こんにちは!元ポルトガル在住ののぶよ(@nobuyo5696)です。
日本から遠く離れた、ユーラシア大陸最西端に位置するポルトガル。
10年ほど前には経済危機を経験し、ギリシャやスペインとともに「EUのお荷物」なんて呼ばれていた時代もありましたが、現在ではその豊富な観光資源に注目が集まりつつある「西ヨーロッパの穴場の国」となっています。
今でこそ小国の座に落ち着いたポルトガルですが、今から500年前の大航海時代には世界を制したことは誰もが知るところ。
しかし、「大航海時代」という単語だけが独り歩きしてしまっているのは事実。
どうしてポルトガルが大航海時代で成功を収めたのか
どうしてその栄光は続かなかったのか
これらを知る人は意外にも少ないのではないでしょうか。
ポルトガルを旅行していると、かつての栄光の時代が感じられるスポットを多く訪れることになります。
その際に、ポルトガルの歴史を少しでも知っているだけで、旅の楽しさや理解度が何倍にも上がるはず。
今回の記事では、ポルトガルがたどった歴史を5つの時代に分けて解説していきます。
観光名所などの歴史や背景の説明で必ず登場する、「ポルトガルの歴史を変えた10人のキーパーソン」を軸に解説していくので、きっと実際に旅行する際に「あ、この人知ってる!」となるはず。
ただ写真を撮って「ああきれい。はい次!」いうスタイルで旅するよりも、ポルトガルという国をより深く楽しむことができるはずです!
ポルトガルの歴史1:古代~イスラム教徒支配時代(~1128年)
ヨーロッパの端っこ、イベリア半島の西側に位置するポルトガルですが、他のヨーロッパ諸国と同様にローマ帝国の支配下に入っていました。
徐々にキリスト教が広まっていたこの地の歴史を大きく変えたのが、7世紀頃に北アフリカからやってきたイスラム教徒たち。
他のヨーロッパ諸国とは異なるポルトガルという国独特の雰囲気が形作られた点はもちろんのこと。
後の大航海時代を迎える基礎となる技術がもたらされたのもこの時代です。
- 紀元前139年ローマ帝国の支配下に
- 585年西ゴート王国の支配下に
・キリスト教の普及 - 715年イスラム教徒による支配
・イスラム教の普及
ローマ帝国時代~西ゴート王国支配時代
イベリア半島の端に位置するポルトガルは、紀元前139年に強大な勢力を誇ったローマ帝国の支配下に入ります。
ポルトガルではローマ帝国の公用語であったラテン語から派生したガリシア・ポルトガル語が生まれ、現在のポルトガル語につながることとなります。
数百年の間、ローマ帝国支配によって平和が保たれていたイベリア半島。
6世紀頃に入ると、ローマ帝国の弱体化によって、ゲルマン系民族による西ゴート王国によって征服されます。
西ゴート王国時代は、ポルトガルとスペインの民衆にキリスト教が根付いた時代。
他のヨーロッパ諸国同様に、このまま中世キリスト教文化が花開くのかと思いきや、そうはいきませんでした。
イスラム教徒による支配
ポルトガルとスペインが、他のヨーロッパ諸国と異なる歴史を送る分岐点となったのが、北アフリカから海を越えてやってきたイスラム教徒による支配時代でした。
711年にキリスト教国家であった西ゴート王国は滅ぼされ、715年にはイベリア半島のほぼ全域がイスラム教徒勢力の支配下に入ります。
当時のイスラム社会は、キリスト教社会よりもかなり進んだ文明を持っていました。
カトリックであったポルトガル人の大半がイスラム教に改宗し、建築や学問の分野でイスラム文化が花開いていきます。
ポルトガルの伝統タイルアートとして有名なアズレージョは、実はこの時代にイスラム教徒から持ち込まれたものが起源。
当初はカラフルで凹凸が見られる作品が多かったのですが、後にポルトガルで独自に発展し、現在のアズレージョ文化へと繋がっていくのです。
他にもイスラム教徒支配時代は、後のポルトガルの歴史を大きく動かすきっかけを作りました。
造船技術
度量衡(重さ・長さなど)の統一
馬具・武器の改良
などがもたらされ、大航海時代に先陣を切って世界に出ていく海洋大国の基礎が作られたと言えるえしょう。
“Al”から始まる地名は、アラビア語由来!
ポルトガル中部~南部にかけては、「アル(Al)~」から始まる地名が多く残っています。
アルガルヴェ地方(Algarve)
アレンテージョ地方(Alentejo)
アルブフェイラ(Albufeira)
アルジェズル(Aljezur)
これら全て、イスラム教徒支配時代のアラビア語が由来となったもので、北部ではほとんど聞かない地名です。
こうしてみると、当時ポルトガル南部がどれだけイスラム色が強かったのか分かるような気がしますね。
ポルトガルの歴史2:独立からレコンキスタ完了へ(1128年~1415年)
キリスト教文化圏からイスラム教文化圏になって300年ほどの時が経ったポルトガル。
歴史が大きく動いたのが、10世紀~11世紀頃のことでした。
イスラム教徒支配に反抗したレオン・アストゥリアス王国(現在のスペイン北部)から始まったレコンキスタと呼ばれる国土回復運動がイベリア半島全体で盛んになり、イスラム勢力はどんどん南へと追いやられていったのです。
ポルトガルでもレコンキスタの意識が高まり、北部地方を中心にポルトガル王国が成立。
現在のキリスト教国・ポルトガルの始まりとなりました。
- 1128年ポルトガル王国成立
・アフォンソ1世が初代国王に - 1131年コインブラに遷都
- 1147年リスボン奪還
- 1249年レコンキスタ完了
・アフォンソ3世が南部のファロを奪還する
・リスボンを首都に遷都(1255年) - 1297年ポルトガルの国境確定
・ディニス1世統治にポルトガル王国最盛期に - 1384年カスティーリャ王国によるリスボン包囲
・ジョアン1世がカスティーリャ軍を撃退
ポルトガルの偉人1:アフォンソ1世→ポルトガル王国成立
ポルトガルという国の全ての基礎を築き上げたのが、アフォンソ1世(アフォンソ・エンリケシュ)というキーパーソン。
ポルトガル北部のギマラインスという町を首都に、1128年にポルトガル王国を成立させ、初代国王として即位します。
それからたった3年後の1131年には、レコンキスタを進めることに重点を置き、首都を中部のコインブラに遷都します。
1147年には、さらに南のリスボンをイスラム教徒の手から奪還することに成功したアフォンソ1世。
現在のポルトガルの国土の北半分を取り戻したことになります。
ポルトガルの偉人2:アフォンソ3世→レコンキスタ完了
アフォンソ1世の死後、さらにレコンキスタを南に進めたキーパーソンが、孫にあたるアフォンソ3世。
1249年に、ポルトガルで唯一イスラム教徒の支配下として残されていた最南部のファロを陥落させ、ポルトガルでのレコンキスタを完了させました。
一方隣国のスペインでは、その後200年以上(~1492年)までレコンキスタが続けられていました。
ポルトガルがこの早いタイミングで統一国家を築き上げたことは、後の大航海時代で先陣をきって成功を収めた理由の一つとなったのです。
ポルトガルの偉人3:ディニス1世→黄金時代
レコンキスタが完了し、キリスト教文化を取り戻したポルトガル。
モスクはカトリックの教会や聖堂に改修され、他のヨーロッパ諸国との交易港として、ポルトとリスボンがどんどん発展していきました。
ポルトガル王国の最盛期に王位についていたのがディニス1世。
1297年には、隣国カスティーリャ王国(現在のスペイン)との間に条約を結び、今日まで続くポルトガルの国境線を確定させることに成功しました。
ディニス1世は隣国からの侵攻を防ぐために、アレンテージョ地方の村々に城塞を建設して、国境地帯の防衛を強化します。
また、現在話されているポルトガル語も、この時代にガリシア語と分離したものが起源。
スペイン北西部で話されるガリシア語とポルトガル語はかなり似ていて、お互いに意思疎通が簡単にできてしまうほど。
その理由も、700年前まで同じ言語だったことを考えると納得のいくものですね。
伝説にも登場するディニス1世
ディニス1世と言えば、ポルトガル人なら誰もが知っている「イザベル王妃のバラの奇跡」で有名なイザベルの夫であった人物。
自分にも他人にも厳しく、嘘を嫌ったディニス1世は、ポルトガル人にも人気の高い歴史上の偉人です。
ポルトガルの偉人4:ジョアン1世
ディニス1世時代に最盛期を迎えたポルトガル王国でしたが、そこから100年ほどの間は混乱の時代となりました。
国境を定めたにもかかわらず、隣国のカスティーリャ王国はポルトガルに何度も侵攻し、1384年にリスボンを包囲するまでに至ります。
この時活躍したのがドン・ジョアン。
カスティーリャ軍からリスボンを守り抜き、ジョアン1世として国王に即位します。
ジョアン1世の息子が、有名なエンリケ航海王子。
この父子2世代数十年間で、隣国の侵攻に悩むヨーロッパ辺境の地の小国→大航海時代の始まりとポルトガルの歴史が大きく動いたことは間違いありません。
ジョアン1世の父・「残酷王」ペドロ1世
ジョアン1世と言えば、ポルトガルの独立を守り抜いた立役者としての顔以外にも、「残酷王」と呼ばれた父・ペドロ1世の息子であるという点でも有名な人物です。
ポルトガル人なら誰もが知っている「ペドロとイネスの悲恋物語」の主人公であるペドロ1世は、愛する妻・イネスの殺害に加担した敵を生きたまま内臓をえぐり出して処刑したことで知られる人物です。
ポルトガル王国混乱の時代背景に生まれた美しい悲恋物語。
舞台となったコインブラとアルコバサの二つの町には、今でも彼らの足跡をたどろうとするポルトガルの人々が多くやってきます。
ポルトガルの歴史3:大航海時代(1415年~1581年)
ポルトガルが世界史に名を刻むこととなった大航海時代。
その幕開けは、先に紹介したジョアン1世とその息子たちによるセウタ(モロッコ北部・現在はスペイン領)の占領によるものでした。
東の地中海方面にはカスティーリャ王国やハプスブルク家、オスマン帝国など、当時かなりの力を誇った勢力がうじゃうじゃいたため、ポルトガルが進出する余裕はありませんでした。
北の北海ルートでも、イングランドやフランス、オランダなどが勢力を争っており、ポルトガルにとってはどう考えても負け戦です。
そのため、大西洋の大海原へ向けて出発したのが全ての始まりだと言われています。
その後のポルトガルの快進撃は皆が知るところ。
イスラム教徒支配時代にもたらされた航海技術と偶然が重なり、南米、アフリカ、アジアの広い範囲を支配し、香辛料や絹製品などの中継貿易で莫大な富を築くことになります。
ポルトガルがヨーロッパで一番最初に海洋進出した理由
まさに「幸運に恵まれた」ような形でポルトガルが大航海時代に先陣を切って世界を制することができたことには二つの理由があります。
スペインよりも早い時期にレコンキスタが完了していて、統一国家として発展できたため
→1492年のグラナダ陥落までずっとレコンキスタが続けられていたスペインに比べると、ポルトガルは200年以上も早く国土を統一していました。
そのため、国が一つになって海洋進出へと突き進む意識が早いうちから生まれたのでしょう。
地中海諸国・北海沿岸諸国との関係が薄かったため
→当時の海上交易の中心であった地中海や北海に面していないポルトガルでは、既存の交易網に属さない仲間外れのような立場にありました。
そのため、新大陸を目指して独自の交易網を獲得しよういう野望が生まれたのです。
- 1431年アゾレス諸島発見
- 1498年インド航路開拓
・ヴァスコ・ダ・ガマの活躍 - 1500年ブラジル発見
- 1543年種子島到達
- 1581年フェリペ2世即位
・スペインとの同君連合が成立
ポルトガルの偉人5:エンリケ航海王子→大航海時代の幕開け
「大航海時代」と聞いて真っ先に思い浮かぶ人物が、エンリケ航海王子ではないでしょうか。
先に紹介したジョアン1世の息子として北部のポルトで誕生した王子は、大西洋への進出に情熱を捧げた人物です。
アフリカ西海岸の探検やアゾレス諸島への到達を指揮したエンリケ航海王子ですが、その人物像や功績については多くが謎なままとなっているミステリアスな存在。
王子自身は航海に出ておらず、金銭的な援助をしたに過ぎないというのが定説となっています。
しかしながら、大航海時代の始まりを担った人物であるのは間違いありません。
リスボンのベレン地区にある「発見のモニュメント」の先頭に立つ彼の姿は、海洋大国・ポルトガルを象徴しているかのようです。
海のイメージが強いエンリケ航海王子ですが、国内の治水事業や町の整備に尽力したという一面も持ちます。
王子が整備した町として有名なのが、リスボン近郊にあるトマール(Tomar)。
世界遺産の修道院があるトマールの中心街は、エンリケ航海王子の性格を表したかのように整然とした町並み。
ポルトガルの一般的な町の特徴である、坂道で入り組んだ路地が連なる風景とは一線を画しています。
ポルトガルの偉人6:マヌエル1世→植民地政策による絶頂期
大航海時代のポルトガル黄金期に国王となったキーパーソンが、有名なマヌエル1世。
彼の功績で最も特筆すべきが、有名な探検家であるヴァスコ・ダ・ガマに命じてインド航路を開拓させたことでしょう。
1498年にヴァスコ・ダ・ガマはインドのカルカタに到着し、翌年にリスボンへと戻ります。
これによって、世界で初めてアフリカ最南端の喜望岬を越えてアジアに至るインド航路が確立されました。
ヴァスコ・ダ・ガマの悲しみの航海
ヴァスコ・ダ・ガマと言えば、探検家としての華々しい活躍で有名ですが、彼がインド航路を発見してリスボンへと戻る航海中の1499年に悲劇が起こりました。
一緒に航海をしていた実の兄であるパウロ・ダ・ガマが、航海中に亡くなってしまったのです。
リスボンへと戻る前に、アゾレス諸島のテルセイラ島に兄の遺体を埋葬するために立ち寄ったヴァスコ・ダ・ガマ。
彼が実際に入港したアングラ・ド・エロイジュモ港には、その時の姿を描いた銅像が佇んでいます。
その後1500年に、インド航路を辿っていたペドロ・アルヴァレス・カブラルという探検家が漂流し、偶然流れ着いたのがブラジルでした。
ブラジルは植民地化して砂糖を生産・輸出させ、インドではさらに東のアジア地域から運ばれる香辛料や絹の中継貿易で莫大な利益を上げたのがこの時期。
かつてはアジア→中東→アドリア海→ヨーロッパと運ばれていたこれらの商品の流通が根底から変わることとなりました。
インドを拠点に、さらに東へと進出したポルトガル。
マカオやティモール島を支配下におき、明(現在の中国)との交易に乗り出していました。
1543年にポルトガル人が、嵐に巻き込まれて偶然到達したのが日本の種子島でした。
(ブラジルしかり、やたら行き当たりばったりなのがポルトガルです)
当時の日本は戦国時代真っただ中。
明との交易用にポルトガル人が船に積んでいた鉄砲に目を付けた大名によって、ポルトガルとの交易が始まり、初めて西洋文化が入ってくることになりました。
大航海時代の栄光の象徴!マヌエル様式
マヌエル1世時代の華々しい歴史は、「マヌエル様式」と呼ばれる当時の豪華絢爛な建築様式に見ることができます。
ジェロニモス修道院
ベレンの塔
トマールのキリスト教修道院
などに見られる、海や船をモチーフにした重厚で緻密なデザインが特徴的で、世界遺産に登録されているものも多いです。
ポルトガルでしか見られない独特な様式なので、観光の際にはぜひチェックしてみてください!
ポルトガルの偉人7:フェリペ2世
こうして大航海時代の繁栄を謳歌しているように見えたポルトガル。
しかしながら、没落は意外と早かったのです。
ポルトガルやスペインが世界進出していることに焦ったイギリスやオランダは、ポルトガルが植民地化していたアジア地域の交易路をどんどん奪っていきました。
東で絶大な力を誇ったオスマン帝国も、ポルトガルの海洋進出を阻むように中東の沿岸地域に領土を拡大し、ポルトガルの影響力はどんどん低下していきました。
1581年に、ポルトガル王家の血が途絶えたことをきっかけとして、お隣スペインのフェリペ2世がポルトガル国王として即位し、ポルトガルは事実上スペインの一部となってしまいます。
フェリペ2世は、オーストリアのハプスブルク家の血を引く人物で、ポルトガルを支配下においてその海外領土を継承することで、スペインの黄金時代を築き上げました。
長年のライバルであったスペインにほぼ「併合」されてしまったポルトガルは、世界での影響力を一気に失い、ここから400年以上に渡る混乱と衰退の時代に入っていくのです。
ポルトガルの歴史4:動乱と衰退の中世後期(1640年~1910年)
大航海時代後に世界の覇権争いの表舞台から姿を消したポルトガルには、苦難の歴史が待ち構えていました。
スペイン支配からは比較的早い段階で独立を達成するものの、王政は混乱していくばかり。
海外植民地の多くを失い続け、ついに砂糖貿易による国家収入の生命線であったブラジルにまで独立されてしまいます。
- 1640年ブラガンサ朝の始まり
・ジョアン4世によってスペイン支配から独立 - 1755年リスボン大地震
- 1822年ブラジルの独立
ポルトガルの偉人8:ジョアン4世→再独立・ブラガンサ王朝創立
スペインによるポルトガル支配は60年近く続いたものの、ジョアン4世統治時代の1640年に再独立を達成します。
ジョアン4世は、ポルトガル北部のブラガンサという小さな村の侯爵だったため、以後ずっとこの村出身者からポルトガル王家が輩出されることとなり、ブラガンサ王朝と呼ばれます。
1755年:リスボン大地震
工業化の失敗と植民地の喪失によって低迷していた18世紀のポルトガル。
弱り目に祟り目となったのが、1755年におきたリスボン大地震でした。
歴史ある建物のほとんどは破壊されてしまい、ポンバル侯が主導となって町の再建に努めます。
ポンバル侯の名前は、現在でもリスボン新市街の「ポンバル侯広場(Praça do Marqués de Pombal)」に残されています。
現在のリスボン中心街にあるバイシャ地区やシアド地区、バイロ・アルト地区などの建物は、この時代に復興されたものがほとんどです。
リスボンで唯一地震の被害が少なかったのが、旧市街東側に位置するアルファマ地区。
イスラム教徒支配時代から続く迷路のような町並みが残されており、どこか漂う異国情緒にかつての町の姿が感じられます。
ポルトガルの偉人9:ジョアン6世→ブラジルの独立
経済は行き詰まり、首都は地震によって壊滅状態…とどうしようもなくなっていたポルトガル。
そこにとどめを刺したのが、フランスで一世を風靡していたナポレオン軍の侵攻でした。
1808年、リスボンに入城を果たしたフランス軍をなんとか撃退したポルトガルでしたが、当時の摂政であったジョアン6世は植民地であったブラジルへと亡命し、ブラジル国王として即位してしまいます。
国王不在のポルトガル本国に対して、ブラジルを中心に政治が行われる様子は、まさに立場逆転。
現役の植民地が宗主国のようになるという、カオスな状態になりました。
そうこうしているうちに、1822年にとうとうブラジルはポルトガルから独立。
長い間経済を支えてきたブラジルの植民地経営を失い、国内には王が不在というポルトガルは、まさに八方ふさがり状態に陥ってしまいます。
これから王政が終焉する1910年までの90年間のポルトガルは、まさに混乱と衰退の極み。
権力争いが横行し、国民による反乱が相次ぐ暗黒の時代となりました。
ポルトガルの歴史5:独裁政権支配~財政危機&復活(1910年~)
1908年に国王・カルロス1世がリスボンのコメルシオ広場で暗殺され、その息子のマヌエル2世が国王となります。
しかし、ポルトガル王家にはもう国をまとめる力は残っていませんでした。
2年後の1910年10月5日、共和政への移行を求める人々が宮殿を攻撃し、国王一家は亡命。
こうしてポルトガルの王政は終了し、民主的に支配者を選ぶ共和政が始まってすべてがうまく行くように見えました。
しかし、一筋縄でいかないのがポルトガル。
近代史も混乱の連続だったのです。
- 1910年共和政樹立
- 1926年軍事クーデター
- 1932年サラザールによる独裁体制
- 1974年カーネーション革命により民主化
- 2010年欧州金融危機
ポルトガルの偉人10:サラザール→独裁体制
1910年の共和政樹立後は、ヨーロッパ全体が第一次世界大戦に向かっていた不安定な時期。
ポルトガルでは王政の復活を望む人々が反乱を起こしたり、軍事クーデターによって軍事政権が樹立されたりと、政治は常に不安定な状態にありました。
1932年に首相に選出されたアントニオ・サラザールは、初めこそ軍事政権から共和政への移行を謳っていたものの、徐々に独裁者としての顔を表すようになります。
政治活動の禁止
新聞等の検閲
孤立主義
中国共産党との接近
などの政策を実施し、従わない者は弾圧するという強権的な体制となります。
そんな独裁政治が幕を下ろしたのが1974年4月25日に起こったカーネーション革命。
「リスボンの春」とも呼ばれたこの出来事は、無血革命の成功例として国民に受け入れられ、人々がカーネーションの花を渡しあって自由を祝ったことからこの名前がついています。
リスボンのランドマークである「4月25日橋」の名前になっているように、この革命が起こった日はポルトガル人の誇り。
現在でも国民の祝日となっているほどです。
旧植民地の独立~経済危機
カーネーション革命は植民地独立主義の青年将校主導で行われたものだったため、革命後はアフリカにわずかに残されていた旧植民地のアンゴラやモザンビークなどが次々に独立していきました。
1999年にはマカオの中国への返還、2002年には最後に残ったポルトガル植民地の東ティモールの独立を経て、ポルトガルは完全に海外植民地を失い、ヨーロッパの一国として新たに歩みだします。
ポルトガルに関して記憶に新しい出来事が、2010年の欧州金融危機。
ポルトガルは経済破綻まではいかなかったものの、深刻な打撃を受けた経済状況が国民生活を圧迫しました。
あれから10年ほどがたった現在では、ポルトガル経済はかつてないほどに好調。
これまでほとんど日の目を見なかった観光業に熱烈な注目が集まっており、旅行先や移住先としても人気の国となってきているためです。
大航海時代の栄光が嘘のように暗黒の時代へと変貌したという、世界でも激動の歴史をたどった国の一つであろうポルトガル。
この先観光業における一流国となっていくのか、はたまた更なるどんでん返しが待ち受けているのか。
その答えはまだ誰にもわかりません。
おわりに
今でこそのんびりとした素朴な雰囲気が魅力のポルトガルですが、その歴史は一筋縄で語れるほどシンプルではありません。
大航海時代の栄華が残りつつもどこか郷愁ただよう独特な街の雰囲気は、「栄枯盛衰」の酸いも甘いも経験してきたポルトガルだからこそなのかもしれませんね。
日本でポルトガルというと、やはり大航海時代のイメージが大きいでしょう。
しかしそれ以外にも様々な出来事があって、今のポルトガルがあるということを忘れてはいけません。
今回紹介したポルトガルの歴史を変えた10人のキーパーソンたちの名前は、ポルトガルを観光していると必ず耳にする機会がある人ばかり。
観光スポットの背景にある歴史の流れを理解して旅するのも面白いですし、きっとポルトガルという国をより深く理解することができるはずです。
コメント