こんにちは!アンカラにのんびり滞在中、世界半周中ののぶよ(@nobuyo5696)です。
(世界半周についてはこちらの記事へどうぞ。)
トルコの首都・アンカラの二大観光スポットと言えば、トルコの古代文明に関する素晴らしい展示がされているアナトリア文明博物館と今回紹介するアタテュルク廟(Anıtkabir)。
「トルコ建国の父」と呼ばれ、現在でもトルコ人に愛され尊敬され続けるケマル・アタテュルクが眠る霊廟です。
アンカラの町を見渡す小高い丘の上に築かれた巨大な霊廟内には、アタテュルクがトルコという国にもたらした様々な功績や歴史を伝えるアタテュルクと独立戦争博物館が併設されており、いずれも無料で見学することができます。
↑トルコ激動の時代のアタテュルクの功績が展示されている
トルコという国を深く知るために、絶対に訪れておきたいアタテュルク廟と独立戦争博物館。
いずれもトルコの近代史と切っても切れない関係があり、知らないと訪れる意味がゼロです。
今回の記事では、アタテュルク廟の見どころと、アタテュルクと独立戦争博物館の展示を通して学ぶトルコの近代史を解説していきます。
読み終わるころには、きっとあなたもアタテュルクのファンになっていることでしょう(笑)
アタテュルク廟の見どころ
トルコ語で「アヌトカビル(Anıtkabir)」と呼ばれるアタテュルク廟。
1938年にこの世を去ったトルコ共和国初代大統領、ケマル・アタテュルクが眠る場所です。
彼がどんな人物で、トルコの歴史においてどんな功績を残したのかは後述するとして、まずはアタテュルク廟内の見どころを解説していきます。
ライオンの道
広大な敷地のアタテュルク廟。
北側の入口からゆるやかな坂を登っていくと、最初に到着するのがライオンの道(Aslanlı Yol)と呼ばれる場所。
長さ262mの通りの脇には、24体のライオンの像が設置されています。
ライオンは、紀元前1200年頃にこの地に定住していたヒッタイト族の権力のシンボルだったもの。
現在のトルコでは、強さの象徴として用いられるものです。
24という数字は、中世に中央アジアからアナトリア半島にやってきた24のトルコ民族を表しているそう。
通りを歩いた先にあるのが、ケマル・アタテュルクが眠る霊廟の中庭部分です。
アタテュルク廟
観光のハイライトとなるのが、アタテュルクの遺体が収められたアタテュルク廟。
内部には彼の棺があるだけなのですが、霊廟の建物自体はかなり巨大なものとなっています。
細部に渡って計算しつくされて建設されたことがうかがえる霊廟はとにかく圧巻で、外から差し込む自然光が独特の雰囲気を作り出しています。
霊廟の入口を入ってすぐの場所の壁には、アタテュルクがトルコ国民に最期に残した言葉が刻まれています。
霊廟の最も奥にあるのが、重さ40トンにも及ぶ大理石の棺。
この下に、トルコ建国の父は眠り続けているのです。
アタテュルクの遺体は、当時の科学技術を結集させた防腐処理がされており、現在でも生前の姿のままの遺体がこの場所に安置されているそうです。
見られたらラッキー!衛兵交代式
アタテュルク廟の隠れた名物が、1時間に1回行われる衛兵交代式。
敷地内の各スポットを警備している衛兵たちが、行進しながら持ち場を移動するものです。
アタテュルク廟入口のライオンの道を出発した衛兵たちは、中庭をぐるりと周るようにアタテュルク廟の建物まで行進し、その後再びライオンの道へと戻るルートをとります。
毎時正時にライオンの道をスタートし、アタテュルク廟での衛兵交代が見られるのは10分後くらい。
大声で交代の合図(?)を叫びながら、一糸乱れぬ動きで行進をする衛兵たちの姿は迫力があり、建国の父を守っているという自信が感じられます。
アタテュルクと独立戦争博物館
↑お土産にアタテュルクグッズはいかが?
霊廟内の見学を終えたら、中庭を取り囲む形のアタテュルクと独立戦争博物館へと足を運びましょう。
こちらの見学も無料なのですが、展示物のクオリティーや学べる情報は素晴らしいです。
博物館は結構な規模で、四つの部分に分かれています。
・アタテュルクの私物の展示
・独立戦争に関する展示
・アタテュルクによる改革に関する展示
・アタテュルクについて書かれた書籍の展示
最初のアタテュルクの私物の展示コーナーのみ写真撮影は禁止ですが、それ以外のコーナーはフラッシュを焚かなければ問題ありません。
記事後半の【アタテュルクとトルコの近代史】の項では、主に二つ目と三つ目(独立戦争と改革)に焦点を当てて解説していきます。
博物館見学の所要時間は、さっとみるだけなら30分、じっくり見ていくなら1時間~1時間半ほど。
せっかくここまで来たなら、トルコの近代史と建国の父に思いを馳せながら、ゆっくりと見学していくのがおすすめです。
アタテュルク廟へのアクセス
アタテュルク廟があるのは、アンカラ中心街の西側の小高い丘の上。
入口は北側と南側の二か所で、それ以外の道からは入場できないのでご注意を。
緑:アンカライ/地下鉄駅
赤:北入口/南入口
黄色:無料シャトルバス乗り場
青:見どころ
メインの入口は北側で、最寄りはアンカライのAnadolu駅です。
Anadolu駅からアタテュルク廟入口(手荷物検査がある所)までは500mほど、手荷物検査を受けた場所からアタテュルク廟まではゆるやかな坂道を700mほどです。
手荷物検査場付近とアタテュルク廟の入口となるライオンの道までの700mの区間は、無料のシャトルバスが巡回しているので、歩くのが面倒な場合には利用するのもおすすめです。
南側の入口は、アタテュルク廟との距離は近いものの、最寄りの地下鉄1号線駅・Necatibeyからは1.5kmほど坂道を登らなければならず、こちらにはシャトルバスはありません。
アタテュルクと独立戦争博物館で学ぶ、トルコの近代史
アタテュルク廟の観光自体は、30分〜1時間ほどで済んでしまいます。
しかしながら、併設されている無料のミュージアムの展示は、トルコの近代史を学ぶ絶好の場所。
ケマル・アタテュルクがどうしてトルコ人に愛され続けるのか、トルコという国の運命を決定づけた「建国の父」の足跡を辿ることが、アタテュルク廟で最大の見どころだと言えます。
逆に言うと、何も学ばないままにアタテュルク廟を見学したところで、「トルコのの偉い人のお墓かあ〜、ふーん。」で終わってしまいます。
オスマン帝国終焉からトルコ共和国成立までのおよそ50年に渡る激動のトルコの近代史を理解するためのポイントは、全部で五つ。
・露土戦争の敗北によるオスマン帝国の弱体化(1878年)
・第一次世界大戦の敗北(1918年)
・セーヴル条約による領土割譲とギリシャとの戦争(1920年)
・祖国解放戦争(トルコ独立戦争)でのアタテュルクの活躍(1919-1922年)
・トルコ共和国成立とアタテュルクによる改革(1923年)
アタテュルク廟観光の前に、この激動の時代の流れを把握しておくことは絶対。
ここからは上に挙げた五つのポイントを軸に、オスマン帝国が滅亡しトルコ共和国が成立するまでの50年間の激動の歴史を解説していきます。
1.露土戦争の敗北によるオスマン帝国の弱体化
↑スレイマン1世時代のオスマン帝国の最大領域。
1451年にコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を陥落させて400年以上も繁栄を続けたオスマン帝国。
ヨーロッパから中東、北アフリカまでの広い地域を領土に加え、東の大国としての地位を確固たるものとしていました。
しかしながら、多くの民族や宗教、言語が入り交じる広大な領土を維持し続けることは難しく、1870年代になると支配地域の民族感情が高まってきます。
オスマン帝国の支配地域の民族運動を裏であおっていたのが、南方に勢力を延ばしたいロシア帝国でした。
1877年、オスマン帝国支配下だったモンテネグロ王国の独立運動をきっかけに、ロシア帝国との間で露土戦争が勃発します。
この頃のオスマン帝国にはかつてのような強さは残っておらず、あっけなくロシアに敗北してしまったオスマン帝国。
これをきっかけに、バルカン半島や東欧地域ではオスマン帝国からの独立運動が進み、多くの国が達成します。
オスマン帝国内でも、敗戦をきっかけに古くからのスルタン制度に疑問を持つ人が増え始め、1908年に青年トルコ革命によって立憲君主制が成立します。
これによって誕生した新政権はドイツとの軍事同盟を結び、第一次世界大戦へと進むこととなるのです。
2.チャナッカレの戦いと第一次世界大戦の敗北
↑オスマン帝国軍に撃沈された連合国の軍艦”Ocean”
ドイツやブルガリア、オーストリア=ハンガリー帝国とともに同盟国側として第一次世界大戦に参戦したオスマン帝国。
ドイツ軍の勢力拡大を恐れ、連合国側となったイギリスやフランスと敵対することとなります。
1915年3月18日。
イギリスとフランスの400隻もの軍艦が、トルコ東部の海上交通の要衝であるチャナッカレの町沖合に上陸しようと企てます。
対するオスマン帝国側の指揮をとったのが、ムスタファ・ケマル・アタテュルク。
大きな被害を出しながらも、敵艦をことごとく破壊することに成功し、連合軍を撃退します。
これが有名なチャナッカレの戦い。
戦場となったチャナッカレの町には、当時の記憶を今に伝えるスポットが残っています。
チャナッカレの戦いでの敗北の翌月、再びイスタンブールへの侵攻を企てた連合国側(イギリスとオーストラリア)はダーダネルス海峡(イスタンブールの南に位置するアジアとヨーロッパを隔てる海峡)にあるガリポリ半島への上陸を企てます。(ガリポリの戦い)
再び前線で戦うこととなったアタテュルク。
この時彼が指揮した言葉に、「君たちに(敵を)攻撃するように命令しているのではない。死ねと言っているのだ!」というものがあります。
「死をも辞さない覚悟で戦え」という意味の言葉に鼓舞されたトルコ軍は敵の上陸の阻止に成功し、ムスタファ・ケマルはその名をトルコ中に知らしめることとなります。
↑ガリポリの戦いで、重さ200kg以上の砲弾を運んだことで有名な「偉大なるサイード」の姿も。
当初は好調に防衛に成功していたオスマン帝国でしたが、チャナッカレとガリポリ半島での勝利以降は敗北が続き、徐々に戦局は悪化。
オスマン帝国の敗戦を決定的なものとしたのが、1918年9月のブルガリアの降伏でした。
すぐ西のブルガリアが連合軍の支配下に置かれたことで、連合軍が首都・イスタンブールのすぐそばに迫ることとなり窮地に追い込まれたオスマン帝国。
こうして1918年10月、当時のスルタン・メフメト6世は連合国に対して降伏を選択することとなりました。
3.セーヴル条約による領土割譲とギリシャとの戦争
↑イズミルに侵攻したギリシャ軍
第一次世界大戦に敗戦したオスマン帝国は、1920年に連合国との間にセーヴル条約を結ぶこととなります。
その内容は、広大なオスマン帝国の領土を連合国側が分割統治するというもの。
・イスタンブールとアンカラ周辺を除いた領土をフランス、イタリア、ギリシャに割譲
・中東地域の領土(シリア・レバノン・イラクなど)はフランスとイギリスの委任統治領とする
・オスマン帝国の財政は連合国側が管理する
など、広大だった国土のほとんどを失い財政まで他国の管理下に置かれるという、オスマン帝国にとってはかなり不平等な内容でした。
当時のスルタン・メフメト6世は自身の保身を約束させた上でこれを受け入れたものの、それに反発したのがケマル・アタテュルク。
第一次世界大戦後のどさくさに紛れてトルコ西部に侵攻したギリシャとの間で、すでに領土回復に向けて戦っていた彼は、不平等条約に調印したスルタン政府と決別し、国民軍を率いて自国の領土と尊厳に立ち上がるのです。
4.祖国解放戦争(トルコ独立戦争)でのアタテュルクの活躍
↑7歳から70歳までの男たちが力を合わせて戦ったと言われるトルコ独立戦争
セーヴル条約批准によって、公式にオスマン帝国の領土が割譲される前年の1919年のこと。
オスマン帝国の敗戦後のどさくさに紛れ、イズミルを中心としたトルコ西部地域へ不法に侵攻していたギリシャ軍(第一次世界大戦自体には参戦していない)は、すでにオスマン帝国が降伏していたにも関わらず侵攻を続け、一時は首都のアンカラ近くまで迫ります。
これに対し、ケマル・アタテュルクはアンカラで大国民議会を開いてトルコ国民軍を結成し、真っ向からギリシャ軍と戦うこととなります。
第一次世界大戦後の1919年~1923年にギリシャとトルコ国民党の間で起こったこの戦争を、トルコでは「祖国解放戦争(トルコ独立戦争)」と呼称します。
1921年・サカリャの戦い
ギリシャ軍に対して、トルコ国民軍が初めて勝利を収めたのが、サカリャの戦い。
アンカラの西部に位置するサカリャ川の両岸で行われた戦闘で、追い詰められたトルコ国民軍にはもう後がない戦いでした。
ギリシャ軍はトルコ国民軍が陣取った地域を包囲し、彼らの防衛線を狭めながら国民軍の拠点であったアンカラまで70kmのところまで迫ります。
ここで、ケマル・アタテュルクによる有名な指揮がなされます。
「防衛線などない。トルコ全土という防衛する場所があるのだ。国民の血で母なる大地が染まりきってしまうまでは、諦めることはできない。」
この言葉に鼓舞されたトルコ国民軍は、ギリシャ軍の包囲に風穴を開けることに成功し、戦況は激変。
サカリャの戦いはトルコ国民軍の勝利に終わり、ギリシャ軍の撃退に成功するのです。
1922年・大戦争
サカリャの戦いでの勝利をきっかけに、トルコ国民軍はギリシャ軍の占領地域の回復へと奔走します。
1922年8月22日の「大戦争」と呼ばれる戦闘がその良い例。
トルコ東部、内陸部のアフロン近郊の広い地域で行われた大規模な戦闘で、ここでも、アタテュルクは有名な指揮をしています。
「わが軍よ!最大のターゲットは地中海だ。進め!」
こうしてトルコ国民軍は次々にギリシャの占領下にあった町を開放しながら西に進んでいき、残るギリシャ占領地域はイズミルのみとなったのです。
1922・イズミル奪回
↑イズミルを奪還し、中心街に入場するトルコ国民軍
1922年9月9日、トルコ国民軍はギリシャ占領下にあったイズミルに到達し、ギリシャ軍を撃退することに成功します。
しかしながら、一筋縄ではいかないギリシャ軍は翌9月10日、イズミルを撤退する際に町に火を放っていったのです。
大火に包まれたイズミルの町のほとんどは焼けてしまい、歴史的な場所もほぼ全てが廃墟と化してしまいました。
大火に包まれる町を背景に、イズミルの中心地に国民軍を率いて入場するケマル・アタテュルクの姿は、トルコ独立戦争の勝利を象徴するものとして有名です。
5.トルコ共和国成立とアタテュルクによる改革
こうして、自国の領土の回復に成功したアタテュルク率いる国民軍。
もはや国民の間にはオスマン帝国のスルタン政府に対する信頼はなく、トルコ民族の誇りを守るために戦い抜いた国民軍を新政府とする機運が高まります。
不平等条約であったセーブル条約の代わりに、第一次世界大戦戦勝国およびギリシャとの間にローザンヌ条約を結んだケマル・アタテュルク。
領土と主権を認めさせ、晴れて対等の独立国家として歩む礎を築きあげます。
ローザンヌ条約は、ギリシャとトルコの間で住民交換が行われたこともポイント。
ギリシャ領内のイスラム教徒をトルコに、トルコ領内のキリスト教徒をギリシャに移住させるというものでした。
1923年にはアンカラを首都としてトルコ共和国の樹立を宣言し、スルタン制度を廃止したアタテュルク。
ここに500年近く続いたオスマン帝国の歴史は幕を閉じることとなるのです。
トルコ共和国初代大統領の座についたアタテュルクは、長く続いたオスマン帝国の政教一致政策が国家発展の障壁となると考え、トルコの近代化を推し進める改革を行います。
どれも現在のトルコでは当たり前のことですが、当時としてはかなり勇気がいる決断だったことでしょう。
改革1:アラビア文字の廃止
オスマン帝国時代は、そのあまりに広すぎる領土の中に様々な言語を話す人々が居住していました。
フランス語、英語に造詣があったアタテュルクは、「言語は民族の連帯を生むためになくてはならないもの」と考え、トルコ語の統一文法の再編を進めます。
また科学技術や文学などの面で西洋諸国と競い合うためには表記を変更する必要があると考え、1928年にアラビア文字で表記されていたトルコ語の正書法をラテン文字に改めました。
改革2:数字・暦の西洋化
↑住所表記の数字を変更する人
オスマン帝国時代は、数字すらもアラビア文字で書かれ、暦も西洋のものとは異なる独特のものが使用されていました。
他の国との関係を築く際に、この表記やシステムの違いが障壁となると考えたアタテュルクは数字の表記や度量衡(メートル、キログラムなど)を全て西洋風に変更しました。
改革3:教育制度の見直し
オスマン帝国時代の教育制度は、コーランの教えに基づいた宗教的なものでした。
アタテュルクは、国家の近代化のためには人々が現代的な価値観に基づいて教育を受けるべきだと考え、宗教とは切り離した教育制度の導入を行ったのです。
改革4:女性の権利の保障
↑トルコ初の女性パイロット、サビハ・ギョクチェンはアタテュルクの養女
イスラム社会では女性の権利が軽視されがちなもので、オスマン帝国時代のトルコでもそれは同じことでした。
祖国解放戦争(トルコ独立戦争)における勝利は、女性たちの後方支援なしでは成り立たなかったと実感したアタテュルクは、男女の平等を宣言し、女性の選挙権・被選挙権を認めます。
アタテュルクの男女平等政策を象徴しているのが、アタテュルクの養女であるサビハ・ギョクチェンが、トルコ初の女性パイロットとなったこと。
彼女の功績を讃え、イスタンブールの空港はその名を冠しています。
改革5:苗字制度の導入
驚きだったのが、1934年に至るまでトルコの一般市民は苗字を持っていなかったこと。
父親の名前や生まれた場所の地名などが変わりに用いられ(○○さん家の○○、○○村の○○といった具合に)、新しく導入された行政制度の上で大きな混乱が生まれました。
アタテュルクは、一般市民に苗字を持たせる改革を行い、近代化した行政手続きを円滑に進めることに成功します。
ちなみに、アタテュルクという名前を子供につけたり苗字とすることは、いまだに法律で禁止されているというのですから、彼がどれほど特別な存在であるのかわかります。
改革6:スーフィズムの廃止
セルジューク朝時代からオスマン帝国時代の長きにわたって、トルコの一般の人々の間に根付いたイスラム教神秘主義(スーフィズム)の考え。
アタテュルクは、宗教的性格の強いスーフィズムが政教分離が原則の近代国家として発展していくための障壁となると考え、全面的に禁止するに至ります。
これにより、スーフィズムを象徴するセマー儀式(回転の舞)が行われる会場(セマハネ)も次々と閉鎖されてしまいます。
後に、セマー儀式は宗教的意味合いを薄めた伝統文化として存続が許され、現在でもトルコの一部の地域で鑑賞することが可能です。
おわりに
トルコの父・アタテュルクが眠るアタテュルク廟の見どころと、観光の際に絶対に知っておきたいトルコの近代史をまとめました。
正直、ケマル・アタテュルクという人物の功績と歴史を知っているかいないかで、大きく印象が変わるアンカラ観光。
もしアタテュルクが立ち上がることなく、アンカラがギリシャ軍の手に落ちていたら…。
トルコという国は今は存在していなかったかもしれません。
今回の記事で紹介した歴史は、あくまでもトルコ側の視点に立って書いたもの。
第一次世界大戦や祖国解放戦争におけるアタテュルクの活躍は素晴らしいものがありますが、それと同時に、クルド人の独立問題や隣国アルメニアとの対立の原因が生まれたのもこの時代であることを忘れてはいけません。
(決してアタテュルクのせいではありませんが)
トルコという国が他のイスラム圏と大きく異なった、近代的なイスラム国家としての道を歩むための基礎となったこの時代。
ケマル・アタテュルクという人物がいなければ、きっと現在のトルコは私たちが知っているものとは異なっていたことでしょう。
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とにかく情報量が半端じゃありません。人と違う場所へ行ってみたい人は是非!
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