【沈没 (ちんぼつ)】:船などが海に沈むこと。転じて、長期で旅行している人間が居心地の良い町や宿に居着いてしまい、離れられなくなることを指すように。沈没中は観光等に精を出すわけではなく、暮らすようにだらだらと毎日を過ごす場合が多い。
とうとう、この日が来た。
11か月近く滞在した場末宿を出る日が。
当ブログやTwitterをチェックしている人には、おなじみの「場末宿」。
ジョージアのバトゥミにある小さなホステルのことだ。
場末宿を知らない人のためにいちおう説明しておくと、この宿は観光目的の旅行者が数泊して去っていくような、一般的なホステルとは少し違う。
数週間~数か月単位の長期間滞在する宿泊客が大半で、たまに旅行者が迷い込む…といった、ホステルというよりも半ばシェアハウスのような雰囲気の空間だ。
宿代が安く、妙に居心地が良いためか、この場末宿に宿泊した人間はずるずると滞在期間を延長しがちだ。
かくいう自分も、その一人なのだが。
場末宿に滞在するのは、今回が初めてではない。
2022年の11月から2023年の7月まで、去年は8か月ほどの期間をこの場所で過ごした。
そして今年はなんと、2023年の11月から2024年の10月までの11か月近くを、ふたたびこの場所で過ごしていた。
自分でもいったい何をしているのか分からないが、まあ居座ってしまったものは仕方がない。
場末宿の魅力は、この空間に集まる人にこそある。
いちおう「ホステル」という形態で営業しているので、世界各国からの旅行者が集まる場所ではあるのだが、宿泊客に最も多いのはロシア人。次いでベラルーシやウクライナ、中央アジアなど旧ソ連圏出身の人間が多い。
場末宿の宿泊客(のぶよは「場末民」と呼んでいる)は、基本的にお金がない。
人生に行き詰まっている感をぷんぷんと漂わせている人も少なくなく、なんとも言えない限界感を感じなくもない。
こうして色々な人が集まるわけだから、この小さな空間では日々さまざまな出来事が巻き起こる。
大鍋でボルシチを作ってみんなでワイワイと食べたり、海辺にバーベキューをしに出かけたり、何の前触れもなく即興コンサートが始まったり…
そう聞くと、「色々な人と関われる楽しい場所」と思う人もいるかもしれない。
しかしながら、もちろん楽しいことばかりではない。
文化もバックグラウンドも考え方も常識も異なる人々が集まるということは、少なからずストレスフルな出来事だって起こるものだ。
他人の食材を勝手に食べたり、深夜に爆音で音楽を流したり、初対面でいきなり「お金貸して」と言ってきたり…
自分がこれまで培ってきた常識では考えられないような行動をとる人だっているのだ。
そんなわけで、場末宿で過ごしたこの11か月間は楽しいことも腹が立つこともたくさんあった。
でもまあ、総合的には「楽しい」の気持ちが勝つのだろう。だからこそ、こんなに長いことここに居たんだから。
大人になると、新たな友達を作るのは難しい。
みんなそれぞれの人生を歩んでいるから、他人と一緒に同じ時間を過ごしてじっくりと友情を育むことは、どうしても後回しになりがちとなる。
数か月や一年に一回会って、ちょっと飲みに行くくらいが関の山。
「またそのうち、絶対に会おうね!」なんて言って別れても、その「そのうち」はなかなか訪れないものだ。
いっぽうの場末宿では、「またそのうち、絶対に」がすぐにやって来る。
なんと言ってもみんな同じ空間に住んでいるわけだから、「そのうち」なんて言わなくてもどうせ夜になればまた顔を合わせることとなる。
まるで、高校時代や大学時代の人間関係みたいだ。
どうせ明日また学校で顔を合わせることがお互いに分かっているから、一緒に過ごす毎日の時間が特別であることなんて毛頭考えもしない、あのキラキラと輝く儚い日々……みたいな。
でも、永遠に繰り返されるものなんてない。
高校で毎日嫌というほどに同じ時間を過ごしていた親友とも、大学で毎日顔を合わせてみんなで若さを謳歌していた友人たちとも、そしてこの場末宿で濃い日々をともに過ごした場末民たちとも。
いつかは「またそのうち、絶対に会おうね!」なんて言って、別れる日が来るのだ。
自分にとってのその日が、今日なのかもしれない。
いや、もしかすると「そのうち」はすぐに訪れるかもしれないし、もう永遠に訪れないかもしれない。
未来に何が起こるかなんて、誰にも分からないから。
まあでも、「もう二度とこの景色を見ることはないだろう」と思いながら立ち去るより、「どうせきっとまた来るだろう」と軽く考えておくのも、悪くない。
場末宿はずっと場末宿のままだろうし、自分がまた場末感にどっぷりに身を浸したければ、ふらりと戻って来ればよいのだ。
そう自分を奮い立たせ、まだ誰も起きていない静まり返った場末の空気を存分に吸う。
「さよなら、場末宿。」
そう小さく呟き、重い腰を上げ、表へと続く階段をできるだけゆっくりと下る。
久しぶりに背負ったバックパックのずっしりとした重さに少し驚きながら、大雨だった昨日とは打って変わって眩しく輝く朝の光に目を細めながら、宿の入口の扉をそっと閉めた。
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