こんにちは!アルバニア旅行を満喫中、世界半周中ののぶよ(@nobuyo5696)です。
(世界半周についてはこちらの記事へどうぞ。)
「アルバニア」と聞いてどんなイメージが浮かぶでしょうか。
共産主義
鎖国
ねずみ講による経済破綻
など、近代のアルバニアに対してはあまり良いイメージがないのが事実。
それはヨーロッパの人の間でも同様で、アルバニアは長らく観光地として日の目を浴びることはありませんでした。
しかしながら、実際にアルバニアを訪れてみると、その観光地としてのポテンシャルの高さに誰もが驚かされます。
「バルカンの屋根」と呼ばれるアルバニア北部の山々の絶景に、イオニア海の美しいビーチ。
伝統が息づく村々や、オスマン帝国時代の雰囲気を色濃く残す町など、小さな国土の中に様々な魅力が詰まっているのです。
上の写真は全て、そんな「なんだか危険そうな国」なアルバニアの風景です。
「なんだかとってもきれいそうな国」じゃありませんか?
「日本人の99%が死ぬまで訪れない国」
なんて言われてしまうアルバニアですが、のぶよはこのパーセンテージを下げたいです。
というわけで、今回の記事では、豊かな歴史に育まれた知られざるアルバニアの秘密を解き明かしていきます。
その際に大切なのが、アルバニアの歴史上の転換点となった7つのキーワード。
これさえ押さえておけば、ただ写真を撮って移動するだけの旅ではなく、その場所の歴史を深く理解しながら旅をすることができるはずです。
各キーワードは歴史順に並べてあり、関連する観光スポットを解説した記事へのリンクを貼っているので、気になったものは是非チェックしてみてください!
アルバニアの歴史を知るキーワード1:イリュリア人 (紀元前20世紀~)
アルバニアを旅するとよく耳にする機会があるのがイリュリア人というキーワード。
周辺の国は、スラブ系民族やギリシャ系民族を祖先に持つことが多いのですが、アルバニア人の祖先は古代イリュリア人であるとされており、現在でもアルバニア人はそれを誇りに思っています。
イリュリア人とは、紀元前2000年以上前にバルカン半島西部に定住した民族で、丘の上に要塞都市を建設したり、銀や青銅を採掘して工芸品を作ったりしました。
現在のアルバニアに定住した彼らは、シュコドラを首都としてイリュリア王国を興します。
彼らが築いた要塞は、シュコドラ郊外のラザファ城塞やベラトのベラト城塞として現在も残っています。
その後、紀元前7世紀頃にエピダムノス(現在のデュラス)まで勢力を伸ばして植民地を築いたのが古代ギリシャ人。
すでに定住していたイリュリア人との間で平和に貿易活動が行われました。
この時代にギリシャ人によって整備されたのが、アルバニア南部にある世界遺産の遺跡であるブトリント。
当初は宗教都市として栄えたブトリントは、後のローマ帝国支配時代には地中海貿易の中継地点として栄え、その後のビザンツ帝国時代には再び宗教的な町とされる数奇な歴史をたどった町です。
新しい支配者がやって来るたびに、それ以前の建物や遺跡を改築して発展してきたブトリント。
古代ギリシャと古代ローマ帝国、ビザンツ帝国と三つの時代の雰囲気を色濃く残す、アルバニアで最も保存状態が良い遺跡の一つです。
アルバニアの歴史を知るキーワード2:ローマ帝国 (紀元前2世紀~15世紀)
古代ギリシャとの友好的な関係の下で、長らく平和な時代が続いたイリュリア王国。
しかし、紀元前3世紀頃になると、当時強大な力を持っていて、支配地域を東へと拡大していたローマ帝国と対立するようになります。
紀元前167年には、イリュリア王国を含むバルカン半島の全ての地域の支配権がローマ帝国に移ることに。
しかしその支配はさほど厳しいものではなく、イリュリア人は自身の伝統文化や言語を守り抜くことができました。
このことが、スラブ系やゲルマン系、ラテン系などがほとんどである他のヨーロッパ諸国の言語とアルバニア語が全く異なったものである要因となっているそう。
アルバニア語の起源は、古代イリュリア人によって使用されていた言葉にあるそうで、その歴史はラテン系言語やゲルマン系言語などとは比べ物にならないほど古いものです。
ローマ帝国支配当時、貿易港として栄えたのはデュラス。
現在ではティラナから最も近いリゾート地としてにぎわうデュラス。
開発に次ぐ開発の波に覆われた町に当時の面影はほとんど感じられないものの、中心街にはローマ帝国時代の円形競技場の遺跡が残っています。
また、現在はモンテネグロ領となっているウルツィニ(Ulcinj)は、当時はイリュリア人が居住していた地域。
アフリカ大陸からローマへと向かう奴隷貿易の中継地点として栄えました。
時は流れて395年。
ローマ帝国は東西に分裂し、イリュリア王国は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配下に置かれることとなります。
ビザンツ帝国支配時代にも、イリュリア人はある程度の民族的自由が保障されており、長く平和な時代が続きました。
現在のベラトの城塞内には、ビザンツ帝国時代の教会が残っています。
アルバニアの歴史を知るキーワード3:スカンデルベグ (15世紀)
そんな平和な時代が終焉を迎えたのが、15世紀のこと。
当時強大な力を誇っていたセルビア王国とブルガリア王国、オスマン帝国に隣接するアルバニアは、絶えず隣国の影響下に置かれることとなります。
1344年にはセルビア王国にいったん併合されるものの、1389年にはそのセルビアを打ち負かしたオスマン帝国によるアルバニアへの侵攻が始まります。
同時期には、アドリア海で覇権を握っていたベネチア共和国に海沿いのいくつかの町を占領され、海からも内陸からも他国による侵攻に悩まされていたアルバニア。
そんな苦境の時代のヒーローが、現在でも国の英雄として崇められるスカンデルベグ。
1443年から1468年の長きに渡って、アルバニア中部のクルヤ(Krujë)を拠点として、オスマン帝国によるアルバニア侵攻に抗った人物です。
スカンデルベグは負け知らずの将軍。
強大な力を持っていたオスマン帝国は、計23回もクルヤに攻め込もうとしたのですが、結局クルヤ城を陥落させることはできませんでした。
結果的に、オスマン帝国は、スカンデルベグ在位中のアルバニア侵攻を諦めることとなりました。
彼の功績を称える銅像は、首都・ティラナの中央に位置するスカンデルベグ広場に堂々と建っており、同広場にある国立歴史博物館では彼の功績や数々の戦いの歴史を深く知ることができます。
しかしながら、スカンデルベグ死後はあっけなくオスマン帝国によって侵攻されてしまったアルバニア。
ここから以後400年以上に渡る、オスマン帝国による支配が始まります。
アルバニアの歴史を知るキーワード4:オスマン帝国 (15世紀~19世紀後半)
オスマン帝国による支配は、アルバニアの文化や人々の信仰に大きな変化をもたらしました。
それまではビザンツ帝国ゆかりのキリスト教徒人口がほとんどだったにもかかわらず、人々の多くはイスラム教へ改宗させられ、食文化や建築様式にもオスマン帝国の影響が強く現れるようになります。
世界遺産に指定されているベラトやジロカストラの町並みは、この時代に整備されたオスマントルコ風建築の建物が現在に残る独特の雰囲気が魅力的。
いずれの町も、「時が止まったような」という言葉が相応しい雰囲気です。
アルバニアの歴史を知るキーワード5:独立とコソボ問題 (1912年)
お隣のモンテネグロ王国の独立問題に端を発する、当時の超大国であったオスマントルコ帝国とロシア帝国の間に1855年に起こった戦争(露土戦争)。
ここでのオスマントルコ帝国の敗北は、支配下にあったバルカン半島の国々での民族運動の契機となりました。
アルバニアでは、19世紀後半に現在のコソボで始まったアルバニア人の民族運動が国中に広がり、1912年のアルバニア独立へと至ります。
初代首相の座に就いたのはイスマイル・チェマリ(Ismail Qemali)。
彼は中南部の港湾都市・ヴローラを首都と定め、西欧諸国にアルバニアの独立を認めさせようと尽力します。
しかしながら、西側諸国がアルバニア独立に関して提示した条件は、国土の3分の1を占めるコソボの所有権をセルビアに渡すこと。
独立運動の発端となったコソボの住民のほとんどはアルバニア系。
アルバニアとしても譲るに譲れない条件だったのですが、結局アルバニアはコソボを取り込むことを諦めて独立することとなります。
これが80年以上後にコソボ紛争につながることになるとは、この時誰が予想したというのでしょうか。
アルバニアが独立を達成した1912年当時は、周辺地域はバルカン戦争の真っ只中。
せっかく独立したアルバニアでしたが、翌1913年にはギリシャやセルビア、モンテネグロに国土の大部分を占領されてしまいます。
アルバニアが国家として機能していたのは上の画像内の赤色の部分だけとなってしまいました。
もともとアルバニア領であったウルツィニは、この時のモンテネグロによる占領の名残で、現在もモンテネグロ領となっています。
アルバニアを知るキーワード6:共産主義と鎖国 (1941年~1992年)
第一次世界大戦終了後、他国の占領からどうにか国土を取り戻したアルバニア。
第二次世界大戦前には、首都を国の中央に位置するティラナに定めます。
イタリアのムッソリーニ政権と緊密な関係を築いていたのですが、1941年にエンヴェル・ホシャ(Enver Hoxha)率いるアルバニア共産党が実権を握ることで、その後50年近く続く共産主義時代が始まります。
アルバニアの共産主義時代は、他の東欧・バルカン諸国とは一線を画したもの。
言うなれば、迷走に次ぐ迷走でした。
共産主義政権は、イタリアやドイツなど第二次世界大戦時の枢軸国と袂を分かち、1946年にアルバニア人民共和国の樹立を宣言。
その後、アルバニアを連邦に編入しようとした同じ共産主義圏のユーゴスラビアとの関係を断ち、ソ連との関係を強化します。
当初はソ連式の社会主義システムが構築されていたのですが、1961年にはソ連の潜水艦基地をヴローラに建設するという要請を拒否したために二国間の関係が破綻。
その後は毛沢東率いる中国に接近します。
中国で起こった文化大革命に倣った社会変革が行われ、産業の国有化や一切の信仰の禁止がなされました。
当時のアルバニアでは、秘密警察が人々を監視する恐怖政治が敷かれ、人々は許可なく他の町へ移動することすらできませんでした。
また、外国のラジオを聞いたり外国語を話すことも禁じられ、破ったものは投獄・処刑の対象となりました。
毛沢東死後の1978年、中国での政治状況の変化に伴い、唯一外交関係を保っていた中国との国交をも断ち切ったアルバニア。
他に外交関係にある国は一つもなく、事実上の「鎖国」状態となり、世界から取り残されることとなります。
アルバニアを知るキーワード7:資本主義とねずみ講 (1992年~)
鎖国状態のアルバニアでは、物資の不足や経済の停滞が進み、人々の間に不満が募っていきます。
そんな中、長らく共産党の独裁体制を率いたエンヴェル・ホシャが死去し、アルバニアに変化が訪れることに。
1990年代初頭に東欧の多くの国で起こった自由革命に影響され、アルバニアでも民主主義への機運が高まります。
そして1992年、47年ぶりの自由選挙が行われ、共産党は失脚。
ここにアルバニアの共産主義時代は幕を下ろしました。
そこから、急激に導入された資本主義。
町にはイタリア製の高級車が溢れ、人々は自由に都市間を移動することができるようになったため、首都・ティラナの人口は爆発的に増加します。
一方で、共産主義時代の人々の労働の場であった各自治体の工場は閉鎖され、失業率が跳ね上がります。
このように、資本主義は人々に自由な生活を許した一方で、その急激すぎる社会変化についていけない層も生み出しました。
その象徴的な出来事が、1996年に起こったねずみ講事件。
政府公認だと誰もが信じて財産を投資していた一般のマルチ商法の会社が突然破綻し、実に70%のアルバニア人が全財産を失ってしまったのです。
それもこれも、共産主義時代には存在しなかった「投資」や「貯蓄」などの概念を理解せずに、安易に財産を投げ打った人々が悪いのですが、そう単純に自己責任で片付けられるようなものでもありません。
なんといっても、国民の10人のうち7人がすっからかんなわけですから(笑)
そんなわけで、都市では政府に責任をなすり付けたい人々による暴動や略奪が発生し、アルバニア情勢は混乱を極めます。
そこで訪れたチャンスが、1999年のコソボ紛争によってアルバニアに流れてきたコソボ難民でした。
セルビアによる民族浄化政策によってアルバニアへと逃れてきたコソボ難民は、なんと46万5千人にものぼったそう。
もともと同じ国だったアルバニアとコソボ。
民族的にも文化的にもほぼ共通で同胞意識が強く、短期間での人口増加と労働力増加によってアルバニア経済は一気に好転することとなります。
共産主義政権による鎖国、ねずみ講事件による経済危機と、長らく観光地としては全く発展できずにいたアルバニア。
現在ではその気候の穏やかさや物価の安さ、美しい自然に歴史的な見どころなど、観光地としての潜在能力に、年々外国からの注目も大きくなってきています。
また、すでに観光立国として発展していたギリシャからの地理的な近さもあり、アルバニア南部は多くのリゾート客がやってくる一大観光地になりつつあります。
おわりに
他のバルカン諸国とは一線を画す、独自の長い歴史を持つアルバニア。
今回の記事ではその歴史を簡単にまとめてきました。
アルバニア人は自分の国の歴史や民族のルーツに誇りを持っており、少しでもアルバニアの歴史を知っているととても喜んでくれます。
(英雄・スカンデルベグの名前を知っているだけでもかなり喜ばれます)
治安の問題なし
格安の物価
見どころたくさん
と、旅行先として抜群な条件が揃っているアルバニア。
日本人の間でも、穴場の旅行先として注目を浴びるようになるのはそう遠い未来ではないはずです。
美しい風景の中ををただ観光するのもいいですが、少しでもその背景にある歴史を知っていると、違う角度で見える景色もあるもの。
アルバニアに旅行する際は、是非今回紹介した7つの歴史キーワードに注目しながら観光してみてください。
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