普段は旅行情報や海外情報を主に発信している当ブログですが、これまでの旅を通して感じたことをフォトエッセイ形式でお届けする新企画が「世界半周エッセイ」。
各国で体験した出来事や、出会った人たちとの思い出がテーマとなっています。
現役で走っていることが奇跡に思えるほどにボロボロの日産デリカの4WD車が、木々の鬱蒼と茂った山道を、縦に横にグラングランと大きく揺れながらゆっくりと走る。
これは、あれだ。
遊園地によくある「大丈夫だと思って乗ろうものなら、酔って数時間気分が悪くなる乗り物」そのものだ。
遊園地のアトラクションと今乗っている4WD車の大きな違いは、三つある。
一つ目は、このグラングランが2時間以上休みなく続くこと。
二つ目は、娯楽のためではなく、れっきとした移動手段として乗っていること。
そして最後の三つ目は、少しでも運転手がハンドル操作を誤れば、たった20センチほど先の路肩の向こうで大きく口を開けて獲物を待ち構えている深い谷底へ真っ逆さまだということ。
本当は歩いて山を越えてやろうと思っていた。
距離にして13kmほどの峠を越える道。全部歩いたところで4時間ほどだ。
こんなの、大したことない。
それでも、「目的地が一緒だから乗ってけ」という知らない人の好意を無下にするほど、歩くことにこだわりがある性分でもないし、なにより文明の利器を利用しない手はない。
コーカサスの山に抱かれた小国・ジョージア。
これだけ山に囲まれた国だから「秘境」と呼ばれる場所は数多くあれど、中でも最も「秘境」の名にふさわしいトゥシェティ地方を旅している。
この地域に至る道はたった一本の未舗装道路のみ。
ひとたび雪が降ると通行不可能となり、冬の間は現世から完全に隔絶されてしまう。
だから、何だか使い古された感のある「秘境」という言葉よりも、「山奥の僻地」と言った方が正しいのかもしれない。
電気はいまだに通っておらず、トゥシェティの住人の生活は自給自足でまかなわれている。
彼らは秋になると山を下り、長い冬を山の麓の別宅で過ごす。
そして春の訪れとともに再び山に戻り、短い夏を山で過ごす。
「山と共に生きる」
そんなライフサイクルをずっと繰り返している山の民たちだ。
こんな文字通りの「秘境(僻地)」のさらに奥。
数キロ先の山の向こうはもうロシア領、という最果ての村を目指そうと思った。
そうして運良く、同じ方面へ向かう車(というか道が一本しかなく皆目的地は一緒なのだが)に乗せてもらうことができたわけで、想像を絶する悪路にグラングラン揺られているわけだ。
峠を越え、湧き水を飲む子熊を目撃し(車に乗っていて本当に命拾いした)、いつ終わるのかもわからないクネクネ・ガタガタ道に揺られながら、三半規管の強い子供に産んでくれた母親に心から感謝して…
いったいどれくらいの時間が経っただろうか。
ふいに木々の隙間から向こう側が見えた。
あれが、ダルトロ村だ。
壮大なコーカサスの山々に遠慮するようにぽつりと、こぢんまりと佇む素朴な村の風景を遠目に見て、思った。
「そうか。”桃源郷”という言葉はこういう場所のためにあるのか」と。
この地域でとれる黒っぽい石で壁も屋根も統一された家々と、石を積み上げて作られたいくつかの古い見張り塔。
言葉でどうのこうのと表そうと試みることすら憚られるほどに、ダルトロ村はただ美しかった。
あらかじめ目をつけておいた安そうなゲストハウスの門をくぐる。
自分とさほど歳が変わらない女性(もしかしたら年下かもしれない。この国の人の年齢を見かけで当てるのは相当難しい)が流暢な英語と気さくな笑顔で迎えてくれ、コーヒーを淹れてくれた。
彼女の名はニノという。
この村の出身だが、夏の数か月の間だけ祖母が経営するゲストハウスの手伝いに戻るだけで、それ以外の季節はアルヴァニ(Alvani)という山を下ったところにある村で生活をしている。
こんな世界の果てのような場所で英語が流暢に話せる人に出会えたことに、正直びっくりした。
彼女にその理由を尋ねると、「かつてドイツで仕事を見つけて数年間住んでいた」と。
それでも、疑問は尽きない。
単純に見積もっても、ドイツで仕事をしていればジョージアの10倍以上の給料が、何の苦労もなく毎月もらえるはずだ。
しかも、こんな山奥のゲストハウスで働いていることを考えると、その差は10倍どころではないだろう。
こちらが尋ねたいことがわかったのか、彼女はこう付け加えた。
「ドイツでの生活は楽しかったし、経済的にもかなり豊かな生活ができていた。それでも、私が持って生まれた運命が未来へと続いている場所はドイツではなくて、生まれ育ったこの村なの。私はね、自分の運命を受け入れたの。」と。
トゥシェティ地方には、ジョージアの他地域とは異なる独自の信仰や伝統的な価値観が現代でも息付く。
その一つが、絶対的な男性社会であること。
村の決め事や祭祀について話し合う会議に参加できるのは男性だけで、女性には何の権限もない。
女性の月経時の血が「穢れ」とされる宗教観が強く根付いており、月経期間中の女性は村はずれにある「聖地」で身を清める儀式を行う習慣が、2021年の現在でも残っている。
各村に必ず一つはある「ハティ」と呼ばれる精霊信仰の象徴となる祠にも、「穢れ」をもたらすとされる女性は近づくことさえ許されない。
つまり、この地域で女として生きていくことは、簡単なことではないのだ。
それでも、自分とさほど年齢が変わらないニノは、ドイツでの豊かで自由な生活ではなく、経済的に厳しく古い価値観に縛られ続けている(ように思える)この地を拠点に生きる運命を選んだのだ。
「外国人の旅行客が来ると本当に嬉しい。彼らから聞くいろいろな国や場所の話が、村の生活の中では一番の娯楽だし、どの話もどの旅行者の顔も鮮明に覚えていられる。だって、テレビもインターネットも電気さえも、ここにはないんだから。自分に必要のない情報に埋もれることなんてないし、本当に大切なことを忘れてしまわなくて済むのよ。」
と、半ば冗談っぽく語る彼女だが、それはあながち間違っていないのかもしれない。
自分にとって何が大切か、どう生きていくことが幸せなのか。
それを判断するのは、他人から見た「女性には生きにくそう…」「若いのになんでこんな不便な場所に?」という有り体の一般的な価値観ではなく、自分自身に他ならない。
このときはもう9月の終わり。
初雪が山々を覆い、道路が通行できなくなるのは例年10月の頭だそうで、村人の中にもすでに山を下って麓の別宅で冬の準備に勤しんでいる人も多いようだ。
「きっとあなたが今年最後のゲストね。」
と言いながら夕食の準備を淡々とする彼女も、あと2週間ほどで山を下り、麓の自宅で長い冬を過ごすのだそう。
コーカサスの山里に生を授かった山の民たちは、何百年も昔から自然とともに生きてきた。
自然が人間との共存を拒む冬が訪れる前に家畜を連れて山を下り、再び自然が人間の営みを許す春になると、山の民たちは何かに呼び寄せられるかのように山へと戻ってくる。
彼女もきっと、同じなのだろう。
他人が思う豊かさや生きやすさを反故にしようとも、山の民の一人として、自然と共に生きていく運命を受け入れたのだから。
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