こんにちは!アルメニアに5ヶ月滞在した世界半周中ののぶよ(@nobuyo5696)です。
(世界半周についてはこちらの記事へどうぞ。)
「エレバンに滞在している」と言うたびに、「ここは絶対に行った方が良い!」と多くの人におすすめされる場所があります。
行こう行こうと思いつつも、ついつい後回しにしていたその場所へとうとう行ってきました。
それがセルゲイ・パラジャーノフ・ミュージアム。
セルゲイ・パラジャーノフとは、ソ連時代に活躍したアルメニア人映画監督。
エレバンはもちろん、トビリシ(ジョージア)やキエフ(ウクライナ)など、当時一つの国であったソビエト連邦の各地をベースにしながら、独特の世界観を放つ作品を世に発した人物です。
日本でもかなり有名な人物だそうで、パラジャーノフ作品のファンもけっこう多いのだとか。
(のぶよは全く知りませんでした…)
そんな鬼才の功績を讃えるミュージアムが、エレバンの中心街北部にあります。
実際にミュージアムに足を運んでみた感想は、素晴らしいのひとことでした。
映画監督としての名声や華々しい功績は彼の一つの側面でしかなく、激動のソ連時代を生きた「セルゲイ・パラジャーノフ」という人物の半生を追体験しているかのような気分になったからです。
ミュージアム内の小さな空間は、パラジャーノフの息づかいが今にも聞こえてきそうなほどに情念で満ちたもの。
激動の時代を駆け抜けた一人の表現者の生きた痕跡を、展示作品の一つ一つから感じ取ることができます。
今回の記事では、エレバンのセルゲイ・パラジャーノフ・ミュージアムの魅力をたっぷりと解説していきます。
ミュージアム内の展示作品を通して、「銀幕のマジシャン」と称された人物の生き様にせまっていくスタイル。
写真たっぷりでお届けするので、きっと実際に訪れた気分になれるはずです!
セルゲイ・パラジャーノフとは
セルゲイ・パラジャーノフ(Sergei Parajanov / Սերգեյ Փարաջանով)は、1924年にトビリシ(現在のジョージア)で生まれた映画監督/アーティストです。
アルメニア人の両親のもとに生まれたアルメニア人でありながら、トビリシで少年時代を過ごしたパラジャーノフ。
1945年(21歳)にモスクワの映画学校に入学し、1950年(26歳)にキエフ(ウクライナ)に移ったことをきっかけに映画監督としてのキャリアをスタートさせます。
1960年代半ばから、その類まれな才能がソ連のみならずヨーロッパでも知られることとなり、のちに「代表作」とされる二つの作品が生み出されました。
・1965年 “Shadows of Forgotten Ancestors“(邦題:「火の馬」)
・1971年 “The Color of Pomegranates“(邦題:「ざくろの色」)
秀逸なカメラワークと映像世界の美しさは、もちろんパラジャーノフ作品の最大の魅力。
同時に、ソ連という多民族国家を背景とした「異文化への興味・多文化共生」というテーマは作品全体に共通しており、パラジャーノフ作品を唯一無二の存在にしています。
当時のソ連では社会主義の名のもとに、民族主義を生み出しかねない歴史観や宗教観などのテーマはタブー。
政府にとって都合が悪い文学・芸術作品や映画などはすべて検閲・制限の対象となり、パラジャーノフにとっても自由な表現ができない不遇の時代が続きました。
彼の人生を大きく変えることになった出来事が、1973年~1977年(49歳~53歳)の4年間にわたり投獄されたこと。
獄中で彼が発揮したのが、アートやクラフトなど芸術の才能でした。
エレバンのパラジャーノフ・ミュージアム内の展示のメインは、投獄時代以降に作られたアート作品の数々。
「銀幕のマジシャン」と呼ばれた鬼才の映画監督が持ちあわせていた、繊細で前衛的な世界観がいっぱいに詰まった空間となっており、その人物像を感じることができるようになっています。
パラジャーノフ・ミュージアムの基本情報
エレバンでセルゲイ・パラジャーノフ・ミュージアムを開設する計画が固まったのは1988年のこと。
当時エレバンに滞在しながら、最後の作品「告白」の製作に励んでいたパラジャーノフ自身がこの場所を選び、オープンに向けた準備が進められていました。
その矢先の1988年12月7日に発生したのが、スピタク大地震。
アルメニア北部地域が壊滅的な被害を受けることとなり、ミュージアムのオープン準備も一時的に中止されることになりました。
ようやくミュージアムがオープンできたのは、パラジャーノフ死去から1年後の1991年のこと。
ソビエト連邦はもちろん、欧州にもその才能を存分に知らしめた鬼才は、自身の人生の集大成となるミュージアムをその目で見ることなくこの世を去ったのです。
恥ずかしながら、「セルゲイ・パラジャーノフ」という名前すら知らなかったのぶよ。
ミュージアム訪問前にザックリと彼の功績や映像作品の解説を予習してから訪れたのですが、正直、映画監督としてのパラジャーノフの功績を一切知らない人でも楽しめると思います。
というのも、ミュージアム内の展示は、彼の映画監督としての華々しいキャリアや作品の世界観等に焦点を当てたものではないため。
彼が制作したアート作品の展示がメインとなっており、それらを通して「セルゲイ・パラジャーノフとはどんな人物だったのか」を伝えるような展示内容になっているのです。
ミュージアム内に展示されている200点以上の作品は、とにかくパラジャーノフ・ワールド全開。
もしも彼が映画監督として名声を得ていなかったとしても、その独特のセンスや世界観は別の道でも評価されていたのではないかと感じました。
ミュージアムは年中無休で営業しているのも旅行者的にはポイント高め。(月曜日でも開館しています!)
また、館内の写真撮影は自由である点も嬉しいです。
見学に必要な時間は人それぞれ変わってくる(パラジャーノフ作品のファンなのか、ザックリ見るだけで良いのかetc…)でしょうが、ミュージアム自体は二階建てのこじんまりとしたものなので、そこまで多くの時間はかかりません。
最低でも1時間/ゆっくり見ても2時間ほどあればOKなので、エレバン観光の途中に立ち寄ることも可能です!
パラジャーノフ・ミュージアム内の展示でたどる鬼才の半生
セルゲイ・パラジャーノフという人物の半生と、その魂が息づくミュージアムの概要が分かったら、いよいよ実際に見学するとき。
二階建てのミュージアム内部では、少年時代~映画監督としての活躍~投獄時代~死去まで、66年間に渡る彼の激動の人生を追体験できるようになっています。
先述の通り、彼の映像作品に関しての展示はやや少なめ。
投獄時代を通して開花したアート・クラフト作品の展示が主なものとなっています。
①トビリシでの少年時代~モスクワでの学生時代(1924年~1945年)
セルゲイ・パラジャーノフがトビリシで誕生したのは、1924年1月9日のこと。
当時のジョージア地域はソ連に併合されて3年足らずで、社会はまだ不安定な状態にありました。
ジョージアという国が独立した現在なら、セルゲイ・パラジャーノフは「アルメニア系ジョージア人」という括りになるのでしょう。
しかしながら、当時はアルメニアもジョージアもソビエト連邦という一つの国の一部であったため、両親のどちらもアルメニア人であるセルゲイは、「トビリシで生まれたアルメニア人」というアイデンティティーとともに生きていくことになります。
当時のトビリシは、アルメニア人やアゼルバイジャン人、ロシア人などの多くの民族が居住する「民族のるつぼ」でした。
宗教も文化も言葉も異なる様々な民族が、それぞれのコミュニティーに属して生活しながら「トビリシ」という一つの共同体をゆるやかに形成している…
そんな不思議な町の独特な環境こそが、セルゲイ少年の身近にあったものでした。
誕生から20年余りを過ごしたトビリシでの生活こそが、のちの映像作品や、一見バラバラな物体を組み合わせたコラージュなどの芸術作品にみられるパラジャーノフの美学の根幹にあるものと言えるのかもしれません。
セルゲイの家庭は比較的裕福で、父・サルギスが営んでいた骨とう品店も盛況。
自宅には古今東西の骨とう品がずらりと並び、セルゲイは小さなころから音楽や芸術、演劇などの習い事に通うことができていました。
1945年(21歳)に旅行で訪れたモスクワに感動したセルゲイは、翌1946年に国立モスクワ映画大学に入学。
映画監督・劇作家としての基礎を学び、大学教授の助監督としても高い評価を得ます。
モスクワ芸術大学在学中の1947年、セルゲイは逮捕され投獄されることに。
他の学生と酒を飲んで悪ふざけをしたことが明るみになり、同性愛行為の嫌疑をかけられてのことでした。
当時のソ連政府では、同性愛は反社会的行為とされて犯罪でした。
実際にそうした行為があったのかどうかは定かではないまま、翌1948年までセルゲイは人生初の獄中生活を送ることとなります。
彼が同性愛者であったのかどうかは、最期までその口から語られることはありませんでした。
のちに二度の結婚をし子供も授かることとなるセルゲイでしたが、その後も同性愛の嫌疑をかけられ、ソ連当局による数回の逮捕・拘留を経験することに。
「おそらくバイセクシャルだったのではないか」というのが定説となっています。
1952年にモスクワ芸術大学を卒業したセルゲイは、翌1953年にキエフ(現在のウクライナ)へ居を移すことを決意。
ここから、短編作品やドキュメンタリー作品の制作を通した下積み時代が始まります。
②キエフ在住時代(1953年~1964年)
セルゲイが「映画監督セルゲイ・パラジャーノフ」として独り立ちするための下積み時代を過ごしたのが、ウクライナの首都・キエフでした。
1953年にモスクワからキエフへと移ったパラジャーノフは、いくつかの長編劇作品を完成させ、ウクライナの映画界において徐々にその知名度を上げていきます。
10年以上の間、キエフでキャリアを積み続けたパラジャーノフ。
彼がソビエト連邦内はもとより、欧州においてもその名を一躍有名なものにした作品が、1965年(41歳)に発表された”Shadows of Forgotten Ancestors”(邦題:「火の馬」)でした。
ウクライナの地方部に暮らす少数民族の生活を背景にした作品で、極彩色のシーンやカメラワークが欧米圏で一躍注目を浴びることに。
「火の馬」は全編ウクライナ語で、土着の宗教や民族的な伝統がテーマになった作品。
当時のソ連では「社会主義リアリズム」のもとで、宗教色や民族色が強い作品の上映は厳しく制限されていたため、ウクライナの民族感情を煽りかねない「火の馬」が全国公開されることはありませんでした。
ソ連当局はパラジャーノフに「火の馬」内の問題のシーンをカットして再編集することを強いましたが、彼はそれを拒否。
こうして、すでにウクライナで製作予定だった別の作品は中止に追い込まれ、パラジャーノフはエレバンへと居を移すことを決意します。
③エレバン在住時代(1968年)
自身のルーツであるアルメニアの首都・エレバンに戻ったパラジャーノフは、1969年(45歳)に、18世紀のアルメニアに実在した吟遊詩人の人生をテーマにした“Sayat Nova“という作品を完成させます。
しかしながら、アルメニアの歴史に忠実に製作したことが「反ソ連的」という批判にさらされ、当初はこの作品が大きな成功を呼ぶことはありませんでした。
パラジャーノフにとって大きな転機となったのが、”Sayat Nova“の発表から2年後の1971年(47歳)のこと。
同作品を短縮・リメイクして改題した”The Color of Pomegranates“(邦題:「ざくろの色」)がソ連政府にも受け入れられ、首都・モスクワでの公開とともに大きな話題になります。
「ざくろの色」は欧州の映画界でも高く評価され、現在でも「パラジャーノフ作品の最高傑作」と評価されているほど。
日本でもこの作品を通してパラジャーノフという人物を知った人も多いかもしれません。
「ざくろの色」の成功とともに、パラジャーノフにとって映像制作がしやすい環境になるのかと思いきや、そうはいきませんでした。
これまでの作品の中で反体制的な思想を表現してきたこともあり、ソ連政府から許可が下りずに自由な作品を作れない不遇の時代が続きます。
④ウクライナでの投獄時代(1973年~1977年)
反体制的な思想を表現しつづけていたパラジャーノフに手を焼いたソ連政府によって、1973年(49歳)、パラジャーノフは逮捕・投獄されることに。
その主な罪状はまたも「同性愛行為」でしたが、それは表向きの体裁。
本音では「反体制的な問題児」であったパラジャーノフの活動を制限しようという当局の意図があったのでしょう。
こうしてウクライナの強制労働収容所に送還されたパラジャーノフは、1977年(53歳)までの4年間にわたる獄中生活を強いられることとなりました。
投獄期間中にはもちろん映画の制作はできなかったのですが、有り余る情熱を持て余したパラジャーノフが牢獄内で発揮したのが、アートやクラフトなど芸術の才能でした。
彼の「表現すること」に対する情念はすさまじかったよう。
収容所の職員たちや収容所の仲間たちにゴミをとっておいてもらっては、ひたすら何かを作る姿に「あいつは頭が狂っている」と噂されていたほどだそうです。
当時のパラジャーノフが生み出した作品を見ていると、厳しく劣悪な環境でも自身のインスピレーションを形にして表現しようという天性のアーティストらしい気質や情念が感じられます。
パラジャーノフは強制労働に従事している期間でも、その反権力的な姿勢は曲げていなかったよう。
それを象徴するのが、こちらのクラフト作品にまつわるエピソードです ▼
清掃労働の際に、収容所の職員に「お前の仕事には情熱の”炎”がない!」と叱責されたパラジャーノフ。
その収容所の職員が再び彼の前を通ったときに、自身が使っていた箒を火で燃やして「”炎”を燃やしながら仕事している」ことを見せつけたのだとか。
(たぶんこういうところ、のぶよと気が合うと思う)
反抗的な態度をしていたこともあってか、独居房に入れられることもしばしばあったパラジャーノフ。
仕事に対する情熱の炎には乏しかったものの、制作に対する情熱の炎は独居房の暗闇の中でも消えることはありませんでした ▼
収容所時代のアート作品を見学していると、どんな環境におかれようとも自分を貫き通して自己表現をし続けるパラジャーノフという人物の強さが感じられます。
外界から隔絶されたウクライナでの4年間の収容所時代は、もともとその片鱗を見せていたパラジャーノフの芸術的な才能をさらに確かなものとしたはず。
収容所という物資が限られた環境にもかかわらず、4年間で800以上ものコラージュ作品やクラフト作品を生み出したというのだから驚きです。
⑤トビリシ在住時代(1977年~1988年)
1977年(53歳)で刑期を終えて出所したパラジャーノフは、生まれ育ったトビリシ(ジョージア)を拠点に映像制作に励むかたわら、4年間の収容所時代に情熱を注ぎこんだアート・クラフト作品を次々と制作し続けました。
パラジャーノフがトビリシで暮らした家の内部は、オリジナルの家具や調度品とともにミュージアム内にそのまま再現されています ▼
ミュージアムの展示品の多くは、このトビリシ時代に制作されたもの。
どれもかなり前衛的で、宗教や民族による分断・対立を望まない「多言語・多民族共存」というパラジャーノフの映像作品に共通するテーマが感じられる展示品が目立ちます。
それまでは映画監督として自由な表現ができずにいたパラジャーノフにとって、1980年代は追い風となった時代。
その最大の要因が、当時のゴルバチョフ政権が掲げたペレストロイカ(改革)路線でした。
それまで厳しく制限されていた芸術面における表現が、ある程度自由にできる社会になってきていたのです。
こうして映像作品の制作を再開することができたパラジャーノフの活躍の場は、トビリシだけにとどまりませんでした。
当時はソ連支配の下で一つの国であったアゼルバイジャンやアルメニアにも活躍の場を広げ、コーカサス地域の歴史や伝統文化を題材にした作品を発表します。
・1984年:ジョージア人小説家の作品を映像化した”The Legend of Suram Fortress“(邦題:「スラム砦の伝説」)
・1988年:アゼルバイジャンの文化や風俗を題材とした”Ashik Kerib“(邦題:「アシク・ケリブ」)
これらの作品は、いずれもパラジャーノフにとっての永遠のテーマである「多文化共存」がベースとなっているもので、国際的にも高い評価を得ることに成功しました。
1988年には、トビリシの自宅を売り払い、母国・アルメニアのエレバンへ居を移すことにしたパラジャーノフ。
ようやく自由な表現ができるようになった中で、どうしてわざわざ自身が生まれ育った町・トビリシを離れ、アルメニアへ移住する決断をしたのか。
その最大の理由が、初となる自叙伝的作品を自身のルーツがあるアルメニアを舞台に完成させるためでした。
⑥エレバンで自伝的作品「告白」の製作(1988年~1990年)
1988年(64歳)にエレバンへ移ったパラジャーノフは、自身のアート作品を展示するミュージアムを開設する話を快諾。
エレバン中心街北側の一角の土地を自ら選び、オープンに向けた準備が始まります。
同時に、映画監督としての活動にも精を出します。
不遇の時代に脚本を書いていた自叙伝作品 “The Confession“(邦題「:告白」) の撮影が、ここエレバンを舞台に始まりました。
しかし、パラジャーノフの映画監督としての運命は、最後まで神に味方されることはありませんでした。
「告白」の撮影が始まって間もなく、ガンに蝕まれていることが判明。
エレバンの病院に入院するもむなしく、1990年7月20日、「銀幕のマジシャン」と呼ばれた鬼才は66歳でその生涯に幕を下ろしました。
パラジャーノフがこの世を去ってから30年余りが経ちますが、彼の遺した映像作品は色褪せることなく、現在でも多くの人々に感動を与え続けています。
本人はその目で見ることがとうとう叶わなかった、エレバンのフラズダン渓谷を望む高台にぽつりと建つ小さなミュージアム。
その内部は、パラジャーノフが遺した200点以上のアート作品がごちゃごちゃに詰め込まれた異空間のように思えるかもしれません。
しかしながら、何を表しているのか見当もつかないほどに前衛的な作品の一つ一つが、セルゲイ・パラジャーノフという人物の生きた証を訪問者に語ろうとしている…そんな情念に満ちあふれており、まるでミュージアムの空間全体が一つの芸術作品のようでした。
苦難の日々を過ごしながらも、自身の信条や感覚をありのままに表現することに憑りつかれていた一人のアーティスト。
彼がこの世に遺したメッセージは、言葉がわからなくとも五感を通してひしひしと伝わってくるはずです。
おわりに
エレバン観光でぜひとも訪れたいセルゲイ・パラジャーノフ・ミュージアムを紹介しました。
パラジャーノフ作品が好きな人は絶対に訪れるべきだと思いますし、そうでない人でも彼の独特なセンスが光るアート作品の数々には感銘をうけるはずです。
アルメニア国内やジョージアのトビリシには、パラジャーノフが実際に作品のロケ地とした場所や彼ゆかりの場所も多くある点も見逃せません。
パラジャーノフ関連のスポットには他にもいくつか訪れたので、今後記事にできたらと思います!
コメント