④【1008~1220】東西統一&黄金時代
300年ほど続いたアラブ人による支配が終わりを迎えたのは、11世紀初めのこと。
歴史上初めて東西ジョージアが統一され「中世グルジア王国」の華々しい歴史の始まりです。
キリスト教文化が復活し、平和な時代のもとで繁栄を極めた200年余りは「ジョージア史の黄金時代」。
大規模な修道院や聖堂が次々に造られ、現在のジョージアの見どころの多くがこの時代に関係しています。
この時代で絶対に知っておきたいのが次の3人の人物。
・バグラト3世
・ダヴィット4世
・タマル女王
いずれもジョージアの人々が誇りに思う「中世の黄金時代」で大切な役割を担った人物たち。
旅行していると絶対に耳にすることがあるので、要チェックです!
「中世グルジア王国」は「中世カルトリ王国」とも呼ばれますが、どちらも同じ国家を指します。
しかし、「カルトリ王国」は先述のイベリア王国の別名である「古代カルトリ王国」を指す場合もあって話がややこしくなるため、ここでは「中世グルジア王国」で統一しています。
1008年:バグラト3世 重要人物④ による中世グルジア王国の建国
アラブ人の勢力が弱まり、キリスト教圏の影響力が回復しつつあった10世紀末に、ジョージア西部から東部の広い範囲を支配下においたのがバグラト3世(Bagrat III / ბაგრატ III)。
1008年に、ジョージアのほぼ全域(カヘティ地方とトビリシ以外)を支配下に置き、歴史上初めて東西ジョージアが統一されました。(中世グルジア王国)
バグラト3世は中部のクタイシに首都を置き、周辺のイメレティ地方で中世のキリスト教文化が花開くことになります。
建国から2年後の1010年には東部のカヘティ地方も支配下にし、あとはアラブ人勢力による支配が続くトビリシを奪還するのみとなりました。
1089年:ダヴィット4世 重要人物⑤ が領土拡大
バグラティ3世によって建国された中世グルジア王国。
初めこそ華々しい歴史だったものの、11世紀半ば頃からは南のトルコ系民族の大国・セルジューク朝の進出に悩まされ、領土の一部が奪われてしまいました。
そんな時代に国王として即位したのが、ダヴィット4世(David IV / დავით IV)でした。
彼の軍事の才能は素晴らしく、セルジューク朝を破って領土をどんどん拡大。
1122年には、アラブ人の手から東部の要衝であるトビリシを奪還し、クタイシから遷都します。
その後もダヴィット4世の勢いは止まらず、即位から30年余りで南コーカサスほぼ全域を支配するまでに。 ▼
この後、モンゴル帝国やオスマン帝国、ペルシアなど大国の支配下におかれることとなるジョージアですが、現在でも東部と西部に同じ国としてのアイデンティティーが根付いているのは、ダヴィット4世による統一のおかげ。
この人物の活躍がなければ、東ジョージアと西ジョージアは、現在別の国としての歴史を歩んでいたのかもしれません。
ダヴィット4世は拡大した領土から得た富を、自国の発展のために惜しみなく使いました。
「強い国を作るためには教育が大切」と考え、各地に王立学校(アカデミー)を建設したことでも知られ、「ダヴィット建設王(Davit the Builder)」という別名がついているほど。
▲ 今でもジョージア国民に愛される「建設王」の墓石は、自身が建造したクタイシ近郊の世界遺産・ゲラティ修道院の庭に残されています。
1184年:タマル女王 重要人物⑥ 治世下に中世グルジア王国最盛期
ジョージア人に「歴史上で最も好きな人物は?」と尋ねると、半数以上がある人物の名を上げます。
それがタマル女王(Tamar the Great / თამარ მეფე)
ジョージアの歴史において最初で最後の女性国王で、中世グルジア王国の最盛期を担った人物です。
1184年に国王に即位した後は、コーカサス地域に点在していた他の王国を全て属国にし、南北コーカサス地域全体を支配下におきました。 ▼
当時は、「イスラム教徒の支配から聖地エルサレムを奪還する」目的の十字軍が、ヨーロッパから派遣されていた時期。
同じキリスト教圏の中世グルジア王国でも十字軍の動きが追い風となったことが、領土拡大を後押ししました。
タマル女王の治世時代は、文学や建築などの文化面においても中世グルジア王国の黄金期。
様々な作品や建造物、フレスコ画などの宗教画など、現代にも残っているものがとても多いです。
タマル女王時代でもう一つ重要なことが、歴史上初めてスヴァネティ地方を支配下に置いたこと。
深い山々に囲まれたスヴァネティ地方は大国の支配が及びにくく、長い間自治が行われていた場所。
中世グルジア王国の支配下になった後は、タマル女王自らが毎年夏に足を運ぶほどにお気に入りの地域だったと言われています。
ジョージア国民みんなに愛されるタマル女王。
彼女にまつわる伝説やエピソードは各地に残っているので、あらかじめ知っておいて旅するのがおすすめです!
タマル女王に関して最も有名なエピソードの一つが、ジョージア南部に位置するヴァルジア(Vardzia / ვარძია)にまつわるもの。
アラブ人支配下の9世紀頃に信仰を守ろうとしたキリスト教徒たちが、天然の岩山を利用して洞窟修道院を築いたものです。
その規模はものすごく、19層に及ぶ無数の洞窟が階段や通路で結ばれていて、もはや迷路のよう。
この「ヴァルジア」という名前自体が、タマル女王に関連するもの。
女王が幼い時に叔父とこの場所を訪れた際に、アリの巣のように入り組んだ洞窟の中で迷子になってしまい、山の麓から彼女の姿を探す叔父に対して当時の言葉で「Var dzia!(=「叔父さん、ここです!」)」と呼び掛けて自分の居場所を知らせて助けてもらったというもの。
ジョージアではかなり有名な話なので、ヴァルジア観光の際には覚えておくのも面白いでしょう。
また、ヴァルジア観光のハイライトとなる聖母昇天教会の内部には、タマル女王が描かれたフレスコ画が残っているのですが、ジョージア国内で3つしかない「結婚前のタマル女王」を描いたもので、かなり貴重なものだそう。(撮影は禁止)
観光の際はお見逃しなく!
⑤【1220~1335】モンゴル支配~再独立
タマル女王の治世下で領土は史上最大になり、文化面でも黄金期を迎えた中世グルジア王国。
こんな栄光の時代がこれからも続いて行くのかと思いきや、そうも行きませんでした。
タマル女王の死から10年も経たないうちに、はるか東からモンゴル帝国が襲来。
それまで200年ほどの中世グルジア王国の繁栄は一瞬で幕を下ろし、激動の時代が始まるのです。
1220年:モンゴル軍の襲来
1213年にタマル女王が亡くなり、息子のギオルギ4世が国王に即位。
母親が築き上げた王国の栄光をさらに大きなものにしよう…!とした矢先のことでした。
遠く東アジアでチンギス・ハンが建国したモンゴル帝国がコーカサス地域に襲来し、中世グルジア王国はなす術もありませんでした。
国王のギオルギ4世は戦死し、1243年、中世グルジア王国はモンゴル帝国の支配下に。
200年以上続いた黄金時代に幕を下ろすことになりました。
【サムシュヴィルデ】
ジョージア南東部のクヴェモ・カルトリ地方にあるサムシュヴィルデは、モンゴル軍が襲来した際に最初に陥落することになった町。
サムシュヴィルデは中世初期の城塞都市で、周囲三方を深い谷間に囲まれた天然の要塞のような地形。
モンゴル軍は、この場所を拠点として首都のトビリシへと軍を進めたとされています。
モンゴル支配を受けなかった「スヴァネティ地方」
唯一、モンゴル帝国の支配が及ばなかったのが、タマル女王時代に支配下にしていたスヴァネティ地方。
かつてのように村ごとに自治が行われる制度に再び戻ったのですが、タマル女王時代に権力を持った村人が反発し、村人間の内部抗争が多発しました。
現在スヴァネティ地方を象徴する風景となっている「復讐の塔」と呼ばれる見張り塔。
この時代の内部抗争や他の村人による奇襲から、自分の家族を守るために建設されたのが始まりだと言われています。
ジョージアの山岳部地域ではどこでも見られる見張り塔。
ジョージア語でコシュキ(koshki / კოშკი)と呼ばれ、そのほとんどはコーカサスの山を越えて侵入してくる異民族から、自分たちの村や家族を守るために建設されたもので、敵の侵入を見張ることができる高台などに位置しているのが普通です。
しかしながら、スヴァネティ地方では高台以外にも、一般の民家に見張り塔が併設されているのが独特。
ここには、13世紀~19世紀にかけてどこの国にも属さず、村ごとに自治が行われていたスヴァネティ地方独自の事情が関係しています。
村の掟を破る者や、他の村人を侮辱したり暴力をふるう者には「血の復讐」と呼ばれる制裁がなされ、本人はもちろんその家族も復讐の対象とされました。
(日本の村八分のエクストリームバージョンだと思ってください)
一応、「血の復讐」は村の偉い人の決定により行われるというルールがあったのですが、しばしばそのルールは破られ、個人的な怨恨などで復讐が実行されることも多かったそうです。
「何がきっかけで他の村人に復讐されるかわからない」という恐怖は、人々に見張りと防衛を兼ねた塔を自宅に作らせ、数か月間塔の内部で籠城生活を送ることを可能にしたのです。
現在ではその風習は廃れ(たとされてはいます)、人々は塔の外の自宅で生活を送るようになりました。
これらの塔はいつしか「血の復讐の塔」と呼ばれるようになり、スヴァネティ地方独自の風習や歴史を現在に伝え続けています。
1335年:ギオルギ5世 重要人物⑦ 時代に再独立
100年以上続いたモンゴルの支配から再独立することに成功したのは、1335年のギオルギ5世(Giorgi V/ გიორგი V)時代において。
彼はまずジョージア西部で独立を果たし、モンゴル軍支配下にあった東部のトビリシを奪還。
タマル女王時代に獲得した中世グルジア王国の最大領土を取り戻そうと尽力します。
その輝かしい逆転劇から、別名「ギオルギ光輝王(Giorgi the Brilliant)」とも呼ばれ、現在でもジョージア国民に愛されるギオルギ5世。
かつての栄光の歴史を思い描いて、王国の立て直しに成功!
…と思いきや、それもつかの間のことでした。
再独立を達成してからたった50年ほどで、再び別の大国の侵略や支配を受ける混乱の時代がやって来るのです。
トビリシのシンボルであるナリカラ要塞(Narikala)は、もともと古代イベリア王国時代の4世紀頃に建設されたもの。
モンゴル支配時代には重要な拠点とされ、モンゴル軍によって”Narin Qala” (「小さな要塞」の意味)と名付けられました。
⑥【1386~1762】国家分裂~大国に翻弄される暗黒時代
ギオルギ5世による再独立からおよそ50年。
中世グルジア王国に再び、東方の大国が侵攻してきました。
中央アジアで急速に力をつけたティムール朝が、数回に渡ってコーカサスに攻め込んできたのです。
「一難去ってまた一難」とはまさにジョージアの中世史のためにある言葉。
ティムールの侵攻によってジョージアの国土は荒れ果て、南ではペルシア帝国の勢いが強まり、領内では国家が分裂。
400年ほどに渡り混乱を極めた暗黒時代が始まります。
1386年~1403年:ティムールによる侵攻
サマルカンド(現在のウズベキスタン)出身のティムールが一代で築き上げたティムール朝は、モンゴル帝国が弱体化している隙に、領土をどんどん西へと拡大していました。
ティムールは1386年にコーカサス地域に到達。
1403年までの17年間で8回も中世グルジア王国に攻撃を与えました。
長期間の防衛戦において中世グルジア王国の国土は荒れ果て、急速に領土を失いつつ国力が低下していきます。
【アハルツィヘ】
モンゴル帝国とティムール朝による侵攻を耐え抜いたと言われる、鉄壁の守りを誇る城がジョージア南部のアハルツィヘにあるラバティ城。
まるで「おもちゃの城」のような独特の外観が人気で、ジョージア人観光客が多く訪れるスポットです。
1444年:トビリシ陥落→国家分裂へ
ティムールによる攻撃を受けて、すでに崖っぷちに立たされていた中世グルジア王国。
さらに痛手となったのが、1444年のペルシア軍によるトビリシ陥落でした。
当時はジョージアの南にペルシア帝国 / 西にオスマン帝国と、イスラム教国がめきめきと力をつけていた時代。
そんな時代の中、オスマン帝国による1451年のコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)陥落は、キリスト教社会にさらなるダメージを与えます。
中世グルジア王国は、ヨーロッパのキリスト教圏から地理的に完全に切り離されてしまい、他国に助けを求めることもできず、国内情勢は大混乱。
しかしながら国王には、もはや国をまとめる力は残っていませんでした。
1466年、中世グルジア王国は完全に崩壊し、地方ごとに小王国ができてそれぞれが独自の政治を行うという、日本の戦国時代にも似た無政府状態に陥ります。
16世紀~18世紀の200年間:大国に翻弄される暗黒時代
中央政府が存在しない状態の小国など、大国からしてみれば征服なんて朝飯前。
・東:サファーヴィー朝(現在のイラン)
・西:オスマン帝国(現在のトルコ)
の二つのイスラム国家の領土争いの最前線となり、中世グルジア王国崩壊後に分裂した小王国は、それぞれ大国の支配下で細々と息をし続ける状態が200年ほど続きます。
サファーヴィー朝支配下となったジョージア東部では、当時の先進文明だったペルシア文化がどんどん流入しました。
西部のクタイシやバトゥミなどには見られないペルシア風建築が、東部のトビリシやテラヴィなどで多く見られるのは、この200年間にわたるサファーヴィー朝支配が強く影響しているのでしょう。
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