この目の前に広がる広大な海を、はじめて「黒海」と呼んだ人は誰なのだろう。
と、ふと思う。
べつに、その人物が誰で、どこの国の人で、どんな人となりであったかを知りたいわけではない。
ただ、その名も知らぬ誰かも、分厚い雨雲に覆われ星一つない空と、冬の荒々しい波の音が轟くだけの海との境界線を探そうとしては徒労に終わり、見渡す限りどす黒い宇宙さながらのこの不気味な空虚を眺めていたのではないだろうか。
2020年1月24日、トルコからジョージアに入国した。
冬の湿気をまとった不快な空気と、肌を刺すような寒さと、しとしとと降りはじめた雨と、でこぼこの穴だらけの歩道の歩きにくさへの悪態をどうにか我慢しながら、予約してあった宿に到着したのは夜八時をまわった頃だっただろうか。
初めて訪れる国の初めての夜。到着初日はゆっくり休みたいという人も多いのだろうが、自分の場合は知らない場所にやって来られた達成感とまだ見ぬ景色への興奮で、いつもなんだかハイになる。
この高揚を抑えてまで宿でスマホをいじっているのはなんだかもったいないように思えて、黒海へと歩くことにした。
そこにあったのは、光の一つもない真っ暗闇だった。降りやまぬ雨の音と、荒ぶる波音しか聞こえない世界。
目の前に横たわる空間が本当に海なのか疑問に思ってしまうほどに、何一つ見えない冬の夜。
そんな真っ黒な「海らしきもの」のほとりに、たった一人で居た。
それはなんとなく、この先の旅に対して一抹の不安を抱かせるには十分の、薄気味悪く得体の知れない光景だった。
1月24日を思い返すたびに、決まって脳裏に蘇る光景。
二年前の今日、あの黒い海のほとりで抱いた予感は決して外れていたわけではなかった。
ジョージアに入国して数週間もした頃。あれよあれよという間に、世界はそれまでの平衡感覚を失っていった。
黒い海のほとりで抱いた不吉な予感は間もなく確信に変わり、この国に滞在していることを心から楽しめなく思うまでに、それほど長い時間はかからなかった。
どちらかというと(いや、どちらかといわずとも)、好き嫌いがはっきりしている方だ。人に関しても、食べ物に関しても、そして場所に関しても。
ジョージアという国が、好きではなかった。
「好き」や「嫌い」を他人と共有することほど、難しいものはない。
子供の頃には誰しもが、まるで毛穴の一つ一つから発散しているかのように表現できていた、純粋で直球で剥き出しな好きや嫌いの感情は、いつしか利害関係を帯びるようになる。
好きだけど大っぴらにできないとか、嫌いだけど言うのがはばかられるとか、この人の好きや嫌いに合わせておいた方が得だとか、そういうことを学びながら人は成長していくものだとよく言われる。
誰もが好きや嫌いの対象を同じ温度で共有できるわけではないから、それに対して齟齬が生まれる。
私たち人類は古くから、自分の好き/嫌いと他人の好き/嫌いの間に存在する齟齬とどう向き合い、どこでバランスをとるかという点に悩み続けては、明確な答えが出せずにいた。
しかし、赤の他人が持つ好き嫌いとの不一致や齟齬など、総じて雑音でしかない。
「嫌いなもの」を徹底的に排除し、「好きなもの」を突き詰めた先に待つ風景が見たい。
そしてその「好きなもの」をできるだけ同じ温度で共有できる人たちを大切にしていきたい。
そう思いながら、この二年間を過ごしてきた。すると黒い海の風景がすべてだと信じて疑っていなかったこの小さな国は、さまざまな色で溢れていることに気が付いた。
コーカサスの山々の緑、雪化粧したトビリシの街の純白、夏の日差しの下で凪ぐ黒海の蒼さ、クヴェヴリの底でたゆたうワインの琥珀色、笑顔が素敵な野菜売りの日焼けした肌の赤黒さ…
あのとき見た真っ黒な光景は、いつの間にか数えきれないほどの彩りに覆われていた。
すべて自分で動いて見つけて重ね塗りしてきた色だ。誰かの好きや嫌いや利益や不利益や、そんな雑音は一切反映されていない。
だから、重ね塗りしてきた一つ一つの色に思いを馳せると、なんだか誇らしい気持ちになる。
あのとき黒い海のほとりで抱いた不吉な予感を、力づくでねじ伏せてやったような気がするから。
まだ重ね塗りは終わっていない。まだ見ぬ色はきっとたくさんあるはずだ。
いつまでここに居座っているのか見当もついていないが、いつかはこの場所を後にする日が訪れる。
その日にはきっと、ジョージアという国での思い出は、前衛的な絵画さながらの極彩色の光景に支配されているはずだ。
黒い海のほとりで見たあの黒さなんて、もう思い出そうとしても思い出せないほど、強引に。
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