こんにちは!アルメニアに5ヶ月滞在した、世界半周中ののぶよ(@nobuyo5696)です。
(世界半周についてはこちらの記事へどうぞ。)
アルメニア北部のロリ地方に位置する、デベド渓谷沿いの見どころを紹介している今日この頃。
このエリアの観光で見逃せないスポットについて書く日がやって来ました。
それが、デベド渓谷最北部に位置するアフタラ修道院(Akhtala Monastery / Ախթալայի վանք) ▼
かつては銅鉱山の採掘で栄えたアフタラ村を見下ろす断崖絶壁。
まるで要塞のように強固な城壁に囲まれた修道院は、千年以上の歴史を誇るものです。
アフタラ修道院自体は世界遺産には登録されてはいません。しかしながら、
の二つの世界遺産と合わせて、デベド渓谷エリアの三大修道院として多くの観光客が訪れる場所となっています。
アフタラ修道院が有名である最大の理由が、聖堂の内部をびっしりと覆いつくす13世紀のフレスコ画。
敷地内最大の建物である聖母教会内は、壁や柱、天井にいたるまで色鮮やかなフレスコ画で覆われ、どれも素晴らしい保存状態で残されているのです。
じつは、アルメニアの修道院において、フレスコ画が見られるのはとても珍しいもの。
アフタラ修道院にここまでのフレスコ画が残されていることには、この場所がたどった数奇な歴史が関係しているのです。
また、600年前この地にティムール朝が襲来した際の伝説もいくつか残っており、アフタラ修道院のミステリアスさに花を添えます。
今回の記事は、デベド渓谷エリア観光のハイライトの一つであるアフタラ修道院の観光情報を解説するもの。
アルメニアの中でも異色な存在の聖地。じっくりと堪能してください!
アフタラ修道院の歴史をザックリと。
現在アフタラ修道院が建つ場所に人の手が加えられたのは、およそ千年前のこと。
当初は国境防衛用の要塞として整備され、その200年後に聖母教会が建設されて修道院としての機能を持つことになります。
当初はアルメニア使徒教会の修道院としてひらかれたものでしたが、ビザンツ帝国や中世グルジア王国など近隣諸国の宗教建築の影響を受けたアフタラ修道院。
その歴史の経緯から、良い意味で「アルメニアらしくない」修道院の姿となりました。
①10世紀:アフタラのはじまり
アフタラ修道院の歴史のはじまりは、10世紀後半(1000年前)に遡ります。
当時のデベド渓谷地域は、中世アルメニア王国のバグラトゥニ朝から分裂したキューリキッド朝によるタシル=ジョラゲット王国(Tashir-Dzoraget Kingdom)の支配下。
王国の北側の国境防衛の地として、ここアフタラの断崖絶壁の上に城壁と見張り塔が建設されました。
アフタラに城塞が建設された直後の10世紀から12世紀にかけてのアルメニア一帯では、中央アジアから勢力を広げていたイスラム系王朝・セルジューク朝に領土を脅かされ続け、不安定な時期が続きます。
セルジューク朝の侵攻により弱体化したタシル=ジョラゲット王国は、1118年に北隣で黄金時代を迎えていた中世グルジア王国(現在のジョージア)に併合されます。
中世グルジア王国領となった後もセルジューク朝による脅威はやまず、1180年頃までにはアフタラ一帯はセルジューク朝の影響下に入ってしまいました。
②1188年:聖母教会の完成
アフタラを支配していたセルジューク朝を撃退したのが、中世グルジア王国で活躍していたアルメニア系の一族・ザカリアン家(Zakarians)でした。
ザカリアン家の活躍はすさまじく、セルジューク朝に支配されていたアルメニア地域を次々に解放。
1184年にタマル女王が中世グルジア王国の国王の座に就いた後の、黄金時代に大きく貢献します。
(ソース:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Georgian_empire_with_tributaries.png )
キリスト教国であった中世グルジア王国の影響力の下で、ただの要塞だったこの断崖絶壁に聖堂が建設されたのが1188年のこと。
イヴァネ・ザカリアン(Ivane Zakarian)というザカリアン家の人物が指揮をとり、完成したのが現在にも残る聖母教会でした。
③13世紀:アフタラ修道院の黄金時代
中世グルジア王国のタマル女王の治世下は、領土であったコーカサス地域一帯においての黄金時代。
現在のジョージア地域のみならず、アルメニア地域でもキリスト教文化が再び花開きました。
1188年の聖母教会の完成にともない、アフタラが修道院としての機能を持ち始めたのもこの時代。
敷地内には、修道僧用の食堂や浴場などが整備され、多くの人々が巡礼に訪れるようになりました。
アフタラ修道院の黄金時代を象徴するのが、1205年~1216年にかけて聖母教会内部にフレスコ画が描かれたこと。
聖母教会の建設を命じたイヴァネ・ザカリアンの出資によるものでした。
イヴァネ・ザカリアンは、アルメニア系でありながらジョージア正教会で洗礼を受けた人物。
その信仰はカルケドン派(ビザンツ帝国で主流だったキリスト教の一派)の影響も受けていたと言います。
そのため、当時イヴァネが建設・再建を指示したアルメニア北部地域の修道院は、伝統的なアルメニア教会の建築・装飾とは異なるジョージア風/ビザンツ帝国風の内装・外観のものが多いのです。
その最大の特徴が、色とりどりのフレスコ画で聖堂内部を装飾すること。
アルメニアの一般的な修道院では、内壁は石を削っただけのむき出しの状態であるのが普通。
いっぽうで、アフタラ修道院をはじめ、コバイル修道院やハフパット修道院など、イヴァネが関与したデベド渓谷エリアの宗教建造物には当時のフレスコ画が残るものが多いのです。
④1400年:ティムールの侵攻によって衰退
アフタラ修道院が黄金時代を謳歌していたのは、たった数十年のことでした。
13世紀半ばのモンゴル帝国の襲来、14世紀の黒羊朝(現在のトルクメニスタン)の襲来と、次々に東方からの異民族による侵攻を受けてはどうにか追い払い、なんとか修道院としての機能を保ち続けていました。
衰退しつつあった聖地にとどめをさしたのが、1400年に現在のウズベキスタンから襲来したティムール朝でした。
アフタラ修道院は徹底的な攻撃対象となり、城壁の大部分が破壊され、修道院の建物も大きな被害を受けてしまいます。
こうしてティムール朝襲来をきっかけに、アフタラは修道院としての機能を失ってしまうことになります。
ティムール朝による被害が大きかったアフタラ修道院の近くには、当時に関するいくつかの伝説が根付いています。
それが、アフタラ修道院の北側の山にある「ティムールの岩」と呼ばれる巨大な岩に関してのもの。
アフタラに侵攻したティムールでしたが、妻の一人がこの場所で亡くなり、その遺体は金銀財宝とともに修道院近くの岩の下に埋葬されました。
このとき埋葬に携わった兵士たち数人は、財宝のありかを隠しておきたいティムールの命令によってすべて殺害されてしまいました。
アフタラを支配下にしたティムールがさらに他の地域への侵攻に励んでいたときのこと。
ティムールの実の息子がアフタラ村のアルメニア人女性と恋に落ち、彼女との結婚を許してもらい、アルメニアの侵攻をやめるように父に懇願しました。
怒り狂ったティムールは、息子に呪いをかけてアフタラの山頂にある大岩の中に閉じ込めてしまいます。
それ以来、アフタラ村では山から叫び声のような不気味な音が聞こえるように。
地元では、大岩に閉じ込められたティムールの息子の叫び声だと恐れられてきたそうです。
いずれの伝説も、征服地でさまざまな残虐行為をしたとされるティムールという人物を象徴するようなものです。
真偽のほどは不明ですが、600年以上が経った現在でも語り継がれているというのがポイント。
ティムール朝の襲来が、どれほど大きな出来事で衝撃的なものだったのかが想像できます。
⑤18世紀後半:ギリシャ正教の聖堂として復活
ティムール朝の襲来によって、聖地としての機能を失ってしまったアフタラ修道院。
異民族の襲来から300年以上の間、ペルシア帝国(現在のイラン)の支配下に置かれていたこの場所が再び歴史に登場するのは、18世紀に入ってからのことでした。
1763年に、カルトリ=カヘティ王国(現在のジョージア東部~アルメニア北部)のエレクレ2世がオスマン帝国領から移住してきたギリシャ人移民800人をアフタラに住ませたのです。
アフタラ修道院は、もともとカルケドン派(=ギリシャ正教にも近い)の影響を受けたイヴァネ・ザカリアンによって建設されたもの。
そのため、アフタラ村に移住してきたギリシャ人たちの信仰の場として機能しはじめ、19世紀にアルメニア使徒教会の所有に戻るまでそれが続きます。
アフタラ修道院でもう一つ有名なのが、セルゲイ・パラジャーノフ監督の「ざくろの色」のロケ地として使用されている点 ▼
パラジャーノフ監督のファンなら、映画に出てくるシーンそのままの聖母教会内部の光景に、きっと感動するはず!
アルメニア教会からジョージア正教会へ、ティムール朝による破壊を通してギリシャ正教会、そして再びアルメニア教会へ…
アルメニア広しと言えども、ここまで数奇な歴史をたどった修道院もなかなか珍しいもの。
修道院の規模自体はそれほど大きなものではありませんが、歴史と伝説息づく断崖絶壁の聖地は、訪れる者に感動を与え続けています。
アフタラ修道院の見どころ
緑:ビューポイント
黄色:マルシュルートカ停留所
オレンジ:ヒッチハイクポイント
アフタラ修道院の敷地自体はそれほど大きくはありませんが、しっかりと見学するには1時間ほどの時間をみておくのがおすすめです。
個人でマルシュルートカでアクセスする場合は、スケジュール上30分ほどしか観光できないのがネック。
アフタラ修道院に関しては、ゆっくりと見学したいならタクシーをチャーターしてのアクセスの方が良いかもしれません。
①城壁&見張り塔
三方を断崖絶壁に取り囲まれたアフタラ修道院で唯一の入口となるのが、城壁の一部に設置された見張り塔。
アフタラ修道院の敷地内で最も早い時期に完成したもので、10世紀(1000年前)頃の建造だとされています。
見張り塔のすぐ近くには、秘密の地下通路への入口も設置されています。
敵の襲来時にこっそりと外へ避難できるように掘られたもので、かつては麓のアフタラ村へとつながっていたそうです。
②聖バシレイオス教会
①見張り塔と⑥聖母教会のちょうど真ん中あたりに位置する小さな教会が聖バシレイオス教会(St. Basil Church)。
「聖バシレイオス」とは、ギリシャ正教の聖人として信仰される実在の人物のこと。
18世紀にギリシャ正教の聖地となったアフタラ修道院のたどった歴史を感じさせます。
③食堂跡
敷地内の東側の城壁にくっついて建つ二階建ての建物は、食堂の跡。
アフタラ修道院が黄金時代を迎えた13世紀に、この地で生活を送った修道僧たちの生活の場であったと考えられています。
食堂の正面部分には、深さ2mほどの四角い穴が掘られています。
ここには浴場が設置されていたと考えられていおり、かつての修道僧たちの生活に思いを馳せることができます。
④ザカリアン家霊廟
⑤ガヴィトの南側に建てられた小さなチャペルのような建造物が、ザカリアン家の霊廟。
アフタラ周辺からセルジューク朝勢力を一掃し、聖母教会内にフレスコ画を施すことを命じたイヴァネ・ザカリアンとその息子が眠っています。
この霊廟は1241年にイヴァネ・ザカリアンが死去した際に建設されたもの。
1188年に完成した聖母教会より50年以上後のことなので、他の建造物からやや浮いているような印象を持ちます。
⑤ガヴィト(拝廊)
アルメニアの聖堂の多くに併設されているガヴィト(拝廊)ですが、一般的には外部とは遮断されて独立した空間であるのが普通。
いっぽう、ここアフタラ修道院のガヴィトは半屋外となっており、「聖母教会に付属したアーチ付き廊下」のような独特な空間です。
アルメニアで多くの宗教建築物を訪れましたが、こうした造りのガヴィトはとても珍しいもの。
こうした点にも、ジョージアやビザンツ帝国など諸外国の建築の影響が感じられます。
ガヴィト部分から小さな入口の扉をくぐった先にあるのが、見学のハイライトとなる聖母教会です。
⑥聖母教会 ハイライト!
アフタラ修道院観光の最大の目玉となるのが、メインの建造物である聖母教会(Surb Astvatsenkal)。
1188年に、イヴァネ・ザカリアンの指揮によって完成したものです。
四方の外壁には巨大な十字架が掘られ、その左右の楕円形の窓を彩る細かな装飾が特徴的。
これらはいずれも中世グルジア王国の典型的な様式で、アルメニアではあまり見られないものです。
中央のドーム天井は八角柱型となっており、こちらもかなり独特。
このように外観一つを見ても、中世アルメニアで一般的な宗教建築とは大きく異なったスタイルであることが一目瞭然ですが、内部に関しても同じことが言えます。
壁や柱、天井にいたるまでフレスコ画がここまでびっしりと描かれているのは、アルメニア全土を見てもここアフタラ修道院くらいですから ▼
オレンジ色の優しい光で照らされたフレスコ画は、どれも素晴らしい保存状態。
自然光が入りにくい造りになっているため、各色があまり風化することなくしっかりと残っているのです。
聖母教会内部のフレスコ画はすべて、 アフタラ修道院の黄金時代の1205年~1216年にかけて描かれたもの。
フレスコ画はいずれもビザンツ帝国由来のビザンチン様式ですが、その内容は4世紀初頭のアルメニアのキリスト教化に関する歴史を描いたものです。
聖母教会内で最も良好な保存状態のフレスコ画が見られるのが、正面の祭壇と入口付近の壁、そして正面右側(南側)の壁です ▼
色鮮やかなフレスコ画に360°囲まれるように、礼拝のためのスペースが設置されています。
窓から差し込む柔らかな自然光に包まれた空間は、自然と背筋がピンとのびるほどに神聖な雰囲気をまとっていました。
▲ 正面の祭壇上部に描かれているのは、キリストを抱きかかえる聖母の姿。
ビザンチン様式の聖堂でよく見られるもので、アフタラ修道院のフレスコ画の中でも最も有名なものです。
⑦修道院ビューポイント ハイライト!
アフタラ修道院の見学時間に+30分~40分追加できるなら、修道院全体を一望できるビューポイントに足をのばすのもおすすめ(マップ 緑色)。
観光客用に整備されたビューポイントではなく、ただの道路脇ですが、断崖絶壁の上に建つ修道院の現実離れした風景が一面に広がります。
アフタラ修道院へのアクセス・行き方
アフタラ修道院へのアクセス拠点となるのが、アラヴェルディ(Alaverdi)の町。
アラヴェルディはデベド渓谷北部エリアの中心的な町で、ほとんどの場合はここを拠点に郊外の見どころへ足をのばすことになるはずです。
アラヴェルディ~アフタラ間のアクセス方法は、以下の3通り。
予算・プランに合ったものを選びましょう!
①タクシー
アラヴェルディの中心街には、暇そうに客待ちしているタクシーがとにかくいっぱい。
何も言わずとも向こうから声をかけてくるので、料金交渉して利用するのもアリです。
アラヴェルディ~アフタラ修道院前のタクシー料金の相場は、片道2500~3000AMD(=¥593~¥712)。
観光時に待機してもらって往復で利用する場合は、事前の交渉必須です。
せっかくタクシーをチャーターするなら、アフタラ修道院があるデベド渓谷エリアの見どころをセットでまわるのが絶対におすすめ。
どれもそれぞれ異なる魅力があり、絶景が望めるものばかりです。
料金相場はどこを組み合わせるかによって変動しますが、【サナヒン修道院 + ハフパット修道院 + アフタラ修道院】が定番。
その場合は1日タクシーチャーターとなり、8000AMD(=¥1849)~10000AMD(=¥2311)くらいが相場だと思います(時期によって変動する可能性大)。
②現地ツアー
「限られた日程しかとれないけど、アフタラ修道院周辺の見どころは全部制覇したい!」という人は、現地ツアーに参加するのもおすすめ。
エレバン発着のツアーがほとんどですが、お隣ジョージアの首都・トビリシ発着の日帰りツアーも存在します。
③マルシュルートカ
個人でアラヴェルディ~アフタラを移動する場合、マルシュルートカ(乗り合いミニバス)の利用も可能です。
アラヴェルディ~アフタラ間を走るマルシュルートカは1日2往復のみで、運賃は300AMD(=¥71)。
1日2往復ならなんとなく余裕で日帰りできそうな気もしますが、旅行者的にはかなり不便なスケジュールなのがネックです ▼
アラヴェルディ発 | アフタラ発 |
9:00 | |
12:00 | |
13:30 | |
15:30 |
そう…日帰りの場合は、アラヴェルディ発12:00 / アフタラ発13:30の便の利用に限られてしまうのです。
何が問題かというと、アラヴェルディを12:00に出発したマルシュルートカがアフタラ修道院への分岐点(マップ黄色)に到着するのが12:30頃。
分岐点から修道院までは片道徒歩15分(往復30分)ほどかかるため、13:30アフタラ発のマルシュルートカを利用するなら、修道院の観光時間がたった30分だけとなってしまうのです。
とはいえ、個人でアラヴェルディからの日帰りでアフタラを訪れる場合は他に選択肢がないため、のぶよはこのプランで強行しましたが、正直30分だと時間が足りません。
往復はダッシュ&かなり急ぎ足の観光となってしまいました。
ゆっくりと観光したい場合は、
・アラヴェルディからの往復タクシー利用
・アフタラ村に一泊する
・アフタラ村入口の幹線道路(マップオレンジ)まで徒歩で下って、ヒッチハイクorアラヴェルディ方面へのマルシュルートカが通るのを待つ
のいずれかが良いと思います。
アラヴェルディ~アフタラ間のマルシュルートカは、アフタラ修道院の分岐点を経由した後、2kmほど先の山の中腹にあるアフタラ村中心街(マップ黄色) まで走り、そこでアラヴェルディ方面へ折り返します。
修道院観光後、アラヴェルディ行きのマルシュルートカが分岐点付近を通るのは13:35~13:40頃。
これを逃したらもうマルシュルートカはないので、気合いで間に合わせましょう…
【アラヴェルディの宿をさがす!】
おわりに
アルメニアに数ある修道院の中でも、異色の存在であるアフタラ修道院の観光情報を解説しました。
個人ではやや行きにくいスポットではありますが、わざわざ足をのばす価値は十分にあります。
アフタラ修道院が位置するデベド渓谷は、自然風景の美しさはもちろん、大小さまざまな修道院や教会が点在している穴場の観光エリア。
ぜひゆっくりと滞在して、長い歴史に裏付けられた魅力を体感してほしいです!
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