こんにちは!ジョージア南部のサムツヘ=ジャワヘティ地方をのんびり旅行中、世界半周中ののぶよ(@nobuyo5696)です。
(世界半周についてはこちらの記事へどうぞ。)
「ジョージアで最も旅行者が訪れないエリア」の一つとされるのが、ジャワヘティ地方。
ある程度の大きさの町が2つあるだけで、あとは小さな村と一面の荒野が広がるだけのこの地域。
標高1700m~2200mほどとかなり高い場所に位置し、「ジョージアの極地」と呼ばれるほどに厳しい気候で知られています。(冬はマイナス30℃を下回るのだそう。ひええ…)
確かに、観光的な見どころは限られているジャワヘティ地方ですが、ちゃんと見どころは存在します。
その一つが、「ジョージアで一番かわいい村」と噂されるゴレロフカ(Gorelovka / გორელოვკა)。
アルメニア国境にほど近い場所に位置するゴレロフカ村には、ジョージアの建築様式とは大きく異なる建物が点在しています。
その風景は、まるで童話の世界をそのまま現実化したかのよう。
数百年前の古き良き村の雰囲気が強く残っており、たしかにこの村よりも可愛らしい村はジョージアで他に存在しないかもしれません。
カラフルで、田舎らしいのんびり感があって、精巧な装飾が施された家々が建ち並んでいて…
ゴレロフカ村は、ただ見てまわるだけでも童話の世界に迷い込んだ気分で楽しめる場所です。
しかしながら、どうしてこの村にだけこんなに独特な建築の民家が多く残っているのか不思議に思わないでしょうか。
そこには、ゴレロフカ村が辿ってきた哀しく数奇な歴史が強く関係していました。
今回の記事は、ゴレロフカ村の歴史を中心に、この村の見どころや行き方を解説するもの。
ジョージアという国に今なお残る少数民族問題について、考えるきっかけとなるかもしれません。
ゴレロフカ村の哀しく数奇な歴史をたどる
ゴレロフカ村は、もともと現在のような可愛らしい家々が建ち並ぶような町並みではありませんでした。
この場所に古くから居住していたのがアルメニア人住民。
200年ほど前までのゴレロフカ村は、村というよりも家が数軒あるだけの限界集落といった感じだったそうです。
そんな集落が「ゴレロフカ」として新しい歴史をスタートしたのが、ジョージアがロシア帝国の支配下にあった1840年代のこと。
ロシアから「ドゥホボール」と呼ばれる人たちがこの地に移住してきて、自分たちの村を拓いたのがすべての始まりです。
ゴレロフカ村を知るキーワード「ドゥホボール」とは?
ゴレロフカ村の歴史を語る際に、切っても切れないのが「ドゥホボール」(Doukhobor)と呼ばれる人々。
彼らはロシア出身の白人で、人種的にはスラブ系。
見た目的には、私たちが「ロシア人」と聞いて真っ先に想像するような人たちです。(ロシアは多民族国家なので、それこそ様々な見た目/人種の人がいる)
時は1830年代の後半。ロシア帝国は黄金時代を謳歌しており、中央集権的な政治体制が強められていました。
異宗教の人々に対してロシア正教への改宗が強いられたり、さらに強い帝国を目指して軍事力増強に力が入れられたのもこの時代です。
そこに反旗を翻したのが、ドゥホボールと呼ばれる人たちでした。
彼らは、もともとロシア正教の教えからは距離を置いた独自の信仰を持ち、社会との関わりを拒絶し、自給自足生活を送る独自のコミュニティーのようなものを形成していました。
そのため、18世紀頃からロシア帝国中央政府に目を付けられるようになり、一時はドゥホボールの人々がシベリア送りにされたことも。
そうした背景もあり、中央政府や外の人間との関わりを拒絶する風潮は、ドゥホボールのコミュニティー内でどんどん強くなっていったと言います。
1830年代後半、当時のドゥホボールのコミュニティーにおける中心的人物が、ロシア正教への改宗の圧力や軍事力増強に意義を唱えはじめます。
やがてそれはコミュニティー全体に広がり、「新天地への移住」の機運がドゥホボールの人々の間で高まります。
そうして彼らが移住先として選んだのが、当時はロシア帝国支配下にありながらも中央政府の統治の影響がやや薄かった、帝国最南部の僻地・ジャワヘティ地方でした。
ドゥホボールのコミュニティーは、遠くロシアからこの地へ長い時間をかけて移動し、いくつかの場所に散らばってドゥホボールだけが暮らす八つの村を開拓したのです。
1841年:ゴレロフカ村の成立
ドゥホボールの人々が長い旅を終え、ジャワヘティ地方に到着したのが1841年のこと。
彼らのコミュニティーはジャワヘティ地方全域に広がり、八つのドゥホボール村が造られましたが、その中で最大の人口を誇りドゥホボール文化の中心的な存在となったのが、ここゴレロフカ村でした。
彼らは石を積み上げた家を建て、家畜を飼育したり野菜を栽培したりして自給自足の生活を営み始めます。
ドゥホボールの人々は「神は教会に存在するのではなく、一人一人の心の中に存在する」という独自の宗教観を持ち、イコンなどの偶像崇拝や祈りの場である教会の建設などをすることはありませんでした。
しかしながら、ときおり村の中心の広場に伝統的な衣装を着用して集まり、歌や踊りを楽しむといった習慣はあったそう。
この習慣は、現在でも毎週日曜日に村の中心の建物に伝統衣装を着たドゥホボールの人たちが集まる形で続いています。
▲ ゴレロフカ村のシンボル的な存在であり、ドゥホボールの人が集まる場所であるこの建物。
実はもともと孤児院として建てられたものです。
ドゥホボールの人々がロシアからこの地へ移動してきた際、その道のりはとても過酷なものだったそう。
現在のように舗装道路が敷かれているわけではなく、車や電車があったわけでもありません。コーカサスの険しい山を越えて徒歩で移動するのは並大抵の苦労ではなかったでしょう。
移動中に病に倒れる人や亡くなる人も少なくなかったそうで、ようやくゴレロフカ村にドゥホボールの人々が到着したときには両親を失って子供たちだけが残された家族がとても多かったのだそう。
そんな子供たちが生活する場所として建設された孤児院は、現在では村に残るドゥホボールの人々にとって精神的支柱のような場所となっています。
1991年〜:人口の激減とジョージア人移民の入植
19世紀末~20世紀末のおよそ100年間は、ジョージアという国の激動の時代でした。
ロシア帝国の崩壊とともに一時的な独立を達成したかと思ったらソ連の統治下に入り、70年に及ぶ社会主義政策を経て1991年にようやく独立…
そんな目まぐるしい情勢を尻目に、ゴレロフカ村では平和な時代が続きます。
ソ連の中央政府は、ジョージアの端っこの僻地で自給自足の独自のコミュニティーを形成している少数民族などまったく相手にすることはなく、いっぽうのドゥホボールの人々もソ連政府とは何の関わりも持たずに自分たちのコミュニティー内だけで全てが完結するような社会をすでに形成していました。
1980年には、ゴレロフカ村のドゥホボールの人口は2000人にも及んだそう。
彼らはお互いに助け合いながら生活し、コミュニティー外との接触を最低限に抑えてこの村で生きていました。
この平和な時代が永遠に続くと思われていたゴレロフカ村ですが、その運命が大きく変わることとなったのが1991年のソ連崩壊とジョージアの独立でした。
独立直後のジョージアでは、ジョージア民族感情の高まりとともに、ソ連時代には抑えられていた数々の少数民族問題が一気に噴出します。
当時のジョージア政府は、言語も文化も異なる少数民族をジョージア民族に同化させる政策をとったため、これがアブハジアや南オセチアなど後の紛争の火種となってしまいました。
(日本では、ロシアがある日突然これらの地域を勝手に占領しはじめたと思っている人が多いけど、実はそもそもの原因はこの時代のジョージア自身にある)
そんな独立後の混乱と激動の時代を目の当たりにしていたのが、ゴレロフカ村のドゥホボールの人々。
彼らがコミュニティー内で話すのはロシア語のみで、ジョージア語は話せない(というか「話さない」)場合がほとんど。
ジョージア中央政府による少数民族のジョージア民族への同化政策に対して危機感や反意を覚えたドゥホボールの人々の多くは、この場所での生活に見切りをつけ、自身のルーツがあるロシアへと再び戻る家族が続出しました。
こうしてゴレロフカ村の人口はみるみるうちに減少していき、村の多くの家が空き家となってしまいます。
そこにやって来たのが、ジョージア西部アジャラ地方の山間部で遊牧生活を送っていたイスラム教徒のジョージア人でした。
彼らは、ドゥホボールの家族が去って空き家となった家々に住み着き、家族や親戚を呼び寄せては別の空き家に住まわせ…と、どんどん人口を拡大していきます。
もともとドゥホボールの人々が建設した伝統的な家屋をアジャラ地方の山岳部風の建築に改装する人も多かったため、現在のゴレロフカ村の民家の多くはこのミックススタイルの様式となっています。
少数派となったゴレロフカ村のドゥホボールの人々と、多数派となったジョージア人イスラム教徒。
彼らの間には、宗教や民族、習慣の違いなどから多くの問題が噴出することとなり、現在でも双方の間での軋轢は多く残っていると言われています。
現在のゴレロフカ村
現在、ゴレロフカ村で生活するドゥホボールの人々は、たったの40人ほど。
そのほとんどが高齢者であり、この地で200年近く続いてきたドゥホボールの伝統は、もう近いうちに途絶えてしまうのではないかと危惧されています。
いっぽうで、アジャラ地方山間部出身のジョージア人イスラム教徒の人口は数百人に及び、ジョージア独立から30年余りでドゥホボールの村からジョージア人の村への移行が劇的に進んだことに驚かされます。
現在のジョージア中央政府はドゥホボール文化の保護にはいっさいの補助はしておらず、民間の有志の人々によって細々と文化保存プロジェクトが行われているくらい。
その草の根の努力も虚しく、あと40人のドゥホボールがこの地から居なくなった際には、彼らの歴史や文化は完全に途絶えてしまうこととなります。
ゴレロフカ村のドゥホボールの人々の間には、こんな言い伝えがあるそう。
「この場所からドゥホボールが一人も居なくなった日には、この村に毎年やって来るコウノトリは一羽も戻って来ることはないだろう」と。
中央政府から距離を置くためにロシアからジョージアへとはるばる移住したドゥホボールの人々。
しかし、現地での軋轢や情勢の変化に振り回され、結局ロシアへと戻る運命に。
この話を聞いたとき、現在進行形で起こっているある情勢が真っ先に思い浮かびました。
それが、ロシアから戦争を厭ってジョージアに逃げて来たロシア人たち。
彼らはジョージアという国で安寧の地を見つけるのか。それとも、現地に同化せず自分たちのコミュニティーを作った結果、現地人との軋轢が生じ、結局ドゥホボールの人々のように祖国へ戻る運命をたどるのか。
「歴史は繰り返す」とはよく言いますが、もしかすると私たちは歴史的な瞬間の一部を今まさに目撃しているのかもしれません。
ゴレロフカ村の風景
ゴレロフカ村は、端から端まで歩いても20分ほどの小さな村。
しかしながら、村の路地は入り組んでおり、ガッツリと散策するなら1時間~1時間半の時間が必要となります。
ここでは、ゴレロフカ村訪問時に絶対にはずせないスポットや、散策時の注目ポイントを解説していきます。
孤児院
ゴレロフカ村において地理的に、そしてこの村に残るドゥホボールの人々にとっての精神的な中心でもあるのが、かつての孤児院。
それほど大きくはない敷地内には、総木造のブルーの建物を中心にいくつかの建物が建ち並び、独特の雰囲気の空間となっています。
とてもフォトジェニックな孤児院は、現在ではドゥホボールの人々のコミュニティースペース兼精神的聖地となっている場所。
日曜日には村のドゥホボール全員がこの場所に集まり、伝統に則った小さなお祭りを開きます。
かつての孤児院敷地内の建物の窓枠や扉には、パステルカラーのモチーフが施されています。▼
この手書きのモチーフは、かつてはゴレロフカ村のドゥホボールの人々の家の多くで見られたそう。
この村の長く厳しい冬を、少しでも明るいデザインとともに過ごそうという気持ちが伝わってきます。
敷地内の建物のテラス部分や柱は、すべて明るいパステルブルーに統一されていてとても綺麗。
白く塗られた壁とのコントラストが、とても絵になります。
かつての孤児院入口から敷地内へと続く通路に沿って建つのが、ミーティングホールとして使われてきた建物。
村人全員で食事をとったりするスペースとして利用されていました。▼
ミーティングホール内部には、ドゥホボール伝統の刺繍を施した白いスカーフがいくつも飾られています。
このスカーフは、ドゥホボールの若い女性が着用するためのもので、モチーフによって隠れた意味があったのだそう。
彼女たちが結婚しているのか/未婚なのかを表すのはもちろん、「真剣なお付き合いを探している」スカーフや、「遊び相手を探している」…など様々。
ドゥホボールの文化では、女性たちが自分自身で男性との性的/交際関係を選択する自由があったそうで、刺繍のスカーフはその象徴たるものだと思います。
200年近くこの地に根付いてきたドゥホボールの文化の中心的存在である旧孤児院。
ぐるっと見てまわっても20分もあれば十分なので、まずはここに立ち寄ってみましょう。
モスク
ゴレロフカ村の迷路のような路地にぽつりと建つのが、およそ30年ほど前に建設されたモスク。
「ゴレロフカの歴史」の項で解説した通り、1991年のジョージア独立後にこの村を去ったドゥホボールの人々と入れ替わるようにこの地に住みはじめた、アジャラ地方出身のジョージア人ムスリムたちが建設したものです。
しかしながら、「神は一人一人の心の中に存在する」と考えるドゥホボールの人々にとっては、偶像崇拝や教会などの宗教施設で祈ることはタブー。
宗教は違うといえ、イスラム教の祈りの場であるモスクをゴレロフカ村に建設するというのは、ドゥホボールの人々にとっては「他所から来た人間がここのルールを無視して何を図々しく…」と思うのも当然。
対するジョージア人ムスリムにとっては、人口的にはもう自分たちが多数派で、彼らの故郷のアジャラ地方山間部では各村に一つモスクを造るのが伝統。
議論は決して交わることのない平行線のまま、結局モスクの建設は始められ、すぐに完成。
こうして元々この地に住んでいたドゥホボールの人々と新たにやって来たジョージア人ムスリムとの間の亀裂は、決定的なものとなってしまいました。
ゴレロフカ村の家々
ゴレロフカ村の民家は、一階部分が石造りで二階部分と表に張り出したテラス部分が木造のものがほとんど。
一見するとどれも同じような建築様式に見えますが、細かなところを見ればドゥホボールの人々が建設し居住していた家なのか、1991年以降にジョージア人ムスリムが改装した家なのかは一発で分かります。
かつてドゥホボールの人々が建設し居住していた状態のままの家の特徴は以下の3点。
①屋根の裏側部分に施されたギザギザした木製の装飾
②青か緑で塗られた窓枠と白く塗られた壁
③敷地内に石造りの家畜小屋を備えている
逆に、これらの特徴が見られない家は、後の時代にジョージア人ムスリムがアジャラ地方山間部の建築様式をミックスして改装した家ということになります。
上で紹介したような石造り&木製の民家は、ドゥホボールの人々が建てたものであっても、比較的最近の建造。
もともとドゥホボールの人々が住んでいたのは、現在は家畜小屋として使用されている石造りの平屋でした。▼
冬の寒さに耐えられるように、壁はかなり厚め。
特徴的なのが、どの建物も屋根の上に草が生えていることですが、近づいてみるとその理由がわかります。▼
ドゥホボールの人々は、家畜の糞を集めて乾燥させたものをブロック状にし、それを屋根の上に数層にも重ねて並べていたのです。
暖かい時期にはそこから養分を得た草木が生える、というわけ。
言うなれば「う〇この瓦」というギョッとする習慣ですが、家畜の糞には断熱効果があると信じられているそう。
厳しい気候の地域ならではの生きるための知恵だったのかもしれません。
ゴレロフカ村は意外と広く、ぐるっと村全体をまわるには1時間ほどの時間をみておくのがおすすめ。
この村の歴史と伝統に思いを馳せながら散策するのも良いですし、もしかしたら40人しかいないドゥホボールの人々の姿を見ることができるかもしれません。
ゴレロフカ村へのアクセス
ゴレロフカ村へのアクセス拠点となるのは、11kmほど北に離れたニノツミンダ(Ninotsminda / ნინოწმინდა)という町一択。
ゴレロフカ村への公共交通手段は存在しないため、アクセス方法は限られてくるのが現状です。
①ニノツミンダからタクシーチャーター
最もシンプルなのが、ニノツミンダの中心部からゴレロフカ村までタクシーを往復チャーターしてしまうこと。
片道15分~20分ほどでサクッと移動できるので、とても便利です。
ダクシー料金の相場は、ニノツミンダ~ゴレロフカ間の往復 + 観光時の待機時間1時間ほどで30GEL~40GEL(=¥1500~¥2000)ほどです。
②ニノツミンダから徒歩orヒッチハイク
のぶよのように「自分の足で歩いて行けない場所などない!」と信じてやまないタイプの人は、ニノツミンダ~ゴレロフカ間の片道11km/往復22kmを徒歩で移動することも可能です。
ゴレロフカ村の方がニノツミンダよりも標高が100mほど高いので、行きは若干の登り/帰りは若干の下りとなりますが、道のりのほとんどは平坦。
幹線道路沿いをずっと歩いていくだけなので、とてもシンプルなルートです。
片道2時間半 / 往復5時間をみておけば十分だと思います。
ニノツミンダ~ゴレロフカ間はさらに先のアルメニア国境へ/から走る車が多く、ヒッチハイクで移動してしまうのも個人的にはアリだと思います。
というか、のぶよの場合は歩く気満々だったのですが、行きも帰りも歩き出して1kmもしないうちに走っている車が向こうから停まって乗せてくれました。
こればかりは運&人によってリスク管理の基準は異なるので万人におすすめするわけではありません。
しかし、少なくともこのエリアではヒッチハイクはとても簡単だということは覚えておいて良いかも。
(というか、自分から何もサインを出していないのに向こうから勝手に停まってくれるのでヒッチハイクにあたるのかそもそも謎)
おわりに
「ジョージアで一番かわいい村」ゴレロフカの美しい風景と、その哀しく激動の歴史を解説しました。
正直、ジョージアの中でもほとんど旅行者が訪れないエリアに位置し、交通もかなり不便なので、わざわざここまで行こうと考える旅行者は多くないでしょう。(もしこの記事を読んで行ったよ!という人がいたら教えてね)
ゴレロフカ村は、昔話の世界そのものの風景はもちろん、ジョージアという国が依然として多く抱える少数民族問題を考えるにはぴったりな場所。
せっかく訪れるのであれば、ただ村の写真を撮ってまわるだけではなく、この地の歴史や人々に想いを馳せながら訪問してほしいです。
コメント