【1ページ目:ワイン発祥~世界で二番目のキリスト教国に】
①先史時代 (180万年前~8千年前)
②古代・二つの王国時代 (紀元前6世紀~224年)
③キリスト教受容~アラブ人支配時代 (327年~1008年)
→聖ニノ 重要人物①
→ミリアン3世 重要人物②
→ヴァフタング1世 重要人物③
【2ページ目:初の統一国家で黄金期~異民族の侵入】
④中世グルジア王国時代 (1008年~1220年)
→バグラト3世 重要人物④
→ダヴィット4世 重要人物⑤
→タマル女王 重要人物⑥
⑤モンゴル支配時代 (1220年~1335年)
→ギオルギ5世 重要人物⑦
⑥国家分裂時代 (1386年~1762年)
【3ページ目:ロシア帝国・ソ連統治~混乱の時代へ】イマココ!
⑦ロシア帝国支配時代 (1801年~1917年)
→エレクレ2世 重要人物⑧
⑧ソ連時代 (1921年~1991年)
→スターリン 重要人物⑨
⑨独立後の大混乱&内戦 (1991年~)
→サーカシュヴィリ 重要人物⑩
⑦【1801~1917】ロシア帝国支配時代
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長い間、オスマン帝国とサファーヴィー朝(ペルシア)の領土争いの最前線だったジョージアですが、再び独立のチャンスがやってきました。
二つの大国が弱体化し、この地域のパワーバランスが変化した18世紀後半のこと。
カヘティ地方でペルシア軍が撃退され、東ジョージア統一&独立が達成されたのです。
しかしながら、大国に挟まれた地理条件で独立を維持できるわけがなく、今度は北の超大国であったロシア帝国の領土に組み込まれることとなり、以後100年ほどはロシア文化がどんどん流入してきます。
1762年:エレクレ2世 重要人物⑧ が東ジョージアを統一
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1736年、サファーヴィー朝(現在のイラン)が滅亡すると、支配下にあったジョージア東部は力の空白地帯となります。
その隙に独立を達成したのが、東部のカヘティ王国の国王だったエレクレ2世(Erekle II / ერეკლე II)。
彼は、東ジョージア一帯を統一することに成功し、1762年にトビリシを首都としたカルトリ・カヘティ王国を独立させます。
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エレクレ2世の勢いは止まらず、北のロシア帝国と軍事・政治面での結び付きを強め、カルトリ・カヘティ王国の経済は急速に発展。
首都のトビリシに再び栄光の時代が訪れます。
1795年:トビリシ陥落
エレクレ2世の政治力で、全てが上手くいくと思われた矢先の1795年のこと。
南方で再び力をつけていたペルシア軍のアガ・モハメド・ハン(Agha Mohammad Khan)により、トビリシが陥落。
(もはや「何回陥落するねん!」とツッコミたくなりますが…)
この際の戦闘はかなり過酷なものだったそうで、町は火の海と化し、多くの歴史的建造物が焼失。
エレクレ2世の下で発展した経済や都市開発は、全て無に帰すこととなりました。
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トビリシ陥落時に関しては様々なエピソードが語り継がれており、観光の際にはぜひ知っておきたいものも多いです。
シャヴナバダ修道院
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トビリシの南西に位置するシャヴナバダ修道院は、アガ・モハメド・ハン率いるペルシア軍がトビリシ侵攻の際の拠点としていた場所。
異民族の侵攻からジョージアを守った「黒衣の騎士伝説」が息づいていて、ペルシア軍は撤退を余儀なくされたと言われています。
ダレジャン王妃の宮殿
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トビリシ旧市街からクラ川を挟んだ対岸にあるダレジャン王妃の宮殿は、1795年のトビリシ陥落を生き延びた王妃が暮らしていた場所。
パステルブルーが美しいテラスが特徴的で、旧市街を一望することができます。
メテヒ橋
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ペルシアによるトビリシ侵攻の際は、住民の多くがイスラム教徒に強制的に改宗させられました。
アヴラバリ地区とトビリシ旧市街を結ぶメテヒ橋では、通行時に踏み絵のような異端審問が行われ、イスラムに改宗していない人は川に投げ落とされたという負の歴史を持ちます。
1801年~1829年:ジョージア各地域、ロシア帝国領に
ペルシアによるトビリシ侵攻を脅威に感じた東ジョージアのカヘティ・カルトリ王国は、関係が深かったロシア帝国に助けを求めます。
当時のロシアは、皇帝アレクサンドル1世の治世下で強大な軍事大国。
1801年、東ジョージア全体がロシア帝国に併合されました。
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残るジョージア西部のイメレティ王国は1810年に、南部も1829年にロシア帝国に組み込まれ、西部のアジャラ地方(オスマン帝国領)以外の地域は全てロシアの支配下となります。
【ボルジョミ】
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ミネラルウォーターで有名なジョージア南部の町・ボルジョミは、ロシア帝国時代に温泉保養地として開発された町。
観光のハイライトとなるボルジョミ中央公園の最奥部には「皇帝(ツァーリ)の湯」と呼ばれる屋外入浴施設もあり、ジョージア人観光客にも大人気の町です。
1877年:露土戦争
東ヨーロッパ~西アジアのパワーバランスが大きく変化したのが、ロシア帝国とオスマン帝国の間で起きた1877年の露土戦争。
オスマン帝国は敗北し、長い間支配されていたバルカン半島各国では独立運動が始まります。
ジョージアに関しては、最後に残ったオスマン帝国領のアジャラ地方がロシア領となり、現在のジョージアの国土全域にロシア帝国の統治が及ぶこととなりました。
1904年:日露戦争
20世紀に入ると、それまで絶好調だったロシア帝国の勢いにも陰りが見えてきます。
象徴的な出来事が、1904年の日露戦争での敗北。
それまで100年に及ぶロシア支配への不満が溜まっていたジョージアでは、民族感情が一気に高まり、各地で反乱が相次ぎます。
コーカサスの辺境で起こっている反乱を抑え込むほどの力は、ロシア帝国にもう残っておらず、「ジョージア民族の国家を再建する」という意識がさらに高まっていきました。
⑧【1921~1991】ソ連統治時代
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ジョージアというと、今から30年ほど前まではソ連の一部だったことは知られていますが、ロシア帝国支配の流れでそのままソ連の支配下になったわけではありません。
ロシア帝国の弱体化にともなって、ジョージアは1918年~1921年の間の3年近くの間は独立を果たしていたのです。
近代のジョージアの運命を大きく変えたのは、この国出身のスターリンという人物でした。
1917年:ロシア革命→つかの間の独立
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第一次世界大戦末期の混乱にともない、1917年にロシア革命がおこると、ロシア帝国の内政は混乱。
もはや、コーカサス地域の支配に手を焼いている場合ではなくなってしまいました。
これをチャンスだと考えたコーカサス地域では独立への機運が一気に高まり、ジョージアでは1918年にグルジア民主共和国が成立。
独立国家として歩み始めます。
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しかしながら、この時は第一次世界大戦が終結して間もない、世界のパワーバランスが大きく変化していた激動の時代。
大国の思惑が入り混じる時期だったこともあり、グルジア民主共和国の内政はとても不安定な状態でした。
国内での民衆蜂起や隣国アルメニアとの領土をめぐる戦争などを経て、共和国の国土はどんどん疲弊していきます。
現在のジョージアで「独立記念日」とされるのは、後のソ連からの独立の日ではなく、グルジア民主共和国が成立した1918年5月26日のこと。
毎年5月26日は祝日となっており、短い間の独立国家だったにもかかわらず人々の誇りとなっています。
1921年:スターリン 重要人物⑨ 率いるロシア赤軍、トビリシ侵攻
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グルジア民主共和国の独立から3年も経たない1921年初頭のこと。
ロシア帝国が倒され、新たに誕生したソビエト社会主義共和国(ソ連)の共産党員・スターリン率いるロシア赤軍がトビリシに侵攻し、圧倒的な武力によって制圧します。
こうして3年にも満たないグルジア民主共和国時代はあっけなく終了し、ソ連領に組み込まれたジョージア。
70年間に及ぶソ連支配はここに始まり、中央集権的な社会主義が敷かれることとなります。
1991年:ソ連から独立
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東ヨーロッパの共産主義圏で始まった民主化運動の影響を受け、1980年代後半には、コーカサス地域にも独立の動きが広がります。
1991年4月9日、グルジア共和国が住民投票によって平和的に独立を達成。
国民の間では新しい国づくりへの希望が高まっていきました。
しかしながら、ここは古くから多くの民族が行き交い、争いの地となってきたコーカサス地方。
そう簡単に平和な時代が訪れることなどありませんでした。
⑨【1991~】独立後の内戦~現代
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1991年のソ連からの華々しい独立達成から数か月も経たないうちに、ジョージア国内情勢は一瞬でカオスとなります。
ロシア人が主体だったソ連時代には「民族的少数派」だったジョージア人。
しかし、その小さな国土の中にはさらなる「民族的少数派」(=ジョージア人以外の民族)が居住しているため、一気に多数派となったジョージア人主体の国作りに、少数派の民族は不満を募らせていったのです。
・南オセチア(オセット人)
・アブハジア(アブハズ人)
・アジャラ(イスラム教徒が多数派)
など、ジョージア人とは民族的にも言語的にも異なる人々が多数派である地域をどう扱うかが議論されることなく、「ジョージア人が主体の国」として独立へ進んでしまったこと。
それが、現在でも解決できていない領土・民族問題の根源となった理由でしょう。
1991年~1992年:各地で民族紛争
【南オセチア】
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南オセチア(Хуссар Ирыстон / South Ossetia)は、オセット人住民が7割以上を占めていた地域。
オセット人は、そもそもジョージア人とは民族的に全く異なるイラン系の人々。
彼らが話すオセット語もイラン系の言語で、ジョージア語とは全く異なるものです。
ソ連統治時代にジョージア文字の強制などの政策が敷かれた歴史があるため、元々ジョージア人に対するオセット人の感情は良好ではありませんでした。
ジョージアが独立した1991年のこと。
南オセチア地域の自治権廃止の決定がされ、それに反抗したオセット人とジョージア中央政府の間で大規模な戦闘に発展します。
ジョージア人の武装勢力によって多くの村が焼き討ちに遭ったため、南オセチアでは反ジョージア感情が爆発。
中央政府に従うことなく独立宣言をした後、ロシアの後ろ盾によって1992年に一応は停戦条約が結ばれました。
【トルソ・ヴァレー】
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ジョージア側から南オセチアに入域することは現状不可能ですが、オセット人が住む村を訪れることは可能。
その一つが、トルソ・ヴァレー。
大人気観光地のカズベキエリアに位置する穴場の自然スポットです。
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南オセチアとの境界まで10kmもないほどの地域で、立ち入り可能な最奥部であるザカゴリ要塞からは南オセチア側の山々を眺めることができます。
【アブハジア】
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もともとはアブハジア王国として独立していたアブハジア(Аҧсны́ / Abkhazia)。
ジョージアの統治下にあったり独立を保っていたりと、歴史だけを見ても複雑な状況にあり「ジョージアとは異なる国」という認識がもともと強い地域でした。
住民の多くはアブハズ人で、ジョージア語とは全く異なるアブハズ語が話されているため、民族意識が強い点にも納得。
1992年に、自治権の廃止を恐れたアブハジア側とジョージア側とで大規模な戦闘になり、双方で3万人以上の犠牲者が出る大惨事となってしまいました。
2年近くに及んだ戦争中には、アブハジア領内に住むジョージア人が殺害されたり、ジョージア人が多いエリアでアブハズ人が殺害されたりと、恐ろしい民族浄化が双方で行われたため、多くの難民(アブハジア難民)が発生する事態に陥りました。
ロシアを後ろ盾にしたアブハジア側がジョージア軍を撃退し、現在でもジョージア政府の統治が及ばない未承認国家として、事実上独立した状態となっています。
【ルヒ城塞】
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ジョージア西部のサメグレロ地方にあるルヒ城塞は、アブハジアとの境界までたったの1kmという立地の廃城塞。
城壁の上からは、アブハジア側の風景がすぐそばに見え、境界地点にはためくアブハジア国旗も肉眼で確認できます ▼
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平和そうに見える風景の中にたたずむ望郷のルヒ城塞。
ジョージア側からアブハジアを眺めることができる数少ない場所の一つです。
【ツカルトゥボ】
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ジョージア中央部のイメレティ地方にあるツカルトゥボは、ソ連時代には温泉保養地として栄え、あのスターリンも好んで訪れた地。
ソ連崩壊とともに豪華なホテル群は全て放置され、アブハジア紛争でこの地に逃れてきた難民たちが「占拠(ジョージア的には)」している状態となっています。
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とは言え治安面での危険はなく(建物が崩れる危険はあるが)、人々の日常生活がちゃんとあるツカルトゥボの廃墟群。
ジョージアという国が抱える問題の一つを肌で感じ、考えさせられる場所です。
【アジャラ】
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ジョージア南西部・黒海に面したアジャラ地方は、オスマン帝国の支配が最も長かったこともあり、住民の多くはジョージア人イスラム教徒であるアジャール人だった地域。
ジョージア独立後はキリスト教化が急速に進み、現在ではイスラム教徒は30%ほどと少数派になっていると言われています。
ジョージアの中央政府が、アブハジアと南オセチアとの二つの紛争や、クーデターによる内政の混乱に手を焼いていた1992年。
ロシアを後ろ盾として、独自の軍隊や税制を持つ「事実上の独立国」としてふるまうようになります。
【フロ / タゴ】
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住民のキリスト教化が激しいアジャラ地方ですが、山岳部の村の住民の多くはイスラム教徒。
モスクが残っている村も多く、緑豊かな地に根付いた伝統文化が感じられます。
代表的なのが、フロとタゴ。
ソ連時代のケーブルカーで結ばれている二つの村は、まるでジブリ映画の世界に迷い込んだような風景が見られる場所です。
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このソ連時代のケーブルカーがかなり恐ろしく、いつ落ちてもおかしくないようなクオリティー。
利用するにはかなりの度胸と覚悟が必要ですが、ロープウェイで渡った先にあるタゴ村では、村人の笑顔のおもてなしが待っています。
2003年:バラ革命→サーカシュヴィリ 重要人物⑩ 政権誕生
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2000年代に突入すると、汚職や膠着したままの領土問題に対する国民の不満が募っていきます。
2003年の総選挙では不正が行われたとされ、やり直しを訴える人々がバラを持って議事堂を占拠したのがバラ革命。
この革命によって誕生したのが、ミヘイル・サーカシュヴィリ(Mikheil Saakashvili / მიხეილ სააკაშვილი)率いる政権でした。
サーカシュヴィリは「ジョージアの国土分裂を阻止する」ことを公約に掲げており、強権的な政治体制がアブハジア・南オセチア・アジャラの各自治国に脅威を与えます。
象徴的な出来事が2004年に起こったアジャラ危機。
サーカシュヴィリ政権下で自治権の縮小を恐れたアジャラ自治共和国が、ジョージア側との道路を封鎖し、一触即発の状態にまでなりました。
戦闘は対話によって何とか回避され、現在ではジョージア政府の統治が及ぶ「自治共和国」という扱いになり、アジャラ情勢は平穏を取り戻しています。
2008年:南オセチア紛争
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サーカシュヴィリ政権下で起こったのが2008年8月の南オセチア紛争。
この時は、ちょうど北京オリンピックが開催されていた時期。
ロシアのプーチン大統領は北京に滞在中、その他ロシア政府高官の多くも夏季休暇中というタイミングでした。
その隙を狙ったジョージアは、ロシアの影響力が強い南オセチアにジョージア政府側から「侵攻」*し、中心都市のツヒンヴァリを陥落させようとしたことが定説となっています。
これに怒ったロシアは南オセチアに大規模な軍隊を派遣し、ジョージア軍を撃退。
ロシアに賛同するアブハジア共和国も、境界を越えてジョージア側に侵攻します。
ロシア軍に勝てるわけもなく、5日間の戦闘の結果、ジョージアは南オセチアとアブハジアから完全に撤退することとなります。
そればかりか、ゴリ(南オセチアの境界近く)やポチ(アブハジアの境界近く)などの都市をロシア軍に占領される事態となってしまいました。
「8月戦争」や「5日間戦争」とも呼ばれる、この南オセチア紛争に敗北したジョージア。
多くの犠牲を出し、アブハジアと南オセチアからも完全撤退する結果となり、指導者のサーカシュヴィリの責任を追及する声が強まります。
汚職や職権乱用、金銭面でのスキャンダルも次々に明らかになり、2013年の総選挙での敗北をきっかけに、彼はウクライナへと亡命する末路となりました。
2015年:「ジョージア」に国名変更
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南オセチア紛争での敗北をきっかけに、対ロシア感情が急速に悪化したジョージア。
世界各国にロシア語名の「グルジア」ではなく、英語風に「ジョージア」と呼称変更するように働きかけます。
日本政府がそれを承認したのは2015年のこと。
国名を変更したのが良かったのか、それからはヨーロッパ寄りの政策が次々と打ち出され、経済成長も好調となってきています。
格安の物価や生活のしやすさ、大自然の美しさが注目を浴び、「リモートワークの聖地」や「コーカサスの楽園」なんて呼ばれる機会(というか、この国が自称してアピールしている)も増えてきました。
しかしながら、ジョージアの政治状況が安定しはじめてから、まだ10年も経っていません。
未解決の領土問題や、不透明な政治活動に対する抗議運動、近隣諸国情勢の不安定さ…
ジョージアを含むコーカサス地域が完全に安定するには、まだまだ時間がかかるのかもしれません。
地理的に大国に挟まれ、古くから多くの民族の思惑に振り回されてきたコーカサスの小国が、この先どんな道を歩んでいくのか、これからも注目していきましょう。
おわりに
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「これさえ知っておけば、ジョージア旅行がもっと楽しくなる!」というジョージアの歴史の重要事項だけをピックアップした今回の記事。
その割にはかなりのボリュームとなってしまいましたが、これが限界の短さです(笑)
この記事を書くにあたって、ジョージア自体の歴史はもちろん、影響を与えた周辺国の歴史も少し勉強したのですが、一つだけ言わせてください。
周辺国や異民族によってここまで大きく歴史が動かされた国は、これまで学んだ中では初めてでした。(おそらく隣のアルメニアも相当複雑…)
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ジョージア国内を旅すると、各時代の歴史の息吹が感じられる場所が多く残っています。
「わあ、きれいな教会!はい写真。OK次の場所行こ!」と、点から点をなぞるだけの旅も良いでしょう。
しかし、ここは歴史深い「コーカサスの文明の十字路」。
各スポットの歴史的つながりや背景のストーリーを味わって自分なりに理解する「点と点を線で結ぶ旅」をするには、これ以上ないほどに絶好の国だと思います。
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