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このままだと日本人の海外でのイメージが「陰キャラ」になりそうな件。

こんにちは!海外生活ももう7年目ののぶよ(@nobuyo5696)です。

コロナウイルスの蔓延により、世界各地で都市封鎖や国境移動が制限されている今日この頃。

日本では「自粛期間」が間もなく終了するということで、少しずつ日常が戻っていくような雰囲気になっているのではないでしょうか。

この数か月の間、日本には居ないながらも、比較的まめにニュースをチェックして、日本の現状や人々の意識を知ろうとしてきました。
諸外国とは異なり、強制力がない「自粛」であったにもかかわらず、比較的みんながそれを守っていて、結果として欧州ほどに国内で大流行することなく現在に至っているというのは素晴らしい点だと思います。

同時に、主に一部の人々のメンタリティーによる日本のマイナス面が目立ってしまっていたのはとても残念なところ。

基本的に日本は素晴らしい国だと思っているのですが、ふと思ってしまいました。
このままでは、日本はダメかもしれない」と。

こんなこと、ありましたよね?

・マスクを買い占めたり店員に詰め寄る人々
・医療従事者や感染者に対する差別
・自粛に際して正義感を振りかざす人々
・他県ナンバーの車に嫌がらせをする人々
・海外からの帰国者に対する陰口・誹謗中傷

などなど、とにかく日本人が心のどこかに持つ「陰」の部分が、この自粛期間中ここぞとばかりに浮き彫りになっていた気がします。(海外にいるから余計に際立って見えるのかもしれませんが)

インターネットで誰もが発信でき、世界中があらゆる情報であふれる現代社会では、こうした日本の負の部分だって世界中に拡散されていきます。
日本人=裏でコソコソ嫌がらせをする陰キャラ」なんてイメージになったら嫌じゃないですか?

というわけで、今回の記事では自分への自戒の意味も込めて、「日本人陰キャラ説」やその背景にある原因について考えていきたいと思います。

海外の人にもバレてるよ。日本人陰キャラ説について語りたい。

「陰キャラ」という言葉を使うと語弊が生まれるかもしれませんが、ここでは「表立って主張&行動できないにもかかわらず、裏でコソコソと他人に嫌がらせをする」ようなイヤ~な感じのメンタリティーを持つ人のことだと理解してください。

日本人なら、「ああ、こういう感じの人ね」とイメージが浮かぶでしょうし、なんなら実際に知り合いの顔が浮かんだ人もいるかもしれません。

ここでは主に、コロナウイルス蔓延による自粛期間中に気になった日本人の「陰キャラな部分」をいくつか取り上げていきます。

批判と誹謗中傷の区別ができない人達

この記事を書いている前日、ショッキングなニュースがありました。
それは某テレビのリアリティー番組に出演していた女性が亡くなったというもの。

どのような経緯でそうなってしまったのかは明らかにはなっていないものの、その背景にはSNS上での誹謗中傷があったとされています。

何でも、番組中での女性の共演者に対する態度への「批判」が始まりだったそうですが、その内容のいくつかは「批判」ではなく個人攻撃そのものだったと言います。

会ったことも話したこともない人の人格を否定するような言葉や、容姿を馬鹿にするような言葉など、とにかく罵詈雑言のオンパレード。

番組を放送したテレビ局の演出方法(あえて批判をされることで話題性を狙おうとした)に問題があったことは事実でしょう。
しかしながら一番の問題は、「批判」と「誹謗中傷」の区別が曖昧になっている人が視聴者側にあまりにも多かった点ではないでしょうか。

万人に受け入れられる意見を発信するのは不可能ですから、自分に賛同する人もいれば反対意見を持つ人もいるのは当たり前のこと。
その反対意見を理路整然と訴えることが「批判」であって、根拠のない個人攻撃等の「誹謗中傷」とは全く異なるものです。

海外でもこうしたインターネット上での誹謗中傷は問題となっていますが、日本の「気に入らないものはとにかく寄ってたかって叩く」文化は常軌を逸しているように感じます。

反対意見を発信することで議論の場に堂々と出ていくために「批判する」のではなく、「他の人が叩いているから」「何となく気に入らないから」という理由で、ある人を不満のはけ口のようにする文化があるのは、日本人なら思い当たるところがあるのではないでしょうか。

その不満の浴びせ方や使われる表現も、「有名人だから」「公人だから」という理由からか、容赦のない、相手も一人の人間であることをまるで無視したものが目立つように思います。

問題となったリアリティー番組は、海外にもファンがいることで有名なもの。
今回の件は当然そのファンの耳にも届くこととなり、裏で何があったのかも知られることとなります。

日本で幅を利かせる、理不尽な「インターネット上で叩く文化」は、遅かれ早かれ世界中に知られることとなってしまうでしょう。

行きすぎた「自業自得論」と正義感を振りかざす「自粛警察」たち

自粛期間中は、日本の大半の人が節度を守った行動をしていた点はとても素晴らしいこと。
「規範を守る」「他の人に迷惑をかけない」という日本人らしい考え方がよく出ていたのではないかと、自分は何一つ貢献していないながらも誇らしく感じます。

しかしながら、「コロナウイルスの蔓延を食い止める」という目的の下で、行きすぎた自己責任論や正義感を振りかざす人たちの姿もかなり報じられていました。

神戸新聞の記事によると、日本、イタリア、アメリカ、イギリスの四か国中で「コロナウイルスに感染する人は自業自得か」という質問に対し、「自業自得である」と答えた人の割合は日本が突出して多かった(11.5%。他国は1~2%)という調査結果が出たそう。

コロナウイルスに感染した芸能人が「謝罪」を行うという謎すぎる文化にも表れていますが、そんなことが起こるのはおそらく日本だけ。
正直、「何に対しての謝罪?」と疑問に思いました。
(何か感染しても仕方がないような行動をとっていたのなら話は別ですが)

「自業自得」はもともと仏教的な価値観で、古くから日本の人々の心に根付いているのは理解できますし、だからこそ規範を守ることを良しとする美徳が生まれたのでしょう。

しかし、いくら気を付けて予防していても病気にかかってしまう可能性は十分にありますし、個人ではどうしようもない感染症への感染に対して「自業自得」とあしらわれ、謝罪がなされる文化って、おかしくないですか?

また、俗に自粛警察」と呼ばれる行きすぎた正義感をふりかざす人たちの行為も目立っていました。

・他県ナンバーの車に嫌がらせをしたり誹謗中傷のビラを置く
 ・経営のため仕方なく営業し続けているお店を恫喝する
・事情があってマスクを外している人に詰め寄る

など、「みんなが努力して守っていることは守るべき」という正義感から来た行動なのでしょうが、完全に行きすぎだと思います。

こうした正義感を振りかざしたがる遺伝子は、若い世代の日本人にも脈々と受け継がれているのかもしれません。

SNS上で若者世代に人気の「インフルエンサー」と呼ばれる影響力を持つ人たちや、Youtuberとして活躍する人たちが、ちゃんと自粛を守って生活しているのかを監視するような動きも見られたことが一つの例です。

写真や動画で食べている食材の賞味期限や背景から「いつ、どこで撮られたものか」を割り出し、それが自粛期間中にあたった場合は大炎上。
買い物に行くためのちょっとした外出時に撮影した写真を載せたら、「不謹慎だ」「不要不急だ」と言われる。

こうしたネガティブな反応を何よりも恐れるインフルエンサー側は、袋叩きにされないよう、どんどん当たり障りのないワンパターンな発信ばかりになってしまいます。

そもそもの大前提として、日本での措置は「外出自粛」。
他者が強制してどうこうできるものではありません。

もっと言えば別に守らなくても法的な問題はなく、外出せずに過ごすかどうかは各自の良心やモラルに委ねられているということです。

それに対して勝手な正義感をふりかざす、そしてそれを良しとして晒し上げる同調圧力の塊のような社会風潮にも疑問を感じます。

海外でも報じられる、日本の歪んだ「自粛警察」「自己責任論」

この日本の「自粛警察」や「自己責任論」という風潮に関して、英語で発信している海外ニュースサイト等もあります。

Japantimes:“Japan’s ‘virus vigilantes’ take on rule-breakers and invaders”
(「ウイルス監視役」がルール破りと侵入者を管理する日本)

内では、”Virus Vigilantes”(ウイルスの監視役)と名付けられて、その問題提起がされています。

AP通信:“In Japan, pandemic brings outbreaks of bullying, ostracism”
(日本では、コロナのパンデミックがいじめや村八分のアウトブレイクを招いた)

内では、コロナウイルスの集団感染が起こった大学や店などに対して誹謗中傷が行われたことや、医療従事者に対する差別に関して報じています。

「出る杭は打たれる」文化

日本人のメンタリティーを如実に表していることわざの一つに、「出る杭は打たれる」というものがあります。

「変に目立つのは良くない=他人と同じように振舞うのが良い」という意味なのですが、海外の人にこのことわざを理解してもらうのはかなり骨が折れること。

なぜなら、海外(特に欧米圏)では、「皆の育ってきた環境や考え方は違う」ということがそもそも前提なので、どの杭もすでにバラバラに出ている状態で打ちようがないためです。

このことわざが、「他人に迷惑をかけないように周りに合わせる」という自戒的な意味で捉えられているのならまだしも、現在の日本では「出ている杭(=人)を打ってひっこめてやる」ことに焦点が当てられていないでしょうか。

人とは違う考え方を持つことや、他の人と異なる人生を送ることを良しとしない文化は、先述の「異質なものを叩く」文化につながってきます。

大多数とは異なるものを異端扱いして均一にしようとする、日本人特有のこのメンタリティー。

自分がその人に追いついてやろう・見習おうというポジティブなハングリー精神ではなく、相手を自分の位置に合わせる・引きずり下ろすというネガティブな精神からきているのがポイントだと思います。

ひとことで言うなら「自分より優れた人の足を引っ張る」という陰湿な意識に他なりません。

日本人陰キャラ問題の原因とは?

ではどうして、日本人の間には「寄ってたかって叩く」「自己責任論や正義感を押し付ける」「足を引っ張る」といったネガティブな考え方・行為が生まれてしまうのでしょうか。

その理由は、日本人が良かれと思って守ってきた「日本人らしい態度や考え方」をこじらせてしまったからなのかもしれません。

他人との議論を避ける文化によるストレス

私たち日本人は「物事をはっきりさせず、曖昧にしておくことで争いを避ける」という独特のコミュニケーション文化を持っています。

日本人には議論が苦手な人が多い」と言われるのは、きっとこれが原因。
誰もが同じ意見を共有することなんてありえないのに、自分とは反対の意見を面と向かって直接言われると、「自分の人格が否定されている」と感じてしまう人が多いようです。

こうして、面と向かって相手に反論したり文句を言うことを避けてきた日本人ですが、言いたいことが言えないとなるとストレスが溜まります。

そのストレスの絶好のはけ口となるのが、かつては井戸端会議などでの陰口・噂・悪口大会であり、現在ではインターネットやSNSなのではないでしょうか。

「批判と誹謗中傷の区別ができない」「どこまでが言ってもよくて、どこからが言ってはいけないことかわからない」という人がインターネット上で目立つのは、人間の基本的なコミュニケーション手段の一つである議論のスキルが未熟なまま、匿名で思ったことをそのまま表現できる(しかもお互いの顔が見えない)世界を手にしてしまったからなのではないかと感じます。

自分に厳しく他人に厳しすぎる

日本人には自分に厳しい人が多いと思います。
ルールを守ることを良しとする国民性然り、他人に迷惑をかけることを極力避ける文化然り。

この「自分に対する厳しさ」は、規則を守り自分を律するという精神につながり、基本的には良い文化だと思います。
しかしそれが行き過ぎてしまうと、他人に対しても自分と同じレベルを求めるという「他人に対する厳しさ」につながってしまうことも。

「私はこんなに努力して自粛しているのに、なんであの人は?」
「みんなが自粛しているのに、なんでこの店は?」
「お前がちゃんと対策していないから、コロナにかかったんだ。自業自得だ!」

など、自己責任論や自粛警察などの正義を振りかざす人たちの考え方のベースはここにあるのではと感じます。

もちろん、ウイルスという見えない敵の前では、ある程度人々が一致団結した状態で蔓延を防ぐ必要があるでしょう。
しかしながら、日本でのニュースを耳にするたび、他人に対する不寛容さやギスギスした雰囲気ばかりが強く感じられたのは否めません。

諸外国と比べて、「ちょっとぐらいは…」というグレーゾーンがとても狭いように感じる日本。

それが功を奏してウイルス蔓延を最小限に食い止めたというのなら素晴らしい話ですが、そんな他人に不寛容でギスギスした潔癖な社会で生きていくことが、果たして幸せなのでしょうか。

他者への嫉妬心と同調意識が変に混ざってしまった

最後に「出る杭は打たれる」精神に関してですが、これには日本人なら誰でも納得する「均一的な教育環境」「同調圧力」「嫉妬」の三つが根底にあるのではないかと感じます。

特筆すべき面がある日本社会の均一性。
例えば、私たちは小さな頃から「レールからはみ出さないように」と教えられてきます。

みんな同じ制服を着て学校に通い、部活などで団体行動を身に着けられ、同じ時期にスーツを着て就活をして、結婚して…

こんな「人生ロールプラン」みたいなものが頭のどこかにあって、その価値観を多くの人が共有しているのが、日本社会の大きな特徴でしょう。

このロールプランからはみ出すと「変わった人」とされ、そうならないためにみんなが和を守る「同調圧力」に支配されているように感じます。

一方で、この同調圧力や均一性をずっと守ってきた人からすると、我が道を進んで成功した人は羨望・嫉妬の対象。

他の国の文化でも多かれ少なかれ他人を羨むことはあるでしょうが、「他者を嫉妬する→自分が相手に追いつけるように努力・行動する」というポジティブな嫉妬心が基本的にメイン。
人間誰しもが持つ嫉妬心とどう自分の中で向き合うかという点で、日本と大きく異なります。

一方の日本人あるあるは、「他者を嫉妬する→相手を貶める・下げる」というネガティブなものが多く、はたから見ていて気持ちの良いものではありません。

おわりに

長かった自粛期間にもようやく終わりの兆しが見えてきたということで、この数か月間での日本の(一部の)人々の行動に関して感じたことを書いてきました。

誤解しないでいただきたいのが、日本には素晴らしい人もたくさんいる点。
非常事態だからこそお互いに助け合おうとする人や、誰かのためにリスクを冒して働き続ける人々などは尊敬しますし、まだまだ捨てたもんじゃないと感じます。

しかしながら、海外から日本のニュースを追っていると、他人に対して寛容になれない一部の人たちの心の狭さが際立ってしまっていたのは事実。

嫉妬したり誹謗中傷してくる奴なんか無視しておけばいいのに
という意見もあるでしょう。

しかし、誰もがそこまでメンタルが強いわけではありません。
たった一つの小さな行動や言葉が、他の人にとっては致命的なまでの傷を負わせることだってあります。

批判をすることがいけないことだとは言いません。
自分に厳しいのは素晴らしいことですし、嫉妬心だって誰もが心に持つものです。

問題なのは、一部の人がこれらのネガティブな感情にばかり支配され、他者に対する寛大さが失われつつある点。

もう少しだけ、一人一人が他者の立場や気持ちを考えて行動することができれば、きっと日本社会はより良い方向に変わっていくのではないでしょうか。

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