ジョージアを出ることにした。
そう言うと、なんとも仰々しく聞こえるし、並々ならぬ決断があったんじゃないか、なんて思われそうだけど、実際はなんてことない。この国での滞在可能期間が切れる前に出国する、ただそれだけ。
長く滞在していた国や町や、あるいは愛着のある部屋なんかを去ることは、今までの人生でもう両手に収まらぬ数、たくさん経験してきた。
だからなのか、四年間もの長い月日を過ごした国であるとはいえ、ジョージアを去ることに対しての感慨深さだったり、感傷だったりはない。
というか、「まあ、どうせまた戻って来るだろう」という気持ちがある。
しかし同時に、「もしかしたら、もう二度とこの国に足を踏み入れることはないかもしれない」なんて、心のどこかで思っていたりもする。
人生、何がどうなるかなんて誰にもわからない。それこそ、四年前に初めてジョージアに入国したときに、まさかこんなに長いことこの国に滞在することになるなんて、想像すらしていなかったように。
それにしても、11月のトビリシは本当に居心地が良かった。
コーカサスの山々から始まった紅葉が、ようやくこの大都市にまで到達し、街は鮮やかな黄色で彩られる。
朝起きれば毎日青空が広がり、少しひんやりとしていながらも澄んだ空気がとても心地良い。
正直、トビリシの11月がここまで天候に恵まれ、街が美しく見える月だとは思っていなかった。だからだろうか。なんだかこの町を離れることが少し寂しい。
「もうあと一日だけトビリシに居ようか」なんて考えが頭をよぎるも、やめた。
人間、思い切りが大切。もうタイムリミットだ。
出発の朝も、例に漏れず清々しい秋晴れだった。
バックパックに荷物を全部ぶちこみ(事前に荷造りできるタイプではない)、宿の家族と他の宿泊客に別れを告げ、飲みきれなかったコーヒーを流しに捨て、大急ぎで宿を出る。
もう何百回も経験している、出発の儀式。なのにどうして、こういつもぎりぎりになってしまうのか自分でも不思議だ。
宿から駅までの見慣れた景色は、いつもと何一つ変わっていないのに、なんだかいつもより輝いて見える。
去り際ぎりぎりになってようやく、それまで自分が毎日のように見ていて、特に何も感じていなかった風景の美しさに改めて気づくんだから、人間ってのはなんとも効率が悪い生き物だ。そんなことを思いながら早足で歩く。
自分が今居る場所や今見ている風景や今生きている瞬間の美しさを、毎日心の底から愛でることができれば、もっと人生は充実したものになりそうなのに。
結局、バスの出発地に到着したのは、出発時刻ギリギリだった。予約などしていなかったが、まあだいたい席はあるから問題なく乗れる。
国境を越えるバスだというのにパスポートチェックも何もなく、現金を払って急き立てられるかのように乗車する。こういう大雑把さや物事のシンプルさも、なんだかジョージアっぽいなあと思う。
定刻数分前に出発したバスは、田舎道をぶっ飛ばして国境へと向かう。ジョージアでバスに乗るたびに「いったい何をそんなに急ぐことがあるんだろう」と不思議に思うのだけど、最後の最後まで期待を裏切らないスピードで進む。
国境審査は、驚くほどにスムーズだった。こんなに長いことジョージアに居座っている外国人なんて不審で仕方ないと思うのだが、まあ「去るもの追わず」だろうか。
予想以上のスムーズな出国に少しあっけなさを感じながら、人影の少ない国境審査場を振り返り眺める。
酸いも甘いも、怒りも喜びも、無気力も旅への渇望も、さまざまな感情にさせられ振り回されてきた四年間だったけど、そのどれもこれもが今の自分につながっている。そう心から思える。
次々に目に浮かびあがってはフェードアウトしていく思い出たちを振り切るように、国境審査場の建物を後にする。
さようなら、ジョージア。
国境を無事に越え、ミニバンはうねうねと蛇行した山道を爆走していく。ジョージア側の活気が嘘だったかのように交通量は少なく、集落には人影がない。
車窓からは、ごつごつと聳え立つ岩山が間近に迫って見える。その風景全てが、秋も終わりの真っ茶色。あと一週間もすれば、一面真っ白の風景へと変貌するのだろう。
ジオラマを思わせる広大な大地に筆で一本の線を描いたかのように、人の営みの香りをいっさい感じぬ荒野をゆるやかに蛇行しながらどこまでものびる道路は、ただひたすらに上り坂が続く。
地図を見ると、今走っている地点はすでに標高1900mで、間もなく標高2000mに到達するといったところだった。
ジョージアで「コーカサスの山岳リゾート」として観光客に人気の町の標高が1400mから1600mほどで、実際に訪れるとかなり山奥に来たと感じるのだが、そんなの比ではないほどの険しき高地。
観光客の姿どころか民家の一つすらない大地が、茶色以外の色彩をすべて失ったまま、ただひたすらに続いてゆく。
三年ぶりに眺める、乾いた山々のあまりの険しさと、人の進入を拒むかのような孤高さに、ただ呆然とさせられる。すると、ふとホファネス・トゥマニャンの一節が心に浮かんでくる。
Երկա՜ր դարերով գընում ենք դեպ վեր
Հայոց լեռներում,
Դըժար լեռներում։
時代を超え、我らは進み、そして呆然と眺めるのだ
我らが大地の険しき峰々を
アルメニアの高地を
ただいま、アルメニア。
三年前に誓った通り、ちゃんと帰ってきたぞ。
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