラルトゥ人は建築においても素晴らしい技術を持っており、巨大な神殿の柱に刻まれた精巧なレリーフがアナトリア文明博物館内に残されています。
美術:陶器・アクセサリーに見られる高度な技術
ウラルトゥ人の工芸品で特徴的なのが、暗い色合いの陶器の数々。
暗い赤色やグレーのものが多く残っており、フリギア人のダーク・セラミックとの共通点も感じられます。
また、中央集権体制が引かれたウラルトゥ人の社会では、アクセサリーやベルトなどの装飾品は身分を表すための役割を持っていました。
豊富に採れた鉱物を利用したアクセサリーの数々は、現在でも通用するような素晴らしいセンスだと思います。
新ヒッタイト族の定住(紀元前1200年~紀元前600年)
栄光の時代を謳歌したヒッタイト帝国が滅亡したあと、一部のヒッタイト人たちはフリギア人に追われるように南下し、現在のトルコ南東部地域に居住しました。
新しく文明を興した彼らを「新ヒッタイト」と呼び、かつてのヒッタイト帝国と区別して新ヒッタイト帝国と呼称します。
ヒッタイト帝国の滅亡~新ヒッタイト帝国の興隆に関しては謎に包まれている部分が多く、これからの研究に期待が持てます。
人々の暮らし・文化:多民族国家の形成
↑ヒエログリフが刻まれた石碑
新ヒッタイト帝国に居住していたのは、かつてのヒッタイト族の末裔だけではありませんでした。
地中海沿岸のフェニキア人など周辺国家から様々な民族が流入したため、複数の言語が使用される多民族国家を形成していたのです。
この時代の文献などはあまり残っておらず、詳しいことは謎に包まれたままなのですが、建築や美術などの面においてかつてのヒッタイト帝国の影響を強く残した文化であったと考えられています。
美術:石のレリーフ
ヒッタイト帝国時代から受け継いだ石の彫刻は新ヒッタイト帝国時代にも健在で、建造物の多くには精巧に掘られた石のレリーフが飾られていました。
そのモチーフにはヒッタイト帝国時代の影響が強く感じられるものが多く、ライオンの像や馬車に乗る戦士のレリーフはとても有名です。
10:アナトリアの古代文明の滅亡
紀元前500年のアナトリア半島。source:https://www.timemaps.com/
ヒッタイト帝国の崩壊後、フリギア人(→リュディア人)、ウラルトゥ人、新ヒッタイトなどの王国が点在していたアナトリア半島ですが、その勢力構図ががらりと変化したのが紀元前552年のこと。
東方で強大な力を誇っていたアケメネス朝ペルシア帝国(現在のイラン)によってアナトリア半島はどんどん征服されていき、ついにアナトリア西部に最後に残ったリュディア王国も滅ぼされ、半島全てが完全なるペルシアの領土となったのです。
こうして、数多くの文明の興亡があったアナトリアの古代史は幕を閉じ、ここからは大国による支配の連続となります。
イラン系であるペルシア人のアナトリア支配は、その後マケドニア王国のアレキサンダー大王によって征服される紀元前334年までの200年間続きます。
アレキサンダー大王がアナトリアにもたらした最大のものが、ヘレニズム(ギリシア風)文化。
当時はギリシア系であったマケドニア王国(現在の北マケドニアとは別物)によってもたらされたギリシア文化は、その後のローマ帝国、ビザンツ帝国支配の下地を作ることとなったという面で、大王が残した影響は計り知れません。
おわりに
気の遠くなるような古代のトルコの歴史を学ぶことができるアナトリア文明博物館。
「ヒッタイト」や「アケメネス朝ペルシア」など、世界史の授業で何となく名前を聞いたことがあるという程度の知識でも(のぶよもそうでした)、実際に展示や解説をじっくりと見学していくと、そのつながりが見えてとても興味深いものがありました。
アナトリア文明博物館では、アナトリア半島での国家の興亡よりも、かつてこの地で栄えた文明や人々の生活に焦点が当たった展示がなされています。
前知識がなくても、100万年に及ぶ人類の発展の過程が目で見て理解できるのはとても素晴らしい点だと思います。
しかしながら、その文明が成立した背景にある歴史を知っていると、より深く各時代を理解することができるでしょう。
トルコ国内に点在する遺跡(各時代に合わせたもの)に関する展示や解説も細かくされており、実際に各遺跡を訪れて自分の目で見たくなること間違いありません。
トルコに点在する遺跡めぐりの事前勉強に訪れるも良し。各遺跡をまわった後の仕上げに訪れるも良し。
いずれの場合でも、100万年前から続く私たち人類の発展の軌跡を知り、感動を与えてくれる場所。
それがアナトリア文明博物館なのです。
インフォメーション
アナトリア文明博物館(Anadolu Medeniyetleri Müzesi)
営業時間:全日8:30~18:00
料金:38TL(=¥707)
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とにかく情報量が半端じゃありません。人と違う場所へ行ってみたい人は是非!
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