こんにちは!アルメニアに5ヶ月滞在した、世界半周中ののぶよ(@nobuyo5696)です。
(世界半周についてはこちらの記事へどうぞ。)
アルメニア北部・ロリ地方に滞在して3週間。
「楽しみは最後にとっておく」がモットーののぶよが、本当に本当に訪問を楽しみにしていた場所にとうとう行ってきました。
それが、世界遺産のハフパット修道院(Haghpat Monastery / Հաղպատավանք)。
ロリ地方を東西に隔てるデベド渓谷をのぞむ修道院は、中世アルメニア王国の黄金期であった千年以上前に建設された歴史あるもの。
当時の繁栄を現在に伝えるかのような堂々とした佇まいで、眼下に広がる渓谷のパノラマも素晴らしいです。
敷地内から眺める絶景も、修道院の外観自体も素晴らしいハフパット修道院ですが、千年前からほとんど変わらない空間が広がる建物内部は感動もの。
中世以降は異民族による侵攻を次々に受け続け、地震多発地帯でもあるアルメニアという国において、オリジナルの宗教建築がここまで良好な保存状態で残されているのは奇跡的だと思います。
ハフパット修道院は、アルメニアが誇る映画監督セルゲイ・パラジャーノフ作品の「ざくろの色」のメインの撮影地になったことでも有名。
しかも、同作品の主人公である吟遊詩人サヤト・ノヴァ(Sayat Nova)が殺害された地でもあるのです。
サヤト・ノヴァに関するミステリアスな死をはじめ、ハフパット修道院の歴史や成り立ちを見ると、なにやら不可思議な出来事がいくつも起こっている点も興味をそそられます。
それはまるで、呪われた世界遺産のよう。
あのモンゴル帝国でさえ、なぜかハフパット修道院だけは破壊することがなかったというのですから…民族が違っても畏れを抱かせるものがあるのでしょうか。
実際に訪れると、この場所が持つ並々ならぬパワーが五感でひしひしと感じられ、人間を狂わせる「何か」が存在していてもおかしくないように思えてくるほどでした。
(※のぶよはオカルト系ではありません(笑) でもまじで、ハフパット修道院には「何か」があると思います。)
今回の記事は、アルメニア旅行のハイライトの一つとなるハフパット修道院の観光情報を解説するもの。
こんな記事で、どこまでこの素晴らしい修道院の魅力が伝えられるか分かりませんが、アルメニア観光のBEST3に入るハイライトであることは間違いなし。
ただ「世界遺産の修道院」の写真を撮って終わり…ではもったいない!
歴史や各建造物の成り立ちを訪問前に学んでおくのが絶対です。
呪われている?ハフパット修道院の歴史をザックリと。
ハフパット修道院を観光するなら、この場所に関する歴史の流れを絶対に頭に入れておくべき!
何も知らずに修道院を見学しても、もちろん「うわ…すごっ…」と圧倒されるでしょう。
しかし、この場所がたどった歴史を少し理解しておくことで、実際に訪れる時の感動は何倍にも膨れ上がるはず!
ハフパット修道院は、およそ千年前に黄金期を迎えたアルメニアという国の信仰・文化の中心地だった場所で、UNESCOの世界遺産に登録されているのもその重要性が認められたことが理由なのです。
ここでは、ハフパット修道院見学前に知っておきたい歴史の流れを(できるだけ)ザックリと解説しています!
千年前の建設当初からハフパット修道院を舞台に起こる、不吉でミステリアスな出来事の数々にも注目していきましょう。
①976年:ハフパット修道院のはじまりと不吉な死
976年:聖ヌシャン教会の建設開始
ハフパット修道院のはじまりは、10世紀後半(1050年前)に遡ります。
当時のアルメニアは、アニ(Ani/現在はトルコ領)を首都とした中世アルメニア王国のバグラトゥニ朝(Bagratuni)の全盛期にあり、コーカサス地域からアナトリア半島までの広い地域を領土にしていました。
当時の中世アルメニア王国は、キリスト教文化を主軸とした黄金期そのもの。
莫大な富を背景に、広い領地の至る所に聖堂や修道院が次々に建設されていきました。
もともとは首都のアニから遠く離れた「辺境の地」でしかなかった、ここデベド渓谷地域にもその波がやって来ます。
こうして、深い渓谷を見渡すハフパット村に聖ヌシャン教会(Surb Nshan)が建設されはじめたのがアシャット3世(AshatⅢ)治世下の976年のこと。
ハフパット村から直線距離で6kmほど離れたサナヒン村に最初の教会(=のちにサナヒン修道院となる)が完成してから、30年以上後のことでした。
ハフパット修道院とともにUNESCOの世界遺産に指定されているサナヒン修道院(Sanahin Monastery)。
「サナヒン」とは、古いアルメニア語で「もう一つのものより古い」という意味です。
「もう一つのもの」が指すのは、サナヒン修道院とともに世界遺産に指定されている、ここハフパット修道院です。
・ハフパット修道院内で最も古い聖ヌシャン教会:991年の完成
・サナヒン修道院内で最も古い聖母教会:940年の完成
と、サナヒン修道院の方が50年も前。
しかも、サナヒン修道院の建設を指揮した職人の実の息子が、父との対立の果てにハフパット修道院の建設に参加したと言われています。(なんというドロドロ感…)
サナヒン村とハフパット村は6kmほどしか離れておらず、お互いに肉眼で見えるほどの距離。
千年前からライバル関係のようなものがあったのかもしれませんね。
977年:国王アシャット3世の急死
聖ヌシャン教会の建設が始まって1年も経たない977年、建設を命じたアシャット3世が突然この世を去ります。
代わりに国王の座に就いたのが、アシャット3世の息子・スムバト2世(SmbatⅡ)。
スムバト2世の治世下で教会の建設も進むのかと思いきや、そう簡単にいくことはなかったのです…。
「ハフパット」とは、古いアルメニア語で「硬い壁」という意味。
その名前の由来には、地元民では知らぬ人はいないほどに有名なある伝説が関係しています。
930年頃~940年頃にサナヒン修道院の建設が始まった際、現場を指揮していた職人とその息子が言い争いの末、決別してしまいます。
数人の仲間を引き連れて、職人である父の元を離れた息子。
当時の王はこの職人の息子に、サナヒン修道院とは別の修道院を作るように命じました。
976年にハフパット村で教会の建築が始まると、6kmしか離れていないサナヒン村からもその様子は丸見え。
サナヒン修道院を建設したことを誇りに思っていた父は居ても立ってもいられず、人々が寝静まった深夜にハフパット村へと偵察にやって来ました。
建設途中の教会の壁を念入りに調べる父親。その姿はすぐに職人たちに見つかり、息子も父親の様子をこっそりと見守ります。
長い時間をかけて壁を調べつくした父親はひとこと。
「これは本物だ。硬い壁だ!」
と言い、様子を見守っていた息子と抱擁を交わして和解したのだそう。
それ以降、この場所は「ハフパット」と呼ばれるようになり、サナヒン修道院とともに聖地として多くの人々の信仰を受ける存在となりましたとさ。めでたしめでたし。
②979年~991年:アルメニア王国の分裂と聖ヌシャン教会の完成
聖ヌシャン教会の建設が始まってから完成するまでの15年ほど(976年~991年)は、中世アルメニア王国の転換期でした。
建設開始直後の977年に国王・アシャット3世が急逝したことをきっかけに、中世アルメニア王国の黄金期に一気に翳りが見え始めます。
突然国王の座に就くことになったスムバト2世(SmbatⅡ)でしたが、父親があまりに急激に広げた領土をいきなり統治するのは、難しいものだったのかもしれません。
それまでは黄金時代を謳歌していたバグラトゥニ朝内でも権力闘争が起こり、広大な領地がいくつかの小王国に分裂しはじめ、群雄割拠の時代が始まっていきます。
979年:タシル=ジョラゲット王国の成立
ハフパット修道院があるロリ地方も、バグラトゥニ朝内の権力闘争の舞台となりました。
スムバト2世が急死した父親に代わって国王に即位してから、たった2年後の979年のこと。
スムバト2世の実の弟であるキューリケ1世(KyurikeⅠ)が、実の兄が治めるバグラトゥニ朝から分裂し、ロリ地方一帯を中心にタシル=ジョラゲット王国(Kingdom of Tashir-Dzoraget)を成立させたのです ▼
991年:聖ヌシャン教会の完成
タシル=ジョラゲット王国の成立とともに、それまでのバグラトゥニ朝からキューリキッド朝へと支配権が移ったロリ地方。
混乱の時代の真っ只中であった991年に、ハフパット修道院で最初の建造物となる聖ヌシャン教会がようやく完成します。
▲ 聖ヌシャン教会の東側の外壁上部には、アルメニアでは有名なレリーフがあります。
こちらはバグラトゥニ朝の国王・スムバト2世と、分裂したキューリキッド朝の初代国王・キューリケ1世の兄弟の姿を描いたもの。
二人が協力して支えているように見えるのは、ここ聖ヌシャン教会です。
スムバトとキューリケの兄弟は、一時期は同盟を組んで外敵に対処したりしていたそう。
一度は対立し、王国の分裂にまで至ったものの、このレリーフを見る限りはどこかのタイミングで和解したしたようにも思えます。
しかし、スムバト2世の死に関しては様々な疑惑があるそうで、もしかしたら血を分けた兄弟間で骨肉の争いがあったのかも…(こういうドロドロ大好き)
建設を命じたアシャット3世の急死もそうですが、ハフパット修道院にはブラックな歴史がいろいろと渦巻いている気がして、個人的にものすごく興味をそそられます。
③11世紀~13世紀前半:ハフパット修道院の黄金時代
紆余曲折あってようやく完成した聖ヌシャン教会。
完成するまでのさまざまなゴタゴタが嘘のように、11世紀はじめから13世紀半ばの約250年間の繁栄の時代が始まります。
1025年の⑥聖グリゴール教会&⑦聖母教会の完成を筆頭に、敷地内に次々と新しい建造物が建設され、聖地としての存在感がどんどん強まっていきました。
祈りを捧げながら生活をする修道僧たちも集まるようになり、書物を保管するための④書庫(11世紀半ば)や修道僧用の⑩食堂(13世紀半ば)などが整備されたのもこの時代。
こうして13世紀半ばには、現在のハフパット修道院の姿が完成しました。
④13世紀半ば~17世紀:外敵の侵入とハフパットのミステリー
ハフパット修道院が黄金時代を極めていた、ちょうどそのころ。
13世紀半ば以降のアルメニア地域は、次から次へと外敵が侵入してくる動乱の時代へと突入します。
13世紀半ばのモンゴル帝国にはじまり、15世紀初頭のティムール朝、その後のオスマン帝国など…
アルメニア地域では、東西からの異民族の侵攻・支配を受ける時代が400年ほど続きます。
長期間&幾度にも及んだ異民族による侵攻を恐れたハフパット修道院の僧たちは、④書庫に保管してあった巻物や書物をすべて七か所の秘密の洞窟に隠すことを決断します。
(現在でも洞窟は三か所しか発見されていないのだとか)
空っぽになったハフパット修道院の書庫は食糧庫として利用されることになり、食品を詰めた甕を設置するための穴が地面に掘られました。
激動の時代をどうにか生き抜いて信仰を守り抜いた修道僧たちの生活の跡は、現在でも書庫内部で見ることができます。
ハフパット修道院のミステリーの一つが、敷地内の建物がすべて完成した13世紀半ばから400年間の異民族支配の時代にも、完全に破壊されることがなかった点。
すぐ近くのサナヒン修道院はモンゴル帝国の襲来(13世紀半ば)によって被害を受けて衰退してしまいましたが、どういうわけかハフパット修道院はスルーされます。
むしろ、モンゴル帝国襲来中~直後においても⑤ハマザスプのガヴィトや⑨鐘楼など大規模な建物が次々に建設されていて、異民族の侵攻によって逆に活気づいた感さえあるくらい…
その後のティムール朝などの異民族による侵攻の際も、なぜかハフパット修道院だけ大きな攻撃を受けることがありませんでした。
そのため、ハフパット修道院の建造物の多くはオリジナルの外観&内装がほぼ完璧に残っているのがポイント。
これは、多くの宗教建造物が中世以降にリノベーションされたアルメニアにおいてはかなり珍しいことです。
どうしてこの場所だけが誰にも破壊されずに、現在まで残されたのか…
これも、ハフパット修道院にまつわるミステリーの一つなのかもしれません。
⑤1639年:ペルシア帝国支配の下で復活
長い動乱の時代がようやく終了したのが、1639年のこと。
アルメニアは南の大国・ペルシアのサファーヴィー朝の支配下に入ることとなり、外敵の侵入に対する不安からようやく解放され、比較的平和な時代が戻ってきます。
ハフパット修道院は祈りの場としての機能を徐々に取り戻し、学問の中心地としても注目されることに。
アルメニア国内はもちろん、ペルシア帝国支配下の各地域から学者や文化人が訪れるようになります。
18世紀後半:サヤト・ノヴァの滞在と死
この時代のハフパット修道院をベースに活動した人物が、吟遊詩人のサヤト・ノヴァ(Sayat Nova)。
セルゲイ・パラジャーノフ監督の「ざくろの色」の主人公で、同作品は実在したこの人物の生涯がテーマとなっているのです。
実は、1795年にサヤト・ノヴァが殺害されたのが、ここハフパット修道院。
「ペルシア皇帝のアガ=モハメッド=ハン(Agha Mohammed Khan)によるイスラム教への改宗命令を拒否した結果でのことだった」と言われていますが、その真相は闇の中です。
ペルシア皇帝のアガ=モハメッド=ハンは、サヤト・ノヴァ殺害直後の1795年に、トビリシ(現在のジョージア)に侵攻して陥落させた人物。
「トビリシの街は一夜にして火の海と化した」と言われているほどに壮絶だったようで、王族をはじめ多くの民間人を虐殺したことで知られています。
ジョージア王家で虐殺から生き延びた数少ない人物であるダレジャン王妃が暮らした宮殿は、現在でもトビリシ中心街に残っており、人気の絶景スポットとなっています。
建設当初からのさまざまなエピソードが現在にも語り継がれるハフパット修道院は、まるで「いわくつき」の場所のようにも思えます。
聖地たるミステリアスさが負の力を集めるのか、それとも負の感情を持つ人間が自らこの場所に集まるのか…
実際に訪れて見ると、その並々ならぬ神々しさに圧倒されると同時に、この場所が持つ重々しいまでのパワーに全身の毛が逆立つような、そんな不思議な感覚に陥りました。
ハフパット修道院の見どころ
ハフパット修道院の造りは、最古の建造物である②聖ヌシャン教会を中心に、教会や礼拝堂などが肩を寄せ合って建ち並ぶ複合施設のよう。
見学に必要な時間は、最低でも1時間/できれば1時間半ほど見ておくのが◎
午後になるとエレバン発の団体ツアーの観光客がやってくるので、聖地らしい静謐な修道院の雰囲気を堪能したい場合は午前中の早い時間帯がおすすめです。
(のぶよが到着したのは9:30頃でしたが、他には人っ子ひとりいませんでした)
①ガヴィト(拝廊) ハイライト!
ハフパット修道院の建造物のうち最も見ごたえのあるものの一つが、1210年完成のガヴィト(拝廊)。
「ガヴィト」とは中世アルメニアの教会建築において独自に見られる空間で、メインの聖堂に併設されている場合がほとんど。
かつて聖堂内に立ち入ることが許されなかった人々(洗礼を受けていないetc…)でも、ガヴィトには立ち入ることができ、聖堂に向かって祈りを捧げることができたのです。
アルメニアの修道院のガヴィトはどれも素晴らしいものが多く、見ごたえで言うなら聖堂本体よりも圧巻である場合も。
ここハフパット修道院のガヴィトの内部は、一歩足を踏み入れると思わず声が漏れてしまうほどの傑作です ▼
他の修道院のガヴィトと同様に、ハフパット修道院のガヴィト内も人工の光は一切なし。
自然光がうまく入り込むように計算しつくされており、朝の柔らかな光が薄暗いガヴィトを照らす光景は、聖地への入口そのものでした。
ガヴィトの天井部分は二重のアーチで支えられた独特な造り。
これまでアルメニアのさまざまな修道院を訪れてきましたが、豪華絢爛さと意匠を凝らした造りにおいてはここがNo.1かもしれません。
ガヴィトの地面部分には、長方形の墓石がびっしりと敷き詰められているのも圧巻。
聖堂の内部に墓石を置くことは基本的に許されないアルメニア教会において、「少しでも神の近くで安らぎたい」という 人々の気持ちが表れているように思いました。
②聖ヌシャン教会 ハイライト!
ガヴィトの正面にある小さな門をくぐった先にあるのが、ハフパット修道院最古の建造物であり、敷地内の中心的な存在である聖ヌシャン教会(Surb Nshan)。
991年の建造で、立派なドーム型天井とアーチが特徴的。
建物自体は建設当時からほとんどリノベーションされていない(すごすぎ…)そうで、見学客を有無を言わさず千年前へとタイムスリップさせます。
当時建設された聖堂や教会の内部は質素であることがほとんどですが、聖ヌシャン教会に関しては例外的。
色とりどりのフレスコ画が素晴らしい保存状態で残されているためです ▼
これらのフレスコ画は991年の完成当時にはなかったもので、12世紀(900年前)になってから描かれたもの。
このフレスコ画もすべてオリジナルのものだというのですから…すごすぎます。
聖ヌシャン教会内で最も古いフレスコ画とされているのが、正面の祭壇上部のキリストと二人の使徒を描いたもの ▼
下部には聖書に登場する「受胎告知」や「誕生」、「洗礼」などのシーンが描かれており、いずれもかなり良好な状態です。
自然光に照らされた千年前から変わらない空間は、神の存在を感じさせるような凛とした空気に包まれていました。
内部の素晴らしさはもちろん、聖ヌシャン教会は外観の美しさも格別。
①ガヴィト(拝廊)や④書庫などの建物と肩を寄せ合うように建つ姿は、それぞれが別時代に作られたものだとは信じられないほどの調和を感じさせます。
聖ヌシャン教会が醸し出す「調和」は、なにものぶよの個人的な印象ではなかったよう。
ハフパット修道院が黄金時代を迎えた11世紀~13世紀にかけては、多くの修道僧が祈りを捧げるためにやって来ると同時に、修道院の敷地内で建物の増設が進みました。
修道僧が祈りに集中して神の存在を認識し続けられるように、左右対称を基軸とした完璧な「調和」を目指して増設が進められたのだそうです。
③ギャラリー
②聖ヌシャン教会と④書庫の建物に挟まれた小さな廊下のような空間が、ギャラリーと呼ばれるもの。
祈りの場としての機能の他に、学問の中心としての役割も担っていたハフパット修道院。
書庫の目の前のこの空間は、学生たちが休憩したり知識を交換しあう場所だったそうです。
▲ ギャラリーでひときわ存在感を放つのが、「救世主のハチュカル」(Amenaprkich khachkar)と呼ばれる石の十字架。
その名の通り、十字架の中央には磔にされた救世主・キリストが描かれています。
アルメニアの教会や修道院ならどこにでもあるハチュカル(石の十字架)ですが、もともとはキリストの姿を描くのは禁忌とされていたそう。
この「救世主のハチュカル」のようにキリストが描かれたスタイルのハチュカルは、アルメニア全土に数十万~数百万ほどあるうち28基しか発見されていない大変貴重なものなんだそうです。
ギャラリーの入口は北と南の二か所あり、まるでトンネルのようになっています。
南側の入口は半円形のアーチ状になっており、ハフパット修道院を取り囲む山々の美しい風景が見られます ▼
ここから外に出て⑨鐘楼へと向かっても良いのですが、ギャラリーに併設された④書庫の見学もお忘れなく!
④書庫
ハフパット修道院の書庫は10世紀半ばの建造で、敷地内では古い時代のものに分類されます。
当時はハフパット修道院の黄金時代のはじまりにあたる時代。
この場所に集まった修道僧たちの貴重な巻物や書物を保管する場所として建設されました。
書物の風化を防ぐため、書庫の内部には自然光が入らない造りになっており、とても薄暗いです。
書庫の地面に空けられた穴は、もともとの書庫にあったものではありません。
「ハフパット修道院の歴史④:異民族の侵入」の項で解説した通り、異民族の侵入・支配を恐れた修道僧が書物や巻物をすべて別の場所に移動させ、空っぽになった書庫を食糧庫として利用する際に甕を置くスペースとして掘られたものです。
もともとの書庫の屋根は木造だったと考えられていますが、1262年に六角形の石造りドーム屋根に改築され、それが現在にまで残っています。
⑤ハマザスプのガヴィト ハイライト!
ハフパット修道院の「調和」を象徴するような二等辺三角形の外観を持つ建物が、ハマザスプのガヴィト(Hamazasp’s Gavit)。
1257年の完成で、「ハマザスプ」とは当時の修道院長を務めていた人物です。
当時のアルメニアは、モンゴル帝国の襲来から十数年が経った頃で、混乱の真っただ中。
修道院長のハマザスプは、キリスト教建築の真髄を誇示するかのような巨大な建物を造らせることで、ハフパット修道院の聖地としての存在感を保とうとしたのかもしれません。
ハマザスプのガヴィトの内部は、黒を基調とした石造り。
天井のドーム部分から差し込む自然光だけが暗闇を照らし、四本の柱が織りなすアーチの曲線美を際立てます。
一般的なガヴィト(拝廊)とは異なり、ハマザスプのガヴィトは聖堂とはつながっていません。
書庫および墓地として利用されていたようで、床はびっしりと墓石に覆われています。
⑥聖グリゴール教会
ハフパット修道院の敷地への入口からすぐの場所にある小さな教会が、聖グリゴール教会。
見た目こそ地味ではありますが、実は1025年の完成と古いもの。
ハフパット修道院最古の建造物 ②聖ヌシャン教会に次いで古い建物です。
聖グリゴール教会の内部は、外観に比べるとかなり広く感じられる空間が特徴的 ▼
11世紀初頭のアルメニアの教会建築の典型的なスタイルで、いっさいの装飾がない黒い石造りの内装が、厳かな雰囲気を演出しています。
⑦聖母教会
聖グリゴール教会と同時である1025年に建設された聖母教会は、①ガヴィト入口の左側にひっそりと建っています。
規模はかなり小さいものの、立派なドーム屋根と入口の門に施された装飾が印象的。
外観に比べると、内部では天井が高く感じられる点も不思議。
四本の柱とアーチがドーム屋根を支えるスタイルは、この時代の典型的な様式です。
⑧ウカナンツ家の霊廟
修道院の敷地の北端にひっそりとあるのが、ウカナンツ家の霊廟(The sepulcher of Ukanants family)。
立方体の霊廟が三つ並んでおり、霊廟の屋根の上に置かれたハチュカル(石の十字架)が印象的です。
(真ん中の霊廟の上にあったハチュカルは行方不明なのだそう)
土台である三つの霊廟部分は8世紀初頭(1300年前)の完成で、実は②聖ヌシャン教会(991年完成)よりも古いもの。
この場所がハフパット修道院となる以前からあったもので、もともと上部にはハチュカルではなく石が置かれていたそうです。
「四角形の霊廟 + 屋根の上に石を置く」というのはキリスト教伝来以前からの葬送の伝統で、ハフパット修道院の黄金期の後期である13世紀に石がハチュカルに置き換えられたのだとか。
各霊廟の入口の装飾は、1300年前のものとは思えないほどに精巧。
当時のアルメニア地域はアラブ人の支配下にあったこともあってか、どこかエキゾチックさを感じさせる模様が印象的です。
霊廟内部は、人ひとり入るのがやっとなほどの小さな空間となっています。
⑨鐘楼 ハイライト!
修道院の敷地の最東端に建つ鐘楼(ベルタワー)は、1245年の完成。
一階部分の外壁に施された十字架と、アーチと柱がデザインされた左右対称の天窓、二回の鐘楼部分の繊細なアーチなど、当時の建築技術の結晶です。
建築自体も素晴らしい鐘楼ですが、ハフパット修道院で一番の絶景ポイントでもあります ▼
鐘楼への立ち入りはできませんが、ハフパット修道院にただよう「孤高の聖地」らしい雰囲気は、観光のハイライトとなるはず!
⑩食堂
修道院の建物から少々離れた場所にある食堂の見学もお忘れなく。
ハフパット修道院の黄金時代末期にあたる13世紀半ばの建造で、この地で暮らす修道僧たちの飲食&交流の場として機能していました。
ハフパット修道院の食堂は中央のアーチで二つのスペースに分けられており、当時の繁栄を思わせる広々とした空間が特徴的です。
二つの空間にはそれぞれドーム型の屋根が設置されており、自然光がうまく入るように計算されています。
この食堂の建物も、建設当時からいっさいリノベーションされていないオリジナル。
800年前にこの場所で祈りを捧げながら生活をしていた人々の笑い声が、壁や柱の一つ一つに染み込んでいるかのようです。
ハフパット修道院周辺の見どころ
水飲み場
ハフパット修道院の敷地から東に100mほど歩いた場所にあるのが、1258年建造の水飲み場。
天然の湧き水が出ていた場所を覆うように造られたもので、内部は広々とした空間になっています。
水飲み場の建物は分厚い石で造られており、夏の灼熱の日差しや冬場の極寒を和らげるそう。
古くからハフパット村の人々の生活用水/コミュニケーションの場として機能していたのだそうです。
「あれ?この水飲み場、見覚えあるぞ?」という人は、大正解!
パラジャーノフ監督作品の「ざくろの色」の中で使用されているのです ▼
クサナツ・アナパット教会
ハフパット修道院から水飲み場を通り過ぎておよそ500mほど。
小高い丘の中腹にぽつりと建つのが、クサナツ・アナパット教会(Kusanats Anapat Church)です。
13世紀初頭の完成だと言われており、アーチが描かれた八角形のドーム屋根が印象的ですが、この教会に足をのばすべき最大の理由はハフパット村を一望する絶景。
断崖絶壁がどこまでも連なるデベド渓谷のパノラマと、ハフパット修道院に抱かれるかのような村の素朴な雰囲気…
千年前から続く聖地を取り囲む風景は、現実とは思えないほどに開放的で静謐さが漂うものでした。
修道院からは片道徒歩15分ほど&やや上り坂となりますが、時間と体力に余裕がある人にはおすすめ。ハフパット修道院観光の総仕上げとなる絶景です!
ハフパット修道院へのアクセス
黄色:路線バス63番停留所
ハフパット修道院へのアクセス拠点となるのが、ハフパット村の北西の谷底に位置するアラヴェルディ(Alaverdi)の町。
アラヴェルディは、デベド渓谷北部エリアの中心的な町で、ほとんどの場合はここを拠点に郊外の見どころへ足をのばすことになるはずです。
アラヴェルディ~ハフパット間のアクセス方法は、以下の4通り。
タクシーチャーターやツアーでもOKですが、ゆっくり見られないのが残念。(かなり急かされるらしい)
日程に余裕がある個人旅行の場合は、③マルシュルートカで行くのがおすすめです!
①タクシー
アラヴェルディの中心街には、暇そうに客待ちしているタクシーがとにかくいっぱい。
何も言わずとも向こうから声をかけてくるので、料金交渉して利用するのもアリです。
アラヴェルディ~ハフパット修道院前のタクシー料金の相場は、片道1000AMD~1500AMD(=¥231~¥346)。
観光時に待機してもらって往復で利用する場合は、事前の交渉必須です。
せっかくタクシーをチャーターするなら、ハフパット修道院があるデベド渓谷エリアの見どころをセットでまわるのが絶対におすすめ。
・サナヒン修道院
・アフタラ修道院
・オズン修道院
・ホロマイリ修道院
・コバイル修道院
どれもそれぞれ異なる魅力があり、絶景が望めるものばかりです。
料金相場はどこを組み合わせるかによって変動しますが、【サナヒン修道院 + ハフパット修道院 + アフタラ修道院】が定番。
その場合は1日タクシーチャーターとなり、8000AMD(=¥1849)~10000AMD(=¥2311)くらいが相場だと思います(時期によって変動する可能性大)。
アラヴェルディ以外の町からタクシーをチャーターする場合
アラヴェルディ以外の町でタクシーをチャーターして、日帰りでサクッと世界遺産の二つの修道院(サナヒン/ハフパット)をまわることも可能です。
これらはいずれも、往復の移動+観光時の待機時間を含めた場合。
日程に余裕がない人は仕方ないですが、のぶよ的には絶対にアラヴェルディを拠点にまわる方が良いと思います。(見どころが本当にたくさんあるので)
②現地ツアー
「限られた日程しかとれないけど、ハフパット修道院周辺の見どころは全部制覇したい!」という人は、現地ツアーに参加するのもおすすめ。
エレバン発着のツアーがほとんどですが、お隣ジョージアの首都トビリシ発着の日帰りツアーも存在します。
③マルシュルートカ
個人でアラヴェルディ~ハフパットを移動する場合、最も便利なのがマルシュルートカ(乗り合いミニバス)です。
アラヴェルディ中心街~ハフパットを結ぶのは63番のマルシュルートカ。
平日は1時間~1時間半に1本走っていますが、土日は1日3便と大幅に減便するので注意。
運賃は300AMD(=¥71)です。
ハフパット→アラヴェルディの最終バスは、平日17:00/土日16:00とやや早めなのでご注意を。
63番マルシュルートカの終点は、ハフパット修道院の目の前なのでとても便利。
乗客を降ろしてすぐに、マルシュルートカは再びアラヴェルディに向けて出発します。
④世界遺産トレイル
体力がある旅行者におすすめしたいのが、この地域の二つの世界遺産であるハフパット修道院~サナヒン修道院間に敷かれたトレッキングコースを歩くこと。
「世界遺産トレイル」と名付けられたこのコースは、2021年に整備されたばかりの真新しいものです。
一日で世界遺産の二つの修道院を制覇できるのが最大の魅力ですが、デベド渓谷の絶景を眺めながら自然を感じられる点も素晴らしいです。
世界遺産トレイルは、総距離8.5km / 所要時間4時間ほどの道のりで、初心者~中級者レベル。
途中にある深い谷間を上り下りするため、ある程度の体力は必要となりますが、全体的にかなり歩きやすかったです。
まだオープンしたばかりのトレイルで知名度はほとんどありませんが、今後注目されること間違いなし。
コース上には、二つの修道院以外にもいくつかの見どころが点在しています。
丸一日かけてのんびりと歩くプランも良いかもしれません。とにかくおすすめ!
【アラヴェルディの宿をさがす!】
おわりに
アルメニア観光のハイライト・ハフパット修道院の観光情報を「これでもか!」とばかりに解説してきました。
日本ではほとんど知られていない場所かもしれませんが、アルメニアでは五本の指に入るほどに有名な修道院。
そのミステリアスな魅力も含めてお伝えできていたら嬉しいです。
ハフパット修道院が位置するデベド渓谷エリアには、他にも多くの見どころが点在しています。
ぜひともたっぷりと時間をかけて滞在し、余すところなく魅力を味わってほしいです!
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