こんにちは!ボスニア・ヘルツェゴビナの首都・サラエボに滞在中、世界半周中ののぶよ(@nobuyo5696)です。
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ボスニア・ヘルツェゴビナと聞いて、どうしても浮かんでしまうイメージが、1990年代のボスニア紛争ではないでしょうか。
旧ユーゴスラビア戦争の中でも最も過酷なものであったこととしても知られるボスニア・ヘルツェゴビナでの紛争。
「ボスニア紛争」や「ボスニア内戦」とも呼ばれ、NATO軍や国連の介入も虚しく、多くの市民が犠牲になりました。
現在でこそ、町は見事に再建され、戦争の傷跡を感じさせられることも少なくなってきています。
しかし、この場所でかつて起こったことを知ることは、ボスニア・ヘルツェゴビナという国を理解するうえで欠かせないこと。
今回は、首都サラエボにある「ボスニア・ヘルツェゴビナ歴史博物館」に訪問して感じた、ボスニア・ヘルツェゴビナという国の民族構成の複雑さと、戦争に負けずに生きようとした人々の勇気についてお伝えします。
ボスニア紛争とは
のぶよは専門家ではなので、詳しい解説はその道の方が書かれた書籍などを読んで理解していただくとして、あくまでも簡潔に説明します。
ユーゴスラビアからの独立を選んだ、ボスニア・ヘルツェゴビナ
時は1990年代始め。
ソ連崩壊など、共産主義・社会主義体制のの限界が見えてしまっていた時代のこと。
共産主義を採用していた旧ユーゴスラビア連邦でも、連邦を構成していた共和国の関係に軋轢が生じ始めていました。
先陣を切って、スロベニア、マケドニアが、比較的に軍事的被害が少ない状態で独立を果たします。
これらの国は民族的にかなり均一(スロベニア→スロベニア人、マケドニア→マケドニア人)だったため、国内の利害対立が少ない状態で独立へと突き進むことができたのです。
次に独立を試みたクロアチアでは、連邦の継続を望むユーゴスラビア(セルビア)との間で激しい戦闘となったものの、悲願の独立を達成します。
周辺の共和国が次々に独立していく中で、ボスニア・ヘルツェゴビナでも、ユーゴスラビアからの独立の機運が高まっていきました。
1991年10月、クロアチアに倣って、ボスニア・ヘルツェゴビナ政府はユーゴスラビアからの独立を宣言します。
しかし、この選択が、のちに4年間も続く泥沼の内戦につながってしまうなんて、この時誰が予想していたのでしょうか。
一筋縄ではいかなかった、ボスニア・ヘルツェゴビナの国家建設
ボスニア・ヘルツェゴビナの独立が、スロベニアやマケドニアなど他の共和国のようにうまくいかなかった一番の理由は、国内に主な三民族(ボスニア人、セルビア人、クロアチア人)がかなり入り混じって居住していたためでしょう。
上の図は、ボスニア紛争前のボスニア・ヘルツェゴビナ国内の民族分布を示したものです。
赤がセルビア人、緑がボスニア人、青がクロアチア人の多く居住していた地域を表しています。
どれだけ三つの民族が入り混じって居住している場所であったか一目瞭然です。
そしてこちらの図は、ボスニア紛争終結後の民族分布図。
紛争前とは大きく変化しているのがわかります。
というのも、紛争中には「民族浄化」という名目で、その地域に住む多数派の民族が、少数派の他の民族を無理やり追い出したり、殺害したりというおぞましい出来事が起こっていたためです。
民族対立から壮絶な内戦へ
独立宣言をしたボスニア・ヘルツェゴビナの多数派の民族はボスニア人でした。
これに危機感を抱いたのが、次いで多くの人口比率を占めたセルビア人たち。
(ここでは、ボスニア国内のセルビア人のことを指します。)
彼らは、同じ民族であるセルビア共和国(当時のユーゴスラビア連邦の中心的存在)からの支援を得て、セルビア人居住地域を「スルプスカ共和国」として勝手にボスニアからの独立宣言をし、自分たちの領土を拡大しようと他民族が多く居住する地域へと軍を進めました。
対するクロアチア人とボスニア人は、初めこそ連携してセルビア人勢力に対抗していたものの、徐々にうまくいかなくなり、結局こちらも争うことに。
結局、一つの国家としての独立宣言は国内の民族間の分断・争いを招き、戦国時代の陣取り合戦のような様相に変貌してしまいました。
クロアチア人勢力が離れたことで劣勢となったボスニア人勢力をより危機的状況に陥れたのが、1992年から1996年まで実に4年近くも続いたサラエボ包囲でした。
当時からボスニア・ヘルツェゴビナの首都であったサラエボは、山に囲まれた盆地にある特殊な地形の都市。
この地形が仇となり、セルビア人によるセルプスカ共和国軍に町を包囲され、外との移動や輸送などをほぼ完全に遮断されてしまったのです。
日本史を勉強した方ならご存知であろう、「兵糧攻め」。
敵の城を取り囲んで出るに出られなくし、外からの食糧や物資の運搬を遮断することで相手の降伏を促すというものですが、それと同じようなものだと考えていただければ。
事態を重く見たNATO軍によるセルビア側に対する空爆や、アメリカが仲裁した停戦条約によって、泥沼化した内戦はようやく幕を閉じたものの、ボスニア・ヘルツェゴビナという国、そして人々が経験した痛みは想像を絶するものであったことでしょう。
そもそも何が違う?ボスニアのそれぞれの民族
のぶよ的には、ボスニア内戦は何一つ意義のない戦争であったと感じています。
というのも、戦争の当事者であるボスニア人、セルビア人、クロアチア人は、全くの同一民族であるためです。
言語も99%同一で、人種的にもほぼ同じ。
ユーゴスラビア時代には、各民族間の対立は少なく、他民族間での婚姻なども普通であったため、ある人がどの民族に属するかを定義するのはほぼ不可能と言えます。
(強いて言うなら、クロアチアの沿岸部(ダルマチア地方)のみ、かつてのベネチア共和国支配の影響でイタリア人の血が混ざっている人が多いというくらい)
では、どうやってそれぞれの民族が区切られるのかというと、宗教です。
ボスニア人はイスラム教徒、セルビア人はセルビア正教徒、クロアチア人はカトリックという決定的な違いがあります。
とはいっても、ボスニアではいずれの民族もそこまで信仰心が深くない(宗教的過激派が少ない)のが現実。
中東でいまだに続く宗教戦争とは様相が異なります。
ホステルにいたボスニア人が言っていたことがとても印象的でした。
「若い世代はほとんど無宗教で、モスクに行くこともほとんどないし、見た目ではボスニア人・セルビア人・クロアチア人の見分けはつかない。唯一その人の民族を決定づけるのは、その人が付けられた名前だけ。」
つまり、ボスニア人ならイスラム教徒風の名前、クロアチア人にはカトリック系の名前…といった名づけのルールがあるそうです。
それだけ!
たったそれだけの違いしかない、いわば同じ民族の人同士が、泥沼の戦争を通して憎みあっていた。
そんな無意味すぎる戦争が、ボスニア紛争だったわけです。
(もちろん歴史的な事情や民族感情などいろいろな要因が絡み合ってはいると思いますが)
日本国内で例えるなら、
「九州っぽい名字の九州人と、関西っぽい名字の関西人と、関東っぽい名字の関東人が憎みあい、4年間にわたって互いを殺し合いながら勢力を拡大する(「だってむかしむかし戦国時代にあそこの藩の人がうちの藩の人を虐殺したんだもん」という理由で)」
といったところでは。本当に意味がわかりません。
しかし、これは実際に起きてしまったこと。しかもたった25年前のことです。
のぶよが保育園でぬくぬくとおやつを食べたり昼寝したりしている間に、ボスニア・ヘルツェゴビナでは何が起こっていたのでしょうか。
ボスニア・ヘルツェゴビナ歴史博物館へ
サラエボ新市街に位置する、ボスニア・ヘルツェゴビナ歴史博物館。
二階建ての小さな博物館の館内には、壮絶なボスニア紛争の中でも、4年間にわたって続いたサラエボ包囲についての展示が主にされています。
博物館の建物にも、銃撃戦による銃跡が残っています。
インフォメーション
ボスニア・ヘルツェゴビナ歴史博物館
住所:Zmaja od Bosne 5, Sarajevo 71000
営業時間:9:00~19:00
料金:7KM(=¥439)
戦争直後と停戦から15年後(2012年)のサラエボの町
博物館1階部分には、スコットランド出身でサラエボ在住の写真家による、戦争直後に撮られた写真と、停戦から15年後に同じアングルから撮られた写真を並べた展示があります。
戦争後は何もかもが破壊され、壊滅的な被害を負ったサラエボ。
たった15年で、町をここまで復興させた人々の努力には感服させられます。
サラエボ包囲によって一変した市民生活
4年間もの長期間に渡ったサラエボ包囲。
外との接触が完全に遮断されたサラエボ市内は深刻な食糧不足、物資不足に陥りました。
中でも人々を困らせたのが、水と燃料の確保でした。
セルビア人民軍によって水道管や電線が遮断されてしまったため、人々は必死に生き延びるための術を考える必要があったのです。
洗濯ものは川で、調理は手作りのストーブを用いて行うという、まるで原始的な生活に逆戻りしてしまったような日常生活。
これが1990年代に、4年間も続いたというのですから、想像を絶する苦労があったことでしょう。
かつて冬季オリンピックの開催地となったほど、サラエボの冬はとても厳しいもの。
長く厳しい冬をしのぐために人々が考案したのが、手作りのストーブでした。
多くは、食料が入っていた業務用のドラム缶やソフトドリンクの樽で作られていましたが、中には自分の家のトイレの水をためるタンクの部分や、風呂場のボイラーをストーブに作り変えたものもあったそうです。
いざストーブを作っても、問題となったのは燃料の確保でした。
石油や石炭などあるわけがなく、人々は林の木を切って薪を作ったり、ゴミを集めたりと、とにかく燃やせるものはなんでも燃やして暖をとりました。
そのため、当時のサラエボ市民の家の中にはほぼ何もない状態に。
洋服や木製の家具などは全て燃料として利用されたためです。
辛く苦しい時代を無言で見守ってきたこれらの手作りストーブ。
生きるための知恵といえばそれまでですが、人間の強さを感じることができます。
誰にでもすぐ身近にあった「死」
サラエボ包囲時に、市民が抱えていたのは、食料や物資の不足による苦しみだけではありませんでした。
彼らはより直接的な「死の恐怖」と隣り合わせの日常生活を強いられていたのです。
いつどこでセルビア人民軍のスナイパーに狙撃されるかわからなかったため、死角がない交差点を渡らざるを得ないときは、みんな一斉に走って移動していたそうです。
博物館内で最も残酷で、目をそむけたくなるような写真が展示されているのが、こちらの「黒い部屋」。
サラエボ市内で殺害された人々の生々しい写真の数々は、言葉を失ってしまうほどショッキングです。
当時は、道端に死体が転がっているのはごく日常の光景であったサラエボ。
死体を回収している余裕などなく、誰もが自分と家族の身を守るので精一杯でした。
戦争の傷跡を残しつつ、未来へと向かうサラエボ
現在のサラエボの町には平和が戻り、人々の間にも笑顔が戻ってきています。
しかし、この国の20代後半以上の人はみんな戦争経験者。
その心の傷跡を癒すことはなかなか容易ではないのが現実です。
サラエボの町を歩くときふと上を見上げると、無数の銃跡が残る建物の壁が否応なく目に入るでしょう。
また、足元を見下ろすと、赤くバラのような形に塗られた部分が多くあるのに気づきます。
これは「サラエボ・ローズ」と呼ばれる、紛争当時ミサイルが着弾した跡。
戦争の記憶を後世へと伝えるため、アート作品として、サラエボの町中のいたるところに残されています。
前を向いて歩きだしているサラエボの町。
現在では、シリアやイエメンなど戦争状態にある中東諸国からの難民を積極的に受け入れています。
戦争経験者だからこそわかる、痛みや苦しみ。
ボスニア・ヘルツェゴビナは決して裕福な国ではありませんし、多くの難民・移民は西ヨーロッパを目指すための経由地としてこの町へたどり着きます。
それでも、移民や難民に線引きをすることはなく、「サラエボの人々」というタイトルで紹介するこちらの場外展示に、ボスニアの人たちの強さを垣間見たような気がしました。
サラエボで絶対に参加したいのが、90年代のボスニア紛争・サラエボ包囲の歴史を現在に伝えるスポットをまわる現地ツアー。
市民の命を救ったトンネルや、セルビア人兵士が狙撃を行ったビルなど、個人では行きにくい場所にも訪れることができます。
サラエボ起点にモスタルやヤイツェなど他都市へ向かう日帰り現地ツアーもあるので、場合によっては利用価値が高いでしょう。
おわりに
普通の観光スポットめぐりとは異なり、ボスニア・ヘルツェゴビナ歴史博物館への訪問は楽しいものではありません。
ボスニア内戦を後世に伝えるための場所の一つであり、いわゆる「負の遺産」を展示する場所です。
人によっては、「せっかく観光するんだから、きれいなところだけを見て写真が撮れればそれでいい」なんて人もいますが、のぶよはその意見には反対です。
なぜなら、光の部分を観ることだけが観光ではないからです。
影があるからこそ光があるように、その場所が持つ負の歴史の部分を直視することで、光となる部分の見え方や、その国に対する印象も異なったものになってくるはずです。
ボスニア・ヘルツェゴビナという国は、どうしてもかつての戦争と切り離して理解することはできません。
ただの旅行客であるわたしたちも、この国の過去をきちんと知り、自分なりの観点を持つことが大切なのではないでしょうか。
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