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【山男日記(終章)】結局、私たちは何者にもなれない。

山を歩きたい。どうせなら、毎日の出来事を記録に残したい。

ふと、そう思った。

人間の記憶ほど不確かで、不安定で、都合の良いものはない。

初めて体験する異文化への興奮。写真でしか見たことがなかった景色を目の前にしたときの非現実感。右も左もわからぬ町で途方に暮れる経験。言葉の通じぬ国で出会った人々との何気ない談笑。

もちろん、全部ちゃんと記憶に残っている。それがどんなに昔の旅であろうとも。

でも。すっと目を閉じて、あのキラキラと輝く記憶たちを再びたどろうと試みたところで、何かがうまくいかなかったりする。

ところどころでぼやけていたり、いったいどうやってその場所にたどり着いたのか見当もつかなかったり、どんな気持ちであの景色を眺めていたのか完全には思い出せなかったり。
まるでピースがいくつか足りない状態のジグソーパズル。

旅は、水物だ。

もちろん命あるものにとっては毎日、毎時間、毎秒が水物ではあるのだけれど。

誰もが感動するような名所だったり、絶景ポイントだったり、そうした「分かりやすいもの」は、後からでも写真を見返せば、少しは記憶を鮮明に蘇えらせる助けになるかもしれない。

でも、そこに至るまでの道のりだったり、何気ない移動中にふと感じた思いだったり、そういった旅の過程にあったものは、いつしか記憶の中からさらさらと零れ落ちていってしまう。
目的地に到着して感動に包まれている時間よりも、圧倒的に長い時間をかけているにもかかわらず。

山歩きというものは、その最たるものだと思う。

毎日「寝床」という名の目的地があり、その途中には息を呑むような絶景ポイントがあり、現実離れした光景の山村がある。どこを写真に収めても、まばゆいばかりの大自然の美しさや、先人の築き上げた美しい村の風景が、心を惹きつけてやまない。
多くの人は、目的地に到着することを最大の目標に定め、山を歩くものだ。

しかしながら、山歩きの一日の大半を占めるのは、地味でありふれた泥まみれの風景だ。

写真に収めようとも考えつかないほどにありふれた山道の風景だったり、そもそも写真を撮る余裕すらないような険しい上り坂だったり。

そんな地味でありふれた風景の中を歩いているときの気持ちだって、旅を構成するたいせつな要素だ。

時代は便利になったもので、スマホのメモ機能を用いて、紙もペンもなしにリアルタイムで文章が書ける。

たとえ電波が届かない山奥の森の中であろうが、書かれた文章は自動で下書き保存され、また好きな時に続きを書くことができる。

「山男日記」は、その繰り返しだった。

山を歩く際はだいたい一時間、長くて二時間に一回は休憩をとるようにしていたのだけれど、その隙間のような数十分の時間にメモ書きを重ねていった。

つい先ほどまでヒイヒイ言いながら登ってきた山道で考えていたこと。休憩ポイントに到着したときの開放感。大自然の風景を眺めたときの純粋な感動。再び歩きはじめるまでのちょっとした心の葛藤…

ありとあらゆる新鮮な気持ちや経験したばかりの出来事を、極力リアルタイムで書き連ね、一日の終わりにつなぎ合わせたもの。それが「山男日記」だ。

普段は、ある場所をある程度訪れて土地勘や知識が多少なりともついてきた頃に、ようやく物を書いて形にするスタイルでやっているが、この数週間はとにかく「新鮮さ」にこだわり続けた。

それが良いことなのかそうでないのかは、今はまだ分からない。

しかし、感じたての興奮や感動をその場その場で書き連ねたものを、その一日の終わりに宿のベッドの上で、しばしば寒さに凍えながらも繋ぎあわせ、撮りたての写真を加えて一つの物語にする作業は、とても楽しかった。

なにより、その日経験したばかりの山歩きを、鮮度の落ちぬうちにもう一度、なぞりながら愛でることができる。
すると、自分だけが感じられる奥行きのようなものが、旅に生まれるような気がした。

旅が長くなればなるほど、良くも悪くも、日々の出来事に慣れてくるものだ。

非日常だった風景はいつしか日常のものになり、最初はいちいち驚いていた文化の違いにも徐々に鈍感になり、ときには自分がいったいどこを目指して旅を続けているのか分からなくなることだって、ある。

だからこそ、自分の足で山を歩いてみようと決心したのだ。
いだいた、達成感や純粋な感動を、もう一度思い出したくて。

しかし結局は、ちょっと特別な旅を数週間したからといって、常識なんてそう覆されない。

心を揺さぶられるような感情だって、泡のように溶けていき、やがては無くなっていく。
あんなに毎日感動していた山の風景は、物理的にも心理的にもあっという間に遠いものとなり、気がついたときには、物で溢れ返った下界の生活に慣れきっている。

食料の残りを心配する必要もないし、天気をいちいちチェックしなくても良い。これはこれで、ものすごく快適な旅だ。

今思えばはかない白昼夢のような日々における、些細な出来事や心の機微を、こうした形で記録しておいて良かったと感じている。

あの延々と続く上り坂で流した汗や、雨が降る前のひんやりした独特の匂いや、世界に独りぼっちになってしまったかのような無音や、夕食の残りをせっせと溜めて昼食として食いつないだひもじい思いや、数日前のかぴかぴのパンの不味さや、大雨でぐちゃぐちゃに濡れた靴の気持ち悪さや。

ありとあらゆる「表には出てこない旅の思い出」を構成する一つ一つの小さな要素は、いつの日かこれを読み返すときに、この日々を追体験しているようなリアルさを、未来の自分自身に思い出させてくれる。そう信じている。

山を数週間歩いたところで、結局、私たちは何者にもなれない。

ちょっとした不便な生活だって日を追うごとに忘れていくし、キラキラした山の風景はいつしか写真の中の思い出に成り下がってしまう。

結局、下界の便利さや豊かさからは離れられないことに気づかされる。すると、山でのあの日々が、少しずつ、でも確実に遠ざかっていく。
どんな興奮も感動も満足感も幸福感も、すべては過去のものとなっていく運命だ。誰一人として、それに逆らえない。

でも。この数週間は決して無駄ではなかった。
むしろ、本当にあの山々を歩いて良かった。

何年かあと、もしかしたら何十年かあとに、ジョージアという国に滞在していたときのことをふと思い出す日が来るのだろう。

そのとき真っ先に頭に思い浮ぶのはきっと、この数週間スヴァネティの山を歩いていた日々のことだと思う。それくらいに鮮烈で、濃くて、貴重な時間だったから。

さあ。愛おしい山々の稜線に、出会った人々の笑顔に、もうすぐ雨をもたらす雲の仰々しさに、色づいた葉を揺らす風の匂いに、そっと窓を閉じようじゃないか。

いつかふたたびこの窓を開けるときも、あのコーカサスの山たちは、何食わぬ顔で悠然とそこに佇んでいるに違いない。

だから何も心配することなんてない。過ぎた日々に目を細めて懐かしむのはじじいになってからで良い。そのときのためにこそ、あの山での最高の思い出をこうして書き連ねてきたのだから。

次の窓を開こう。思いっきり強い勢いで。その先に広がる風景に、溢れんばかりの期待を込めて。

追記

「山男日記」にお付き合いいただき、ありがとうございました。

今回のジョージア・スヴァネティ地方の山歩き旅はこれにて終了となります。

また世界のどこかで「山男日記Ⅱ」がスタートできる、その日まで…!

「山男日記」バックナンバー

山男日記(序章)「スヴァネティの山に呼ばれて。」
山男日記①「スヴァネティの真髄に酔う一日。」(メスティア~チュヴァビアニ)
山男日記②「中世の村を目指して。」(チュヴァビアニ~アディシ)
山男日記③「最高の一日に、最高の絶景を。」(アディシ~イプラリ)
山男日記④「山の神に捧ぐ歌」(イプラリ~ウシュグリ)
山男日記⑤「光ではなく、影が観たくなる村。」(ウシュグリ)
山男日記⑥「死の楽園と死にゆく楽園。」(ウシュグリ~ツァナ)
山男日記⑦「ジョージアで一番閉鎖的な村の、オアシス。」(ツァナ~メレ)
山男日記⑧「良い旅のつくり方。」(メレ~パナガ)
山男日記⑨「世界一美味しい、クブダリ。」(パナガ~レンテヒ)
山男日記⑩「あの山の向こうを、確かに歩いていた。」(レンテヒ~ツァゲリ)
山男日記(終章)「結局、私たちは何者にもなれない。」

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