こんにちは!アルメニア滞在を満喫中、世界半周中ののぶよ(@nobuyo5696)です。
(世界半周についてはこちらの記事へどうぞ。)
エレバンの西30kmほどの場所に位置する、人口3万人ほどの地方都市・エチミアジン(Echmiadzin / Էջմիածին)は、アルメニア人にとって特別な町。
というのも、エチミアジンはアルメニア使徒教会の総本山がある「聖なる都市」であるため。
カトリコスと呼ばれる総主教(カトリック世界で例えると「ローマ法王」のような存在)が現在でも居住しており、「アルメニアのバチカン」なんて表現されることもあるほどです。
その長い歴史と、宗教都市という特別性が認められ、2000年にはUNESCOの世界遺産にも登録されたエチミアジン。
エリア内には教会や建造物がいくつか点在しており、半日~丸一日かけて観光するのが定番となっています。
また、エチミアジン大聖堂の敷地内にある宝物庫には、聖書内に登場するノアの方舟の破片やロンギヌスの槍のオリジナルが保管されている点にも注目。
伝説内に登場するアイテムを実際にこの目で見ることができるのですから…もうすごすぎます。
「初期キリスト教時代の古都」と聞いて思い浮かべるのが、アルメニアに次いで「世界で二番目のキリスト教国」となったお隣のジョージア。
世界遺産の古都・ムツヘタには、多くの古い教会や伝説が息づいています。
多くの旅行者はジョージアとアルメニアをセットで訪れるので、二つの「世界最古のキリスト教国」の建築を実際に見比べることができるでしょう。
同時期に完成した教会一つをとっても、その違いは一目瞭然です ▼
ムツヘタとエチミアジンは、それぞれの国を代表する古都。
そこに残る同時期の教会建築を一目見るだけでも、当時のアルメニアが文化的にどれだけ進んでいたのか理解できます。
(ムツヘタの教会に比べると、エチミアジンの教会の方が装飾や建築技術においてかなり緻密に計算されている)
また、アルメニアが誇る聖なる都市・エチミアジンでは、この国に根付いたキリスト教文化を目で見て堪能するだけでなく、舌でも味わえるのが素晴らしい点。
エチミアジン大聖堂の聖域で暮らす修道僧たちがおよそ400年前から通う食堂で、中世から変わらぬアルメニア料理を堪能できるのですから…
「世界最古のキリスト教国」アルメニアを象徴するような体験ができるはずです。
というわけで今回の記事は、アルメニアが誇る世界遺産の町であり、聖なる都市であるエチミアジン観光に必要な情報をまとめたもの。
以下の項目に分かれており、「これさえ読んでおけばエチミアジン観光はもちろん、アルメニアの歴史もちょっと知ることができる!」といった濃い内容になっています。
多くの見どころが広めの範囲に点在しているエチミアジンは、とにかく見ごたえ抜群。
観光前には、エチミアジンの町の起源に直結するアルメニアのキリスト教受容に関する数々のエピソードや、エチミアジンの各スポットにまつわる伝説や歴史をあらかじめ知っておくと、より充実した観光になるはずです!
エチミアジンの歴史
エチミアジンを訪れるなら、この町の歴史を知っておくのはもはや必須。
何も知らずに訪れても「なんか古そうな教会がいっぱいある町…ふーん、世界遺産なんだ~」で終わってしまいます。
エチミアジン観光前に特に押さえておきたいのが、4世紀初頭(1700年前)のキリスト教受容に関する歴史や逸話の数々。
現在のエチミアジンで世界遺産に指定されている教会はすべて、この時代のエピソードと深く関連しているためです。
①エチミアジンのはじまりと黄金時代(2世紀~5世紀)
エチミアジンがはじめて歴史の表舞台に登場するのは、紀元後12年(2000年前)に成立した古アルメニア王国時代においてのこと。
120年~330年の210年間、王国の首都として定められ、当時は「ヴァガルシャパット」(Vagharshapat / Վաղարշապատ)と呼ばれていました。
アルメニアは301年に世界で初めてのキリスト教国となったのですが、それ以前は精霊信仰が盛んで、キリスト教は「異教」として迫害の対象でした。
アルメニアがキリスト教国となる十年ほど前(290年頃)に、遥か西方のローマ帝国からやってきたのが、40人の修道女たち。
中でも特別な美貌の持ち主がフリプシメという修道女と、40人のリーダーであったガヤネという人物でした。
なぜ40人の修道女たちがローマからはるばるアルメニアにやって来たかと言うと、最大の理由はローマ帝国によるキリスト教徒の迫害から逃れるため。
ローマ帝国の支配下にないアルメニアという地で、いわば「新天地を目指して」やって来たわけです。
そしてもう一つの理由は、絶世の美貌の持ち主フリプシメが、当時ローマ帝国の繁栄を担ったディオクレティアヌス帝による求愛を拒否したため。
ディオクレティアヌス帝の復讐(というか、フラれた男の逆恨み?)を恐れたフリプシメは、世話役としてガヤネと他の修道女たちを連れ、アルメニアへと逃れて来たのです。
しかしながら、フリプシメの美貌の罪深さは、ここアルメニアでも発揮されてしまいます。
当時のアルメニア国王・トルダット3世もまたフリプシメの美貌の虜になってしまい、何度も求愛をしますが、フリプシメはこれを固く拒否します。
自身の求愛を拒否したフリプシメをトルダット3世は許すことはなく、ひどい拷問の末に彼女を殺害。
その遺体は、ヴァガルシャパットの町の東部に埋葬されました。
後にトルダット3世はフリプシメの付き添いだったガヤネにも求愛をしますが、こちらも拒否されます。(どんだけモテないんだ…)
ガヤネもフリプシメと同様に拷問の末に殺害され、遺体はヴァガルシャパットの町の南部に埋葬されます。
フリプシメとガヤネが殺害され、残された38人の修道女たちはヴァガルシャパットの町の東部に隠れ住んでいました。
しかしトルダット3世によって隠れ家が見つかってしまい、その場で全員が殺害されてしまいます。
こうして40人の修道女全員を殺害したトルダット3世でしたが、その後ひどい病に伏します(おそらく祟りに違いない)。
国王を病から奇跡的に救ったのが、「異教を広めている」としてホル・ヴィラップ修道院の地下牢に13年間幽閉されていた啓蒙者グレゴリウスという人物でした。
グレゴリウスが見せる数々の奇跡に感動したトルダット3世は、ヴァガルシャパット郊外に位置するズヴァルトノッツで洗礼を受け、自身もキリスト教徒に改宗。
こうして301年、古アルメニア王国の国教としてキリスト教を承認することとなります。
▲キリスト教の国教化を受けてすぐに建設されたのが、現在町の中心に建つエチミアジン大聖堂。
アルメニアのキリスト教受容と同年の301年の完成で、エチミアジンの町の中で一番最初に建設されたキリスト教建造物です。
「ヴァガルシャパット」と呼ばれていた当時の首都は、町の中心部に建設された大聖堂の名をとって「エチミアジン」と呼ばれるように。
アルメニア使徒教会の最高指導者(カトリックで例えるならローマ教皇にあたる人物)であるカトリコスの居住地となったのもこの頃からなので、エチミアジンはキリスト教受容から1700年以上も聖地として機能しつづけている、というわけです。バチカンなんて比較にならないほどにすごすぎる…
②中世初期:3つの教会の建設(7世紀)
アルメニアでキリスト教が国教となってから300年が経った7世紀のこと。
当時のカトリコス(アルメニア使徒教会における最高指導者)によって、かつてローマ帝国出身の40人の修道女たちが殺害・埋葬された場所に3つの教会が建設されることになりました。(何か祟りとかあったのだろうか…)
こうして完成したのが、現在にまでエチミアジンの町に残る以下の教会です。▼
およそ1700年前、トルダット3世によって殺害された修道女たちの墓の真上に教会が建てられ、それが現在にまで残っているのですから…どれも信じられないほどの歴史的価値がある場所だと思います。
③エチミアジンの衰退~復活(8世紀~20世紀)
キリスト教の国教化からおよそ100年ほどが経過した428年、古アルメニア王国はササン朝ペルシア帝国(現在のイラン)の支配下に入ります。
当時のペルシア帝国はゾロアスター教が主となっており、アルメニアのキリスト教文化の発展は制限されることに。
こうした背景から、聖地エチミアジンの重要性はだんだんと低下していたのですが、衰退が決定的となったのは8世紀頃のアラブ人による侵攻でした。
それ以降はずっと異民族による侵攻&支配を受け続けたアルメニア。
古アルメニア王国の首都であったエチミアジン(ヴァガルシャパット)は1200年以上もの間、かつての栄光が嘘のように忘れ去られた存在となります。
この町が再び息を吹き返したのは、意外にもソ連統治時代のことでした。
1953年のスターリンの死後、長い歴史とアルメニア人にとっての町の重要性がソ連中央政府に認識され、エチミアジンは大規模な開発の対象に。
町の中心に位置するエチミアジン聖堂とその敷地内の建物も、全てリノベーションされます。
敷地内に点在するいくつかの教会が、ソ連的なブルータリズムに満ちた外観&内装であるのは、このあたりが理由なのかもしれません。
現在のエチミアジンは、アルメニア使徒教会の最高指導者・カトリコスが居住し、現役の聖地として機能する宗教都市という性格を帯びた町。
まるで結界に守られた聖域を思わせるほどに神聖な雰囲気が漂い、「アルメニアのバチカン」という表現も、あながち言い過ぎでもないように思えます。
エチミアジンの名称問題
ソ連時代には「エチミアジン」の名が正式名称と定められたものの、独立後は一転。
1900年前の古アルメニア王国時代の名前である「ヴァガルシャパット」が正式呼称に戻されます。
しかし現在でも、聖堂の名前からとった「エチミアジン」と呼ぶ人がほとんど。
旅行者的には、同じ町なのに二つの名前が存在するというややこしい事態になっています。
※当記事内では、現地でよりポピュラーな「エチミアジン」で統一しています。
エチミアジンの見どころ
エチミアジン観光マップ
エチミアジン大聖堂敷地内の見どころ
エチミアジンが「聖なる都市」と呼ばれる理由が、エチミアジン大聖堂の存在。
大聖堂を中心に整備された広大な敷地は、全てがアルメニア使徒教会の総本山となっており、敷地全体が聖域という扱いです。
敷地内には大小さまざまな教会や聖職者たちの生活スペースの建物がずらりと並んでいて、圧巻のひとこと。
観光の目玉となるエチミアジン大聖堂以外にも、個性あふれる教会やモニュメントが点在しているので、ぜひ数時間かけてゆっくりと散策しましょう。
カトリコス(総主教/アルメニア使徒教会におけるトップ)が居住する建物や、聖書に登場するロンギヌスの槍やノアの方舟の破片が保管されている宝物庫も、この敷地内にあります。
エチミアジン大聖堂 世界遺産
聖なる都市・エチミアジンの中心的存在であり、アルメニア使徒教会の総本山にあたるエチミアジン大聖堂(Echmiadzin Cathedral / Սուրբ Էջմիածին)は、広大な聖域の中央に位置しています。
オリジナルの建物は、アルメニアがキリスト教国となった直後の303年に完成したもの。
世界でも最古のキリスト教建造物だったと言われており、その完璧なまでの建築様式は、アルメニアよりも後にキリスト教国となった西のローマ帝国の宗教建築にも大きな影響を与えたそうです。
多くの人は「キリスト教建築=ローマ、ケルン、パリ…」と西ヨーロッパ地域の聖堂を思い浮かべるでしょうが、言わばそれらの聖堂や教会の大元となったのがこのエチミアジン大聖堂というわけです。
およそ1700年以上前にエチミアジン大聖堂が建てられた場所には、もともと精霊信仰時代の神殿が建っていました。
301年のキリスト教受容と同じ年に、国王トルダット3世の命により、わざわざその神殿を取り壊した跡地に建てらたのがエチミアジン大聖堂。
これは、精霊信仰からキリスト教国への変容を印象づけるためだったと考えられています。
残念ながら、1700年以上前のオリジナルの建物は中世に崩壊してしまったため、現在の建物は1441年に再建されたものです。(それでも600年近く前なのだからすごい)
十字架型の敷地に建てられたエチミアジン大聖堂は、内部で四つのアーチ型天井がドーム屋根を支える様式となっています。
現在のアルメニアはもちろん、お隣のジョージアの聖堂においても最も多く見られる建築様式の一つですが、その源流はこのエチミアジン大聖堂であったと言えるでしょう。
聖堂の外壁には装飾の類はあまり施されておらず、一軒すると地味で無骨な印象を与えるエチミアジン大聖堂。
しかし注意して見てみると、ドーム型屋根部分や鐘楼の屋根部分など見えにくいところに細かな彫刻が施されていることに気が付くでしょう。
曲線を描いたモチーフなどに、アルメニアを数回にわたって支配したペルシア帝国(現在のイラン)の文化の影響も感じられます。
荘厳な教会の外観を見学したら、西側に位置する鐘楼の下に設置された入口へ向かいましょう。
きっと、「うわあ…」と思わず感動の声が漏れてしまうはず…▼
エチミアジン大聖堂唯一の入口となっている、西側の鐘楼の下部分は、豪華絢爛で緻密の限りを尽くした美しい装飾が施されています。
扉の周りのみならず、周囲の壁や柱や天井部分にまで、カラフルで細かいモチーフがびっしり。▼
キリスト教の聖堂というよりもモスクを思わせる装飾ですが、こんなところにもペルシア文化の影響があるのかもしれません。
そして、いよいよ聖堂内部へ…▼
エチミアジン大聖堂の内部は、白を基調とした優雅な雰囲気。
しかし聖堂上部の柱や天井をびっしりと覆うフレスコ画には驚かされます。
聖堂内のフレスコ画は全て暖色系の色に統一されており、全体的な一体感の素晴らしさが秀逸。
アルメニアの伝統的な模様のように見えたり、ペルシアのモスクのように見えたりと、見る人によってモチーフの解釈が変わってくる点も興味深いです。
エチミアジン大聖堂内にフレスコ画が初めて描かれたのは、およそ300年前の1721年のこと。
その後数世紀にわたって別の職人によってフレスコ画の保存・追加がなされ、現在のものとなっています。
基本的に教会内部も外壁も剥き出しの石造りであるアルメニア教会において、内部にフレスコ画が施されるのはとても異例なこと。(のぶよはエチミアジン大聖堂以外にフレスコ画が施されたアルメニア教会を他に知らない)
それだけ、このエチミアジン大聖堂が特別な存在であるということです。
実はこのエチミアジン大聖堂、長いことずっと内部の修復工事が行われており、内部はおろか敷地周辺への立ち入りすらできない状態が続いていました。
「アルメニアのサグラダファミリア」のごとく、終わる気配がいっさいなかった工事がようやく終了したのが、2024年のこと。
現在では晴れて、アルメニア教会の総本山たる聖堂の美しさを堪能できるようになりました。
正直、エチミアジン大聖堂を訪れるためだけにでも、エレバンからわざわざエチミアジンにまで足をのばす価値が大いにあります。
「時間がなくて点在する教会ぜんぶは周れない…」といった人でも、とにかくエチミアジン大聖堂だけは行くべき。
それほどに、建築様式も装飾も内装も雰囲気も、すべてがアルメニアの中でもトップクラスの素晴らしさです。
宝物庫
エチミアジン大聖堂観光の際に絶対に立ち寄りたいのが、敷地の西側にある宝物庫(Manoogian Treasury)。
ミュージアムのようになっており、入場料が1500AMD(=¥600)かかりますが、その価値はあります。
なぜなら、聖書内に登場する「ロンギヌスの槍」と「ノアの方舟(の破片)」が、まさにこの場所に保管されているからです。
宝物庫があるのは、チケット売り場兼ショップがある入口とは別の建物。
チケットを購入→自由にアクセス というわけではなく、宝物庫がある建物までの200mほどの距離は職員に付き添ってもらわなければなりません。
というのも、宝物庫が位置するのはカトリコス(最高指導者)や位の高い聖職者が現役で居住する宮殿スペースであるため。
「聖なる都市」エチミアジンの中でも、神聖of神聖なエリアなのです。
もちろん、この宮殿スペースでの写真撮影は厳禁。(宝物庫の館内は撮影OK)
いわば「見張り」のような感じで付き人がつくのでしょう。
というわけで写真には残っていませんが、記憶にはちゃんと残っています。
すっっっつごいですよ。カトリコスの居住エリア。
立派なたたずまいの宮殿と、美しく整備された庭園…
信者でなくとも、背筋が勝手にピンとのびるような厳かな雰囲気でした。
こればかりはぜひ、実際に訪れて自分の肌で感じてほしいです。
宝物庫の建物は二階建ての立派なものですが、見学可能なのは一階部分のみ。
アルメニア使徒教会に関するさまざまな展示品がありますが、目玉となるのは二つ。
一つ目が、ノアの方舟の破片です ▼
ノアの方舟とは、旧約聖書内に登場する大洪水の際にノアとその家族が乗った木舟のこと。
大洪水は平野部の全てを覆いつくし、方舟に乗ったノア達が命からがらたどり着いたのがアララト山(現在はトルコ領)であったとされています。
アルメニア人にとってアララト山が神聖なものであるのは、このノアの方舟伝説にまつわる地であるから…というわけです。
神話内に登場する方舟の破片を目の前にすると、何とも言えない感動が…
こんなものが現存しているなんて、ものすごいことだと思います。
そして、宝物庫内の展示でもう一つ見逃せないのが、ロンギヌスの槍 ▼
ロンギヌスの槍とは、イエス・キリストが磔の刑に処された際に、彼が絶命したかどうか確かめるために脇腹を刺したとされる槍のこと。
実際に槍を刺したローマ兵の名をとって、このように呼ばれています。
イエス・キリストの弟子であったヨハネによって、聖地エルサレムからアルメニアに持って来られたとされるロンギヌスの槍。
当初はゲガルド修道院に保管されていたものが、現在はエチミアジンの宝物庫内に展示されているのです。
ここまで書いておいてアレなのですが、実はキリスト教社会ではこうした聖遺物はいくつも存在しています。
どれが本物なのか…そもそも伝説は本当にあったことなのか…などの議論はやんでおらず、エチミアジン宝物庫内の方舟の破片や槍に関しても同じことが言えます。
とはいえ、実際に自分の目で見てみると、並々ならぬパワーを秘めたものであることは一目瞭然。
「信じる者は救われる」と言いますし、ここは信じておいた方が感動が増すのでは?と思います。
聖アスドヴァツァジン教会
大聖堂の北側に位置する、新しくモダンなデザインの建物が聖アスドヴァツァジン教会(Saint Asdvatsazin)。
曲線美と直線美が融合した外観はとても素晴らしく、外壁に施された繊細な彫刻が目を引きます。
内部はかなりシンプルな印象ながら、こちらも直線美と曲線美が見事。
お祈りに訪れた人々で賑わっていました。
聖天使教会
大聖堂エリアの北側の入口付近にある、巨大な塔のような建物が聖天使教会(Church of the Holy Archangels / Սրբոց Հրեշտակապետաց եկեղեցի)。
2011年に完成したばかりの新しい教会で、それまでのアルメニアの教会建築とは全く異なったスタイリッシュな構造が目を引きます。
こちらも内部はかなりシンプルではあるものの、円形の屋根を囲むように設置された天窓から光が差し込み、十字架型の影を作っているのが幻想的です。
これは偶然ではなく、太陽光の角度などを綿密に考え抜かれた上での自然の造形美。
アルメニア人の物事へのこだわりはものすごいのですが、こんなところにも凝り性が現れているようです。
聖グレゴリウス門
大聖堂エリアの東側の入口であり、メインのエントランスとなっているのが聖グレゴリウス門。
もはや前衛的すぎて何を表現しているのかわからないほどですが、門の上部に施された彫刻はお見逃しなく ▼
ここに描かれている二人の人物は、301年にキリスト教を国教として認めたトルダット3世と、アルメニアでのキリスト教布教に尽力した啓蒙者グレゴリウス。
「エチミアジンの歴史」の項で解説した通り、この場所がアルメニア使徒教会における聖域となったきっかけを作った人物たちです。
門の外側には、トルダット3世と啓蒙者グレゴリウスの二人がそれぞれが真ん中の十字架に手をかざそうとする姿が描かれ、1700年前のキリスト教の受容がテーマとなっています。
エチミアジンのその他の教会
エチミアジン大聖堂の敷地外には4つの教会が点在しており、そのうち2つは世界遺産となっています。
どれもエチミアジン大聖堂から徒歩でのアクセスが可能ですが、聖フリプシメ教会とショガカト教会の二つは、約2km/徒歩30分ほどとやや距離があります。
タクシーを利用するか、エレバン行きの203番バスを利用して聖フリプシメ教会前で途中下車するのも◎
聖ガヤネ教会 世界遺産
エチミアジン大聖堂の南側に位置するのが、世界遺産の聖ガヤネ教会(Saint Gayane Church / Սուրբ Գայանե եկեղեցի)。
ドーム型天井を持つ聖堂部分は630年の建造で、聖堂正面の門は17世紀になって増設されたものです。
「エチミアジンの歴史」の項で解説した通り、聖ガヤネ教会が建つのは、およそ1700年前にこの地にやってきた40人の修道女たちのリーダーであったガヤネが拷問・殺害された場所。
教会の地下部分には聖ガヤネの棺が安置されており、旅行者でも見学することが可能です。
教会内部へと一歩足を踏み入れると、窓から差し込む自然光が照らす空間の神聖さに息を呑みます。
繊細な印象の外観とは対照的に、アルメニアの教会らしいシンプルな石造りの内装が特徴的です。
祭壇の右側には通路が設置されており、地下の空間へと下りることができます。
その最奥部にあるのが、ガヤネの棺が置かれた小部屋です。
棺はアクリル板で仕切られていて直接手が触れられないようになっていますが、その圧倒的なパワーは確かなもの。
1700年以上前に非業の死を遂げたガヤネの念のようなものが感じられるかもしれません。
聖フリプシメ教会 世界遺産
エチミアジンにあるもう一つの世界遺産の教会が、聖フリプシメ教会(Saint Hripsime Church / Սուրբ Հռիփսիմե եկեղեցի)。
聖ガヤネ教会より12年前の618年に完成したもので、現存する中では世界で最も古い時期のキリスト教建造物の一つとされています。
十字架の形をした教会内部へと立ち入ると、この地域でとれる黒っぽい火山岩で統一された内装に心を奪われます。
1400年前の建造とは思えないほどに、繊細ながらも頑丈な教会内部の造り。
これは当時の最先端の建築技術が集約されたものです。
地震多発地帯であるアルメニアでは、古くから建物の耐震性が大きな課題となっていました。
聖フリプシメ教会のドーム屋根を支えるアーチは大きなものが四つと、それぞれの大アーチの角の部分に小アーチが四つ設置されているのですが、これは強い地震の際にも天井が落ちることのないように工夫されたものだそうです。
完璧な外観も内部の造りも素晴らしい聖フリプシメ教会で見逃せないのが、聖フリプシメが眠る棺があるクリプト。
祭壇脇の地下通路からアクセスすることができ、最奥部は小さな洞窟のような空間となっています。▼
通路最奥部の小さな洞窟内の空間の中央には、白を基調とした小さな棺が。
これが、聖フリプシメが眠る棺です。▼
「エチミアジンの歴史」の項で解説した通り、聖フリプシメは290年頃にアルメニアへやって来た修道女。
国王・トルダット3世の求愛を拒否し、拷問の末に殺害されるという運命をたどった人物です。
1700年以上前の人物が眠る小さなクリプト内は、静謐で厳かな雰囲気。
言葉では言い表せないほどのパワーに満ちているような気がしました。
ショガカト教会
聖フリプシメ教会から徒歩5分ほどの場所に建つのが、ショガカト教会(Shoghakat Church / Շողակաթ եկեղեցի)。
エチミアジンの他の教会と同様に7世紀の建造ですが、オリジナルの建物は残っておらず、現在の建物は17世紀になって再建されたものです。
ショガカト教会は、1700年前にローマ帝国から逃れてきた40人の修道女のうち、フリプシメとガヤネを除く38人の修道女たちが隠れ住んでいた場所とされています。
「エチミアジンの歴史」の項で解説した通り、彼女たちの居場所はトルダット3世に見つかってしまい、全員がその場で殺害されるという運命をたどりました。
▲聖ガヤネ教会や聖フリプシメ教会と同様に、ショガカト教会の祭壇奥にも棺が安置された小部屋が設置されています。
これは、この場所で殺害された38人の修道女のうちの一人である「マリアネ」という人物のものだと考えられているそう。
このマリアネという人物に関してはいまだに分かっていないことも多く、謎に包まれているのが現状です。
聖母マリア教会
エチミアジン聖堂の敷地の北側に位置する聖母マリア教会(Holy Mother of God Church / Սուրբ Մարիամ Աստվածածին)は、18世紀建造の比較的新しい教会。
エチミアジンの他の教会とは異なり、アルメニアがキリスト教国となった約1700年前の歴史に関係した場所ではなく、主に住民たちの日常的な祈りの場所として機能しています。
エレバン方面へのマルシュルートカが発着するエチミアジン中心街からすぐの場所にあるので、時間に余裕があるなら立ち寄ってみたい場所です。
17世紀から続く修道僧用の食堂で聖地グルメ!【Agape 】
エチミアジンの町にはローカルなバーベキュー屋やフードコートがいくつかあり、食事に困ることはありません。
しかし、せっかくこの聖なる町に来たなら、エチミアジンならではの場所でランチがおすすめ。
それが、エチミアジン聖堂の少し南にあるAgapeというお店です。
Agapeに関しては、「お店」という表現が正しいのか微妙なところ。
外観を見てもらうだけでも、「え…?」と思ったのぶよの気持ちが伝わるかもしれません。▼
レストランにしては、なんとも整備されていない感じのする外観。
長方形の形をした建物はやたらと広大で、まるでRPGゲームに出てくる隊商宿や酒場の建物のようです。
それもそのはず。このAgapeは1655年に建設された、エチミアジンで暮らす修道僧用の食堂の建物。
外観も内部も、400年近く前からずっと使われ続けてきた空間そのままとなっているのです。▼
Agapeの建物内部は、とにかく広大で歴史を感じさせる異空間。
エチミアジンで暮らす修道僧の数はとにかく多いので、全員を収容できるようにしているのでしょう。
現在では旅行者にもレストランとして開放されているAgapeですが、現役の修道僧にも利用されているのがポイント。
ランチタイムを少し外した時間に訪問すると、食事をしている修道僧たちの姿がちらほらと見られ、まるで中世のアルメニアにタイムスリップしたかのような感覚になります。
Agapeのメニューは、アルメニア料理の基本的なものが多く揃ったもの。
キリスト教には動物性食品を食べない期間が年に数回あるためか、ベジタリアン/ヴィーガン食が充実しているのが独特かもしれません。
価格帯はやはり少々高めですが、エレバンのお洒落キラキラレストランに比べるとまだ良心的。
予算的には、一人2000AMD~3500AMD(=¥800~¥1400)ほどみておけばOKです。
Agapeのウリは、「中世以前のアルメニア料理が食べられる」という点。
・ホホル:羊肉のざくろ煮
・ガチュハン:羊肉のりんご&プルーン煮
・アチャパ:豆とナッツのサラダ
など、およそ1000年前の中世アルメニアで食されていたものの、近世に廃れて忘れ去られてしまったレシピを復活させたメニューがいくつか用意されているのです。
もちろんのぶよも中世アルメニアの料理を堪能してみたかったのですが、いかんせんそれらはお高いもの(とはいえ4000AMD=¥2000くらいなので、激高というわけではないけど)。
というわけで、もう一つの名物料理を注文してみました。▼
いったいこの茶色っぽい物体が何なのかというと、エチミアジンの名物グルメである「エチミアジアン・キュフタ」です。
「なあんだ、キュフタって、トルコのキョフテみたいな肉団子でしょ?」と思ったあなた、少々お待ちを。
トルコなら牛挽き肉の肉団子をグリルした「キュフタ」、ジョージアなら肉団子をスープに入れた「グプタ」…といったように、アルメニアの「キュフタ」も語源は共通しています。
しかし、実際の調理法は完全なる別物。
アルメニアのキュフタは、牛挽き肉に水を混ぜたものを限界まで細かく擦り潰して液体状にし、野球ボールほどの大きさの球体に固め、たっぷりのお湯で茹でて調理されるのですから…
アルメニアのキュフタ最大の特徴は、そのもってりとした何とも言えない食感。
日本のはんぺんやかまぼこに似ていて(まあ作り方を見れば材料が肉か魚かの違いなので当然っちゃ当然か)、なんともつかみどころのない不思議な食感なのですが、味はちゃんと牛肉の味がするという不思議な体験ができます。
日本にも広島と大阪という二大お好み焼きの町があるように、アルメニアにも「二大キュフタの町」と呼ばれる町があり、一つはセヴァン湖周辺のガヴァルと言う町。
そしてもう一つが、ここエチミアジンというわけです。
エチミアジン式のキュフタは、球形に茹で上がったキュフタをひと口大に切り分け、玉ねぎやキノコなどの野菜とともに油で炒めて食べるというもの。
もう一つの二大キュフタの町・ガヴァルのキュフタ(そのままorバターをかけて食べる)に比べると、味のメリハリが感じられて、のぶよはエチミアジン・キュフタの方が断然好みでした。
さてさて…そんなわけで、せっかくなのに映えない料理を頼んでしまいましたが、400年近く前から続く食事処で味わう名物料理は、やっぱり格別。
むしろ、この特別な空間で食事をするという「行為」にお金を払っていると考えた方が良いかもしれません。
本記事で紹介した中世アルメニアの料理やキュフタ以外にも、Agapeのメニューは前菜からメイン、バーベキューにデザートに…ととにかく豊富。
一人だと色々試すのが難しいので、できれば数人で訪れて数皿シェアするのが理想的だと思います。
エチミアジンへのアクセス・行き方
エチミアジンは、首都エレバンから西に15kmほどしか離れていないので、ほとんどの旅行者にとってエレバンからの日帰り観光が定番。
エレバン~エチミアジン間のアクセス方法は、大きく分けて3通りあります。
予算や都合に合ったものを選ぶのがポイントです!
①タクシー
最も簡単&効率的な移動手段が、エレバンでタクシーをチャーターしてしまうこと。
エレバン~エチミアジン間の単純往復 + 各教会間の移動 + 観光時の待機時間で、1台7000AMD(=¥2800)ほどが料金相場です。
のぶよ的には、せっかくタクシーをチャーターするならエチミアジンの近くにある世界遺産・ズヴァルトノッツ聖堂もセットでまわるのが効率的だと思います。
ズヴァルトノッツとエチミアジンをセットでまわる場合のタクシーチャーター料金の相場は、1台10000AMD(=¥4000)~ですが、交渉次第で上下します。
②現地ツアー
1日で効率的にズヴァルトノッツとエチミアジンをまわりたいなら、現地ツアーに参加してしまうのもおすすめ。
アルメニアは小さな国土に見どころがギュッと詰まっているものの、公共交通機関がやや不便なのがネック。
移動を考えなくて良い&リーズナブルな現地ツアーは、一人旅の人にとっても便利です。
③マルシュルートカ/市内バス
エチミアジンは個人でマルシュルートカorエレバン市内バス利用でのアクセスも可能。
エチミアジン行きのマルシュルートカは100%ズヴァルトノッツを経由するので、個人でこれら二つの見どころを組み合わせてまわることも可能です。
マルシュルートカ/市内バスを利用する場合に注意したいのが、エレバン側の発着ポイントと運賃が異なる点。
ここでは、個人でエチミアジンへアクセスする人向けに、マルシュルートカ/市内バスでのアクセス情報をできる限り詳細に解説していきます。
エレバン→エチミアジン方面の移動(往路)
【①マルシュルートカ/市内バスの発着ポイントへ行く】
エレバン~エチミアジン間の公共交通、市内バスとマルシュルートカの二種類。
いずれも番号は203番で、ほぼ同じルートを通るのですが、いくつか違いがあります。
まず、見た目の違いはこんな感じ。▼
そして運賃の違い。市内バスの場合は250AMD(=¥100)で、マルシュルートカの場合300AMD(=¥120)です。
いずれも現金のみでの支払いとなり、高額紙幣は断られるので小銭を用意しておきましょう。
運賃の違いは微々たるものですが、注意したいのが、市内バスかマルシュかでエレバン側の発着ポイントが異なる点です。
・市内バス203番:キリキア・バスステーション
・マルシュルートカ203番:マテナダラン前の道路沿い
エレバン中心部~キリキア・バスステーションは2.5kmほど離れていて、地下鉄駅も近くにないため、個人的には中心街から発着するマルシュルートカ203番の利用がおすすめ。
マルシュルートカ203番は、マテナダラン→Mesrop Mashtots通りを南西に→キリキア・バスステーション→ズヴァルトノッツ→エチミアジン、というルートをとり、どこからでも乗車が可能。
エレバン中心街に滞在している場合は、メインストリートのMesrop Mashtots通りから乗車できるので便利です。
市内バス203番/マルシュルートカ203番のいずれも、15分に1本と頻発しています。
【②エチミアジン中心街で下車】
エレバン出発から30分ほどで、マルシュルートカは終点のエチミアジン中心街に到着します。▼
このバス停からエチミアジン大聖堂までは徒歩5分ほど。
その他の教会へも徒歩でのアクセスが可能です。
エチミアジン→エレバン方面の移動(復路)
エチミアジン観光後にエレバンへ直接移動する場合は、行きで降りたエチミアジン中心街のバス停からエレバン行きの203番バスに乗車するだけ。
10分~15分に1本の割合で出発しており、常に数台のマルシュルートカが待機しているので、とても簡単に利用できます。
エチミアジン→ズヴァルトノッツ間の移動
エチミアジン観光後にズヴァルトノッツ聖堂へ移動する場合も、エチミアジン~ズヴァルトノッツ~エレバン間を走る203番バスを利用します。
アルメニアのバスあるあるなのですが、途中で乗車/下車しようともフルの運賃を支払わなければならない場合が多いです。(この区間の場合、300AMD)
エチミアジン~ズヴァルトノッツ間の移動なら100AMDだけで良い!と言ってくれる運転手もいますが、これはおまけみたいなもの。
基本は、エチミアジン~エレバン間のフル運賃である300AMDを支払うと考えておきましょう。
エチミアジン観光のアドバイス
エチミアジン観光に必要な時間
エチミアジン観光には、最低でも半日ほどの時間をみておきましょう。
各スポットの見学に必要な時間こそ、それぞれ30分~1時間ほどですが、とにかく見どころが多い&やや広い範囲に分散しているため、全部制覇するとなると意外と時間がかかるのです。
エチミアジン近郊にある世界遺産・ズヴァルトノッツ大聖堂の見学(所要1時間)とセットで、丸一日かけたデイトリップを計画するのがベストだと思います。
おすすめの時間帯・曜日・季節
世界遺産であるエチミアジンは、エレバンから簡単にアクセスできることもあり、人気の観光スポットとなっています。
しかしながら、見どころが分散しているため、そこまで混雑することはない印象。
どの時間帯でもゆっくりと観光することができます。
日曜日は礼拝に訪れる地元の人も多いので、平日に比べると人の数は多くなるでしょう。
エチミアジン観光におすすめの季節は、アルメニアの他地域と同様に春と秋。
夏は40℃越えの日も珍しくないほどの灼熱 / 冬はマイナス10℃以下の極寒の日が続くため、観光するのはなかなか大変です。
服装・持ち物
アルメニアの宗教施設はあまりドレスコードに厳しくない場所が多い印象で、エチミアジンの教会群も服装の規定はかなり緩め。
とはいえ、こうした宗教施設では、表示されていようがなかろうが服装の規定がを守るのがマナーです。
・男性:長ズボン/肩が隠れるシャツ/踵がある靴
・女性:男性の規定 + 髪を隠す布
「みんな守っていないから良いや」ではなく、他文化へに対する最低限のリスペクトとして守るのがスマートだと思います。
食事や飲み物に関しては、エチミアジン中心街の至る所に食堂や商店が点在しているので、あまり考えすぎなくてもOK。
エレバンから手ぶらで訪れても問題ないと思います。
おわりに
キリスト教国・アルメニアに暮らす人々の精神的な支えとなる町・エチミアジンの観光情報を解説しました。
エレバンからのデイトリップ先としても定番なので、アルメニア旅行中に一度は訪れる人も多いのではないでしょうか。
エチミアジン大聖堂の敷地内の神聖な雰囲気や、聖書内に登場するアイテムの数々、点在する世界遺産の教会群…事前知識なしでも感動すること間違いなしです。
しかし、この地の歴史を知っているとさらに観光が充実したものとなるはず。
アルメニアに点在する数々の美しい修道院の歴史にも深く関わりがある場所なので、ぜひ事前に知っておくことをおすすめします!
コメント
203番のマルシュルートカの始点はマシュトツ通りが右に曲がってKoryun通りと名前を変えたところの北側のようです。私も行きはキリキアの前庭に停まっていた203番に乗りました。帰りはまだ先まで行くのでそのまま乗っていたら上記の場所が終点ですでに2台の203番がいました。ここ始発ならマシュトツ通りのバス停でも乗れると思います。