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旅を続ける理由(のようなもの)

時々、自分に問いかける。「いったいいつまで、こうして旅を続けるんだろう」と。

ジョージア・グダウリ

「どうしてそんなに長いこと旅しているの?」と訊かれることが、よくある。
それに対する答えはただ一つ。「別に。なんとなく。」

短期の「旅行」と長期の「旅」は、二つの全く異なる概念のように思う。

前者が非日常を心ゆくまで満喫し、日常に戻ることを前提としているものだとしたら、後者は非日常を日常にするための一連のプロセスのようなものに過ぎない。

非日常も日常もごちゃ混ぜにしたスープのようになるんだから、「日常に戻る」なんて前提はない。
ごちゃ混ぜスープを飲み干した後に何かがあるとすれば「新しい日常に一歩踏み出す」といった感じだろうか。

旅を長く続ければ続けるほど、非日常であったものが日常にスルスルと溶けていき、やがてその相反する二つの概念の境目がまるでわからなくなる。

その感覚は、まるで麻薬。

一度味わってしまったら、もう最後。
常に五感を刺激する非日常の連続も、毎日が単調な繰り返しに感じられる退屈な日常の連続も、どちらか一方だけではその体を、神経を、血の一滴を満足させることはできなくなる。

クロアチア・フヴァル島

さて。昨今は何をするにでも「真っ当な」理由をつけたがる(そして社会や大衆がそれを求める)時代だ。

旅することの理由に絞って言うならば、「世界中の人々と触れ合いたい」とか「異文化をこの目で見て知見を広めたい」とか「外から日本を見ることで常識にとらわれない価値観を得たい」とか…なんだかもっともらしい文言が並ぶ。

そんな旅することのもっともらしい理由たちは、「若いうちに自分の目で世界を知るのは良いことだ」なんて、バブル時代から使い古されてきたようなセリフとともにおじさんおばさん達から一定の支持を得たり、「何か目的のある旅」に煌めきを見出して憧れの眼差しを向ける層によって、共感が指先のワンタップで示されたりする。

しかし結局、旅をすればするほどに、大仰な「旅する理由」なんて薄まっていき、それらは日常に優しく溶け込むものだ。

世界中の人々との触れ合いも、異文化に対する好奇心も、常識にとらわれない価値観も。「日常」という魔法の水に溶けぬものなどない。

だんだんと、それらをまるで使命のように捉えていた自分が恥ずかしく思えてしまうほどに、日常という水は何食わぬ顔で非日常をじわりじわりと、しかし強引に溶かし込んでいく。

アルバニア・ドリマデス地方

旅をすることに理由なんて一つもいらない。

旅することなんて、ただの一秒ごとの呼吸の集合であり、一歩ずつ歩いた道のりの合計であり、一瞬一瞬に自分が感じたものを無造作に貼り付けた、心のスクラップ帳のようなものだ。

後からその呼吸の歴史を、自身が歩いた道のわだちを、思い出に満ちたスクラップ帳を、「こんなこともあったね」と、どこか懐かしげに愛でるくらいが関の山。

旅なんて何一つ生産的なものではない。
むしろ、さんざん時間やお金をかけてリスクを冒した結果、出来上がるのは色褪せたスクラップ帳だけなのだから。最近よく聞く「コスパの良さ」では最悪の部類に入るだろう。

そんな「コスパ最悪」の旅というものは、冗長で退屈であることがわかっているのにもかかわらず、何一つ変わらず今日も明日も明後日も延々と続いてゆく人生に似ているような気がする。

人生も終盤に差し掛かったとき、人はそんな退屈な日々の思い出に満ちた浴槽にどっぷりと心を浸からせ、甘みも苦味も酸味も全て噛みしめたくなるものだ。と聞いたことがある。
心のスクラップ帳を開き、懐かしそうに目を細めるかつての旅人と同じではないか。

「コスパの良さ」で考えるなら、旅も人生もどっこいどっこいの最悪さだ。
なにしろ、ただ生きているだけでお腹は減るし、心痛める出来事は世界中で起こるし、地球環境は破壊され続けるし、将来への不安は尽きることはないのだから。

かつて世界を渡り歩き、今は某国に身を落ち着けたという旅人に出会ったとき、彼はこう言った。
「もう十分に旅は満喫したから、次は家族と一緒にゆっくりと生活をしたくなった。旅するのもこうしてのんびりと暮らすのもどちらも良い。その時の流れに身をまかせてみるのも悪くないものだよ」と。

自分はまだ、そんな気持ちになったことは一度もない。
「そうか。そんな風に落ち着きたくなるものなのか。」と他人事のように捉えた。

ポルトガル・ピコ島

正直に言おう。いま、旅と日常が溶け合って、境目がほとんど見えない。

それでも旅を続けているということは、今も変わらず、「旅」が車の前輪のように後輪である「日常」を動かし、人生という車体を前へと進める原動力であり続けているということだ。

いつか。4WDのように前輪も後輪も同じように回転しながら、車体を前に進める日が来るのだろうか。
あるいは、「日常」が前輪となり替わり、後輪になり下がった「旅」をひたすら引っ張るようになるのだろうか。

それはそれで、楽しいのかもしれない。
「旅」を導いていた時とは異なる速度で回る「日常」という前輪が目指す場所へ、両目を固く瞑りながら身をゆだねてみるのも面白いのかもしれない。

結局、何をしていることが「旅」であるのかなんて、他人にはもちろん、自分自身にも見当さえついていないのだから。

ジョージア・ウプリスツィヘ

「時々、自分に問いかけた。『いったいいつまで、こうして旅を続けるんだろう』と。」

そう過去形で言える日にはきっと、こうまでして自分の日常に深く溶け込みきり、人生をどこかへ導こうとする「旅」とは何なのか、少しは悟れているのだろうか。

「世界半周エッセイ」について

普段は旅行情報や海外情報を主に発信している当ブログですが、これまでの旅を通して感じたことをフォトエッセイ形式でお届けする新企画が「世界半周エッセイ」。

各国で体験した出来事や、出会った人たちとの思い出がテーマとなっています。

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