こんにちは!元ポルトガル在住ののぶよ(@nobuyo5696)です。
皆さんは、昔から伝わる伝説やミステリアスな噂を信じますか?
私たち日本人は、こうした伝説の類が大好きな民族。
古くからの神話の世界のお話(イザナギや叢雲の剣etc)が現在にも伝わっていることを始め、年配者から口頭で伝えられる言い伝えの類もとても多いです。
「日本昔ばなし」などの民話を読んで育ったという人も多いのではないでしょうか。
最近では、「口裂け女」などのちょっと怖い都市伝説(古いか…)がささやかれたり、「パワースポット」と呼ばれる場所が流行ったりしたことも、日本人の「伝説・ミステリー好き」な一面が現れていると思います。
しかし、こうした伝説やミステリアスな噂が愛されるのは日本だけではありません。
大陸の反対側に位置するポルトガルでも多くの伝説が存在していて、多くの人々に信じられているのです。
ポルトガル人はこうした話が大好き。
だいたいみんな海を眺めて教会に通うくらいしかすることがないので(笑)、暇つぶしのお喋りがてら「むかしむかし、あるところにのう…」と昔話に興じるのです。
今回紹介するのは、そんなポルトガルに伝わる7つの伝説やミステリー。
数百年前から伝わる伝説や、本当に起こったロマンティックな物語、「これは…ちょっと…(笑)」というトンデモなスポットまで、幅広く選んでみました。
地の果ての国に伝わるミステリアスな伝説を、心ゆくまで堪能してください。
1.ポルトガルのマスコット!「ガロ」の伝説:バルセロス
初めに紹介するのが、ポルトガル人で知らない人はいない「ももたろう」のようなポジションの超定番伝説・「バルセロスのガロ(Galo de Barcelos)」。
「ガロ」と言えば、言わずも知れたポルトガルのマスコットキャラクター的存在の雄鶏。
イワシグッズと並んで、ポルトガル土産の定番として大人気です。
イワシは国中どこでも獲れる定番の食材だからというのはわかりますが、どうして雄鶏がこんなに推されているのか疑問に思った人もいるのではないでしょうか。
実はこのガロ(雄鶏)、ポルトガル北部に位置するバルセロス(Barcelos)という小さな町を舞台にした伝説の主役としてポルトガル人に愛される存在なのです。
「バルセロスのガロ伝説」あらすじ
バルセロスのある地主が、自宅に蓄えていた銀を盗まれてしまいました。
村人は犯人を探し、あるガリシア人(スペイン北西部)の男を罪人として突き出します。
ガリシア人は、「自分は無実だ!サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼のためにこの町を通っただけだ!」と主張しますが認められず、絞首刑に処されることとなりました。
刑を受け入れられないガリシア人は、自分を裁判官のところへ連れていくようにお願いし、地主もこれを受け入れます。
二人が裁判官の家に着くと、裁判官は友人たちと晩餐の最中でした。
裁判官の前でガリシア人は、食事としてーブルのテーブルの上に置かれたガロ(雄鶏)のローストを指して言います。
「私が絞首刑に処されるとき、このガロが高らかに鳴き、私の無実が証明されることであろう。」
裁判官と友人たちは「そんなことがあるはずもない」と笑いますが、面白いと思い、すでに調理されたガロに手を付けずにおくことにしました。
そして夜が明け、ガリシア人の処刑の日になりました。
男は絞首台に上り、首を吊られてもがき苦しみます。
その時、テーブルの上に置かれていたガロが立ち上がり、高らかに鳴いたのです。
裁判官と地主は自身の間違いを認め、すぐに男を絞首台から助け出します。
ロープの結び目が緩かったため、男にはまだ息があり、見事無罪放免となりました。
数年後、巡礼を終えたガリシア人はバルセロスに戻り、この奇跡は神によってもたらされたものだとして、自分の命を救ったガロの姿を石に掘って残したそうです。
まあよくある昔話といった印象を持つのではないでしょうか。
しかし、伝説が伝説で終わらないのがポルトガル。
ガリシア人の男が残したガロの彫刻は、なんと現在でもバルセロスに残っているのです。
バルセロス考古学博物館内に展示されており、多くのポルトガル人がこの伝説が本当にあったことだと考える根拠となっています。
伝説が真実であるかどうかは置いておくとして、このガロ伝説はポルトガルでは知らない人はいないほどポピュラーなもの。
だからと言って鶏を神聖視するようなことはなく、みんな普通にチキンが大好きというところに、なんとも言えないポルトガル感を感じます。
この伝説を知っていると、どうしてお土産屋のガロは全て身体が黒いのかわかりますね。
そう、ローストチキンだったからなのです(笑)
2.海底ピラミッド:アゾレス諸島
ポルトガル本土から西に1500km。
大西洋のど真ん中に位置するアゾレス諸島を数年前に賑わせたのが、「島の近海で海底ピラミッドが発見された!」というニュースでした。
そもそもアゾレス諸島は、大陸とは大きく異なる動植物が見られる独特な地形の島々。
「伝説の古代大陸・アトランティスの一部だ!」なんて一部の人に囁かれているような場所です。
海底ピラミッドが発見されたのは、アゾレス諸島で三番目に大きいテルセイラ島(Ilha da Terceira)の近海。
ダイビングをしていた人たちによって偶然発見されたという情報とともに、衝撃的な写真が公開されました。
いや、これはちょっと…。
どう考えても、合成なのでは…?(笑)
海底が隆起して高さ60mほどのピラミッド型の丘のようになっているそうで、一部のトンデモな人達や、どうにか観光業を盛り上げたい地元の人達の間では、発掘作業や専門的な調査を求める声が上がっていました。
しかし専門家はこのピラミッド説を一刀両断。
「海底火山の活動により、隆起しただけ」との結論を発表しました。
しかしながら、海底ピラミッド信者たちはそんな科学者の夢の無い理論にはお構いなし。
「アトランティス文明の奇跡」(ポルトガル人は「奇跡」という言葉が大好き)というキャッチコピーを生み出し、ダイビングや潜水艇などを利用したツアーが計画されてはいるものの、いまだ実現には程遠い状態です。
3.ファティマの奇跡:ファティマ
続いて紹介するのは、海底ピラミッドとは異なり実際に起こったとされる奇跡。
リスボン近郊に位置するファティマ(Fátima)という小さな村で起こった、嘘のような本当の話です。
「ファティマの奇跡」と呼ばれるこの話も、ポルトガル人の間では知らない人はいないほど有名なお話。
信仰心が篤いポルトガルの人々の宗教観が感じられるものです。
「ファティマの奇跡」あらすじ
時はヨーロッパが第一次世界大戦の真っ只中にあった1917年の5月13日のこと。
ポルトガルは参戦していなかったとはいえ、戦争による生活への影響は人々の間に大きくのしかかっていました。
ファティマに暮らす三人の子供たちが村はずれで遊んでいたところ、突然聖母マリアが現れ、毎月13日に同じ場所を訪れて自分に会いにくるように指示します(聖母出現の奇跡)。
聖母の言葉を守って毎月13日にこの場所を訪問していた子供たちに、聖母は予言のような言葉を伝えます。
それは、第一次世界大戦が間もなく終了することと、その後に起こる第二次世界大戦を予期したような内容でした。
子供たちがこの話を村の人々にしたところ、その噂は瞬く間に広がり、奇跡を目撃しようとする人々が毎月13日にファティマを訪れるようになります。
そして5ヶ月後の1917年10月13日のこと。
聖母が出現したとされる13日ということもあり、すでに地元では有名な聖地として名を馳せていたファティマには7万人もの信者が集まっていました。
そこで起こったとされるのが、「太陽の奇跡」と呼ばれる現象。
その日は雨が降り続く天気だったのが一転、急に顔を出した太陽が回転するように辺りを照らし、人々の濡れた服が一瞬で乾いたとされるものです。
集まった7万人もの人が同じ現象を目撃したため、聖母の出現の奇跡に次ぐ第二の奇跡としてポルトガルの新聞にも掲載され、「ファティマ」の名前はヨーロッパのカトリック界で知らぬ人はいない存在となりました。
このように半年の間に起こった二つの奇跡から成る「ファティマの奇跡」。
急に聖母が出現したり、太陽がクルクル回ったりとなんだか怪しい匂いがプンプンします。
しかし、これらの奇跡から数十年後に、カトリックの総本山であるローマ教皇庁が、これら一連の出来事が奇跡であった公認したことは事実。
ファティマの名はさらに広まり、全世界のカトリック信者の信仰を集める存在となりました。
奇跡が起こったとされる場所には「ファティマの聖域」として立派な聖堂が建てられ、ポルトガルはもちろん全世界から多くの人々が巡礼に訪れる場所となっています。
ポルトガル人は(特に年配層は)、この奇跡への信仰に見られるように敬虔なカトリック信者が多く、ポルトガルという国の雰囲気を特徴づけている部分があります。
ファテイマは聖域以外には何もないような小さな村ですが、巡礼者のために国内各都市と充実したバス路線で結ばれているほど、ポルトガル人にとっては定番の「祈りの地」となっているのです。
「奇跡が起こった場所」は他にも!
ファティマの奇跡以外にも、ポルトガルには「奇跡が起こった場所」とされる聖地がいくつかあります。
その一つが、ポルトガル最北端のペネダ・ジェレス国立公園内にある、セニョーラ・ダ・ペネダ(Senhora da Peneda)という小さな村。
羊飼いの子供の前に聖母が現れる点などストーリーは似ていますが、こちらは1220年に起こった「奇跡の大先輩」といったところでしょうか。
山深い村に建つ立派な教会が圧巻のセニョーラ・ダ・ペネダ村。
かなり不便な地であるにもかかわらず、中世には多くの巡礼者でにぎわったそうですよ。
4.イザベル王妃のバラの奇跡:レイリア
続いて紹介するのは、ポルトガルで最も美しい伝説と名高い「イザベル王妃のバラの奇跡」。
イザベル王妃とは、13世紀後半のポルトガル王・ディニス1世の妻であった実在の人物です。
信仰心に篤く、弱者に対する慈愛の念が強かったことで知られるイザベル王妃にまつわる伝説は、ポルトガル人なら誰もが知るところ。
リスボン近郊のレイリア(Leiria)という町が舞台のお話です。
「イザベル王妃のバラの奇跡」あらすじ
レイリアの丘の上のお城で暮らしていたディニス1世とイザベル王妃。
1282年の冬の日の朝、イザベル王妃が調理場でパンをローブの裾に隠してから城を抜け出すところを家臣の一人が目撃し、あとを追っていくと、彼女は町で貧しい人々に調理場のパンを分け与えていました。
驚いた家臣は翌朝ディニス1世にすぐさま報告し、国王はとりあえず様子を見ることにしました。
その晩、城の皆が寝静まった夜中に、ローブの裾をいっぱいにして調理場から出てきたイザベル王妃を、ディニス1世が問い詰めます。
「お前は何をしていたのだ?」
「庭園に美しいバラの花が咲いているのが調理場の窓から見えたので、摘んできたのです。」
ディニス王は厳しい性格で、嘘を嫌ったことで有名な人物。
こんな真冬にバラなど咲いているわけがないことなど一目瞭然だったため、王妃に問います。
「では、そのローブの裾に隠しているものは何だ?見せて見ろ。」
イザベル王妃のローブの裾から出てきたものは、パンではありませんでした。
これ以上ないほどに美しい大量の純白のバラの花だったのです。
ディニス王はこの奇跡に感動し、以後王妃が貧しい人々を助けることを容認することとなりました。
この美しい伝説は中世後期にはポルトガル全土に広がり、ローブの裾にバラの花を抱えたイザベル王妃の姿が多くの芸術家によって描かれました。
イザベル王妃の遺体は、現在はコインブラの新サンタ・クララ修道院の美しい棺の中に安置されており、奇跡を起こした王妃を一目見ようとポルトガル中から多くの人が訪れます。
5.セットゥ・シダードゥシュの王女と羊飼いの伝説:サン・ミゲル島
先ほど海底ピラミッド伝説で登場したアゾレス諸島ですが、トンデモな伝説ではないものも根付いています。
その一つが、ポルトガル人が大好きな悲恋物語である「セットゥ・シダードゥシュの王女と羊飼いの伝説」。
セットゥ・シダードゥシュとは、アゾレス諸島最大の島であるサン・ミゲル島(Ilha de São Miguel)西部に位置する湖で、ひょうたんのような形をした一つの湖の中に青と緑の二色の水がをたたえる神秘的な場所です。
現地では青い湖水部分を「青の湖」、緑の湖水部分を「緑の湖」と呼びますが、この不思議な湖水の色にまつわる伝説も有名です。
「セットゥ・シダードゥシュの王女と羊飼いの伝説」あらすじ
サン・ミゲル島を治めていた王には、美しい娘がいました。
王女という立場でありながら、城の敷地の中での窮屈な生活を嫌った彼女は、毎日外の世界へと足を運び、散歩をしながら島の大自然を楽しんでいました。
ある日のこと。
王女がいつものように散歩をしていると、たくさんの家畜を連れて家に帰る途中だった羊飼いの青年に出会います。
夕方になるまで自分たちのことや人生について語り合った二人は、好きなことが似ていることに気が付き、それから毎日のように城の外で会って愛を深めます。
しかしながら、彼女は王女という立場。すでに父である国王が定めた許婚がおり、そればかりはどうしようもありません。
ある日、王女が外で羊飼いの青年との逢瀬が国王の知るところとなり、会うことを禁止されてしまいます。
王女は国王に、最後に一回だけ会いに行かせてもらうように懇願し、国王もこれを許します。
そして最後のとき。
もう二度と会えないことを知った二人は、多くの涙を流して別れを惜しみました。
この時青い目をした王女の涙が青い湖に、緑色の目をした羊飼いの涙が緑の湖になり、セットゥ・シダードゥシュの湖となったのです。
それから二度と会うことは叶わなかった二人ですが、二人が流した涙だけは、今でもセットゥ・シダードゥシュの青と緑、二つの色をした神秘的な湖の中に溜まっているのです。
同じ湖の中で、決して離れることがないように。
とても美しいお話でした。
夢のないことを言ってしまうと、セットゥ・シダードゥシュは火山活動によるクレーターに雨水が溜まってできたものだそうです。
そんなことは分かっていながらも、実際にくっきりと水の色が分かれた湖を見ると、こんな伝説が生まれるのも納得できるような気がします。
6.ポルト、ハリーポッターが生まれた地説:ポルト
ポルトガル人が愛するのは昔から伝わる伝説ばかりではありません。
全世界的に有名な「ハリー・ポッター」シリーズにまつわる噂もささやかれており、ファンにはたまらないものとなっています。
その舞台が、ポルトガル北部のポルト。
ハリー・ポッター原作者のJ.K.ローリンス氏が、作家としてデビューする前に2年間英語教師として働いていたこの町には「ハリー・ポッターゆかりのスポット」が数多く点在しています。
最も有名なのが、レロ書店(Libraria Lello)でしょう。
アンティークな木製のらせん階段を中心として本棚がズラリと並ぶアンティークな雰囲気の小さな書店ですが、「作品内に登場する魔法の書店のモデルになったのでは?」と一躍有名になりました。
他にも、原作者が通っていたカフェには「作品のアイディアが浮かんだら、テーブルにあった紙ナプキンに走り書きしていた」というエピソードがあったり、原作者が通っていたバー兼クラブが「魔法の村にあるパブのモデルになったのでは?」と噂されていたりと、とにかくハリー・ポッタースポットが多く点在するポルト。
ポルトでは「J.K.ローリング氏がポルトに滞在していなかったら、ハリー・ポッターの世界観は生まれなかった。ポルトがハリー・ポッター誕生の地だ!」と真剣に豪語する人もいるとかいないとか…。
世界遺産に指定されている美しい町並みの観光も魅力的ですが、この噂の真相を自分の目で確かめるのも良いかもしれませんね。
7.ペドロとイネスの悲恋物語:コインブラ/アルコバサ
最後に紹介するのは、ポルトガル人が大好きな悲しい愛の物語。
ポルトガル中部が舞台である「ペドロとイネスの悲恋物語」は、映画化もされているほどにポピュラーな伝説です。
儚くも美しいお話ですが、何とこちらはただの伝説ではなく完全なる史実。
そう、実際に起こったことなのです。(脚色はされているでしょうが)
コインブラとアルコバサ、二つの町を舞台に繰り広げられるドラマのようなお話を簡単に紹介します。
「ペドロとイネスの悲恋物語」あらすじ(コインブラ編)
時は1339年のこと。
当時のポルトガル王国の王子であったペドロは、父であり国王であったアフォンソ4世によって、隣国のカスティーリャ王国 (現在のスペイン) の王女・コンスタンサと結婚させられます。
ところが、コンスタンサがポルトガルに嫁いできた際、使いとして同行してきたイネス・デ・カステロと恋に落ちてしまったペドロ王子。
コンスタンサという正式な妻がいるにもかかわらず、イネスを妾として寵愛するようになりました。
コインブラに現在も残るある涙の館 (Quinta das Lágrimas) の庭園で愛を深め合った二人。
1345年にコンスタンサが病に臥して亡くなった後は、正式ではないもののイネスはペドロの「後妻」のような立場になります。
彼らはコインブラの旧サンタ・クララ修道院で3人の子供たちとともに新しい暮らしを始めました。
しかしながら、ペドロの父である国王・アフォンソ4世は、ペドロの先妻・コンスタンサの出身であるカスティーリャ王国からの強大な圧力を恐れたため、息子たちの関係を良く思いませんでした。
1355年の1月のこと。
アフォンソ4世が密かに国王が送った家臣たちによって、コインブラの涙の館の庭園にある涙の泉付近でイネスは喉をかき切られて殺害されてしまいます。
それからは悲しみに暮れる日々を送るペドロ王子。
愛した人を死に至らしめた父やその家臣たちに対して反旗を翻します。
幸か不幸か、イネス暗殺から2年後の1357年に父のアフォンソ4世がなくなり、ペドロはペドロ1世としてポルトガル国王の座に就きます。
時が経っても消えることのない憎しみの炎。
ペドロはイネスの殺害に加担した者を把握するため、古くからの家臣たちにイネスの亡骸にキスをさせるという踏み絵のような行為を課し、イネスの殺害に関わった3人の家臣を「生きたまま心臓をえぐり取る」という残酷な方法で殺害しました。
その後、「イネスとは生前に正式な婚約を交わしていた」と宣言し、亡き彼女をポルトガル王国の王妃であると認めさせます。
その際に彼女の遺体を掘り起こし、戴冠式まで行ったことは有名です。
なかなかおどろおどろしい話です。
そもそもは不倫関係から始まった二人の恋。
愛する人を失って復讐に駆られるペドロの姿は、何だか日本の昼ドラでも見ているような気分になります。
舞台となったコインブラには、二人が逢瀬を重ねた涙の館と庭園が残っており、イネスが殺害されたとされる「涙の泉」も残されています。
涙の泉の底には、赤く変色した部分があるのですが、ポルトガルではこれが「喉を掻き切られたイネスの血」だと信じられています。(若い人でも結構信じています)
また、涙の泉の水は、この場所で殺害されたイネスの涙であるとされています。
先述のセットゥ・シダードゥシュ然り、ポルトガル人は水を見たら涙に見えてしまう民族なのかもしれません。
ここまではかなりの脚色が含まれていそうな物語ですが、実際にペドロとイネスが実在し、この場所で逢瀬を重ねていたのは事実。
そして、この物語にはまだ続きがあるのです。
「ペドロとイネスの悲恋物語」続き(アルコバサ編)
イネスが亡くなってから5年が経った1360年のこと。
ペドロ1世は、コインブラの旧サンタ・クララ修道院に安置されていたイネスの遺体をアルコバサの修道院に移し、精巧に装飾された二つの石棺のうちの一つに納めさせました。
1367年にペドロ1世も亡くなり、彼の遺体は遺言の通り、アルコバサ修道院にもう一つ残された棺に納められました。
それから700年近い時が経った現在でも、彼らの棺はアルコバサ修道院に安置されています。
お互いに足を向ける形で向かい合わせて置かれた二つの美しい棺。
「最後の審判が下り、死者が生き返る時に、起き上がって一番初めに目にするのがお互いの姿であるように」
というペドロの想いは、色褪せることなくこれからも永遠の時を刻み続けていくのです。
コインブラの南に位置するアルコバサという町が物語後半の舞台。
世界遺産に指定されているアルコバサ修道院の聖堂では、実際に二人の遺体が納められている二つの美しい棺を見ることができます。
ポルトガル人で知らない人はいない、「ペドロとイネスの悲恋物語」。
コインブラとアルコバサをまわる「聖地巡礼」のような日帰りツアーが現地の人の間でポピュラーになるくらいなので、その人気がわかります。
何よりも凄いのが、この物語の主役であるペドロ1世は、先述の「イザベル王妃のバラの奇跡」に登場したディニス1世とイザベル王妃の孫にあたる人物(父のアフォンソ4世はこの二人の息子)である点。
ポルトガル王国が成立し、大航海時代へが始まる前のこの時代は、ポルトガル人が誇りに思うもの。
ポルトガルの中世歴史ロマンが詰まった時代だったのかもしれませんね。
おわりに
ポルトガルに伝わる7つの伝説やミステリーを紹介しました。
どれもポルトガルではかなりの知名度を誇るものなので、知っていると現地の人との会話が弾むかもしれません。
ロマンティックな愛の物語から、トンデモな噂まで。
これだけ多くの伝説が生まれるポルトガルの人々は、意外とロマンティックな人達なのかもしれませんね。
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