重い腰をようやく上げ、ふたたび旅に出ることにした。
黒海沿いの小都市・バトゥミは思っていた以上に居心地が良くて、気づけば8ヶ月もの期間滞在していた。それだけの期間を過ごした町を離れるのはやはり寂しいものがあるけれど、ここにずっと居るだけでは何も進まない。
そんなわけで「旅がしたくてたまらない」といった積極的な理由というよりも、「ここにずっと居ても仕方ないから移動する」といった消極的な理由で、2023年夏の旅は始まった。
最初の目的地は、アディゲニという村。
バトゥミの東に聳える小コーカサス山脈を越えた先にある、山の中の小さな村だ。
地図で見る限りはたいした距離ではないが、なんとミニバスで6時間ほどかかるらしい。
道路が未舗装の悪路であるため、スピードを落としてしか走れないからというのが理由だ。
アディゲニに至る道の標高は、最高で2000m以上にもなる。冬場は完全に雪で閉ざされ通行が不可能となるため、夏の時期限定のルートだ。
そのあたりも、なんだか特別な感じがして旅心がそそられる。
出発前日、バトゥミのバスステーションにミニバスの時間を確認しに行く。
すると、アディゲニ行きはすぐに座席が埋まるからチケットを購入しておいた方が良いと言われる。
チケットオフィスにはおじさんたちが溜まっており、こちらが少しジョージア語を解すると分かると面白がって色々と話しかけてくる。
おじさんたちとのやり取りを適当に流しながら購入したチケット。
なんだか、とうとう旅が始まるという実感が一気に湧いてくる。そして、もう後戻りはできない。
出発当日。昨日までの曇天が嘘のように晴れ渡った青空の下、まだ朝の静けさに包まれた街を抜けバスステーションへ向かう。
このむわっとした湿気とも、ほのかに香る潮の香りとも、もうしばらくお別れだ。そんなことを考えると、やっぱりなんだか寂しく思えてくる。
そんな気持ちを振り払うかのように、歩くスピードを少し上げる。
アディゲニ行きのミニバスは、「本当にこれで悪路を走るの…?」と思ってしまうほどにぼろぼろの古いものだった。でも、これがまた味があって良いのだ。
ほぼ満席の車内を掻き分けるようにして席につく。最後部の窓際の席。車窓からの風景がバッチリ見られるし、なかなか幸先が良いかもしれない。
定刻を少し過ぎてようやくエンジンをかけたミニバスは、まだ朝の静けさに包まれたバトゥミの街をするすると走っていく。
普段は渋滞することが多いこの道だが、今日は驚くほどに空いている。
8ヶ月過ごした町の風景を名残惜しもうとする旅行者の憂いを無理矢理振り切らせようとばかりに、ミニバスはあっという間にバトゥミの市街地を抜け、山へと至る道へ入った。
バトゥミと言うと黒海のイメージがどうしても先行するものだが、実はすぐ東側には広大な山間部が広がっていることはあまり知られていない。
小コーカサス山脈から流れ出た清流沿いに小さな村々が点在し、一面の緑の山々を背景に絵画のような風景を見せる。
アジャラ地方独特の温暖な気候に育まれた山々の植生は、どこか東南アジアの国々の風景を思わせる。
この地域の緑はジョージアの中でも最も色が濃く、最も麗しいと改めて感じる。
ミニバスは「アジャラワイン街道」と呼ばれる幹線道路沿いを、相変わらずすいすいと走っていく。
思えば1年前のちょうど今頃、このアジャラワイン街道を徒歩で旅したことを思い出す。
あの日も今日と同じように晴れていて、暑くて、緑に包まれた村々の美しさと村人たちのちょっとした優しさがすごく印象的だった。
「あ!この商店でアイス買った!」「そうそう、ここを少し奥に行くと石橋があって…」なんて、1年前の記憶を辿りながらミニバスに揺られるのは楽しい。
「ちょうど1年前はこの道をひいひい言いながら歩いていたんだなあ」なんて、ちょっと感慨深くもなる。
アチャリスツカリ、ケダ、シュアヘヴィ…何回か訪れた町が次々と現れては過ぎ去って行く。
知っているルートを旅していると、なんだか自分がアジャラ地方通のように思えてくる。
東へと進んでいくにつれ、ミニバスの窓から吹き込む空気が少しずつ変わっていくのを感じる。黒海の湿り気を帯びたものから、山らしい清涼感を帯びたものへ。
心なしか新鮮で美味しい空気に感じられるのは、車窓から見える一面の緑のせいだろうか。
バトゥミを出てちょうど2時間半。ミニバスはフロの町に到着した。
フロは、アジャラ地方山間部における中心的な町だ。
こじんまりとした中心街には食堂や商店が並び、なかなかに活気がある。
町のすぐ南側は深い谷となっており、一面の緑が広がる。谷を渡った向こう側にも小さな村がいくつかあり、まるで童話の世界さながらの風景が見られる。
フロにはすで2回訪れたことがあり、比較的長く滞在していたから、この町のことはよく知っているつもりだ。
10分ほどの休憩時間を利用して、中心街の建物や、去年滞在していたとき行きつけにしていた食堂を眺める。
1年前と何一つ変わっていない山あいの小さな町の雰囲気に、心が自然と癒されていくのを感じる。
フロまでの道のりは、比較的イージーモードだった。
一部の道路は未舗装とはいえ、九割方は舗装されているから移動も快適だ。
しかしフロから先、アジャラ地方の最奥部に位置するゴデルジ峠を越え、サムツヘ地方に入るまでの30kmほどの道のりは、想像を絶するほどの悪路だった。
道はガタガタのボッコボコ。まるでディズニーシーのインディージョーンズのアトラクションに乗っているかのように、ミニバスは縦に横にと容赦なく揺れる。
体のあちこちをぶつけながら、開け放たれた窓から放り出されそうになる恐怖と戦いながら、体が自然と飛び跳ねるくらいにひどく揺れるミニバスに乗っていると、三半規管が強い子供に生んでくれた親に感謝したくなる。
こんなの、車酔いしやすい人はまず無理なレベルだ。
悪路はとにかくひどいものだが、車窓からの景色が息を呑むほどに美しかったのはせめてもの救いだ。
緑の山の斜面に小さな家々が点在する名も知らぬ村。立派なモスクの尖塔がくっきりと見える。
アジャラ地方の山間部は、キリスト教国ジョージアにありながらもイスラム教徒住民が多数派のエリアだ。どんな小さな村にもモスクがあり、内部はカラフルに彩られているものが多い。
ミニバスの車窓からも、民家の庭先で女性がスカーフで髪を隠しながら何やら作業している光景がいくつか目に入り、「キリスト教国の中のイスラム圏」を強く感じさせる。
それにしても、こんな僻地に人の営みがあるというのも、よく考えるとすごいことだ。
いったいどうやってアクセスするのか見当もつかない、深い谷の向こうの山の斜面にへばりつくように建つ家々を見ると、「どうしてあの人たちはこんなところに住んでいるんだろう」と不思議に思えてくる。
しかも冬場は雪で道路が閉ざされてしまうから、この辺りの村々は完全なる陸の孤島となる。
この地で大自然に対峙しながら生きていくのは、並大抵の苦労では済まないことだろう。それでも、あえてこの地で生活する人々の逞しさに、敬服の念のようなものを覚える。
想像を絶する悪路を行くこと2時間。ミニバスはゴデルジ峠に到着した。
標高2025mのゴデルジ峠は、アジャラ地方の最奥部近くに位置する集落を形成している。
とはいえ、ちょっとした商店とやけに立派なホテルがあるだけで、「峠の休憩ポイント」といった感じだろうか。
ゴデルジ峠からの風景は素晴らしく、この地域伝統の木造の家々が丘陵地帯にぽつりぽつりと建つ絵画のような風景が見られる。
こんな山奥でも、伝統的な暮らしを送る人々がいるのだ。
実はゴデルジ峠に来たのは初めてではない。
去年の夏、ゴデルジ峠から少し南に行ったところにあるべシュミという村を訪問したときに、ここを通ったことを覚えている。
しかし、ゴデルジ峠から先は自分にとって未知の世界だ。
休憩時間の終わりの合図として再びエンジンをかけたミニバスに乗り込み、初めて足を踏み入れる地域に対するワクワク感に包まれる。
道は相変わらずの悪路。しかしこれまでずっと上り坂だったのが、ゴデルジ峠を境にゆるやかな下り坂になった。
伝統的な家屋が並ぶ小さな村をいくつか通り過ぎ、ミニバスはいよいよアジャラ地方とサムツヘ地方の境界に差しかかる。
「ようこそ!サムツヘ地方へ!」なんて看板でも出ていることを期待していたのだけど、そんなことはまったくなかった。
相変わらずの悪路が延々と続いているだけ。
なんとも消化不良な感じは否めないが、とにかくここでアジャラ地方は終わり。ここからは文化も歴史も異なるサムツヘ地方となる。
これだけ山深い地域だから、昔はアジャラとサムツヘの間の人の行き来など皆無だったことだろう。
今でこそたった一本の未舗装道路が二つの地域を繋いではいるが、決してメインの道路というわけではないから、いまだに人や物資の行き来は少ないのではないかと思う。
だからこそ、ここから先にはこれまで8ヶ月間滞在していたアジャラ地方とは異なる世界が待っている。なんだかとってもワクワクする。
そんな未知へのワクワクを感じると同時に、果てしない疲労も感じる。
この時点で、バトゥミを出てすでに6時間が経とうとしていた。
道は相変わらずぼっこぼこだし、サムツヘ地方に入った途端に道路沿いが深い森のようになり視界が遮られるので、車窓からの風景に面白味がない。
いったいいつになったらアディゲニに着くのだろうか…
想像していた以上の悪路に関して、その辺の誰かに愚痴りたくなるくらいには根性がない自分に可笑しくなる。
いっぽうのミニバスの他の乗客の地元民らしき人たちは、いかにも平然と座りつづけているのだから大したものだ。
「8ヶ月ぶりの旅の初日に、いきなり6時間越えの移動(しかもものすごい悪路)という選択はミスだったかもしれない…」
そう弱気になりはじめた頃、前の席に座っていたおじさんが「アディゲニ!」と前方を指差す。
そこに広がっていたのは、一面の緑に小さな家々が浮かび上がるように点在する光景だった。
思っていたよりもかなり小さな村だ。しかし、思っていたよりもかなり美しい村だ。
アディゲニのバスステーション(というか村の中心部のちょっとした広場)に到着したミニバスを降り、田舎道を歩く。
どこを見渡しても眩いほどの緑がいっぱいで、風景がキラキラ輝いて見えるのは、6時間半のミニバス移動からようやく解放された嬉しさのせいだけではないと思う。
バスステーション(らしきもの)から歩くこと15分ほど。
アディゲニで唯一のゲストハウスに到着した。
門をくぐると、ガタイの良いおじさんが出迎えてくれる。
第一印象はぶすっとした感じの人に思えたけれど、挨拶すると柔らかな笑顔で部屋へと案内してくれた。
ゲストハウスはとても清潔に保たれていて、レトロな調度品が置かれたリビングや宿泊客専用のキッチンまで備わっている。
屋外のテラスからは、草木の緑と色とりどりの花々で彩られた広大な庭が望める。
「なかなか良い宿だ。」
一人で使うには大きすぎる個室のふかふかなベッドに横たわった瞬間、心からそう感じた。
8ヶ月間もの間ホステルのドミトリーで過ごしてきたから、自分だけの空間というものがやけに新鮮に思える。それだけでなく、ものすごく居心地が良い。
「個室の良さに味を占めてしまったら、もうドミトリー生活には戻れないな…」なんて思いながら、6時間半の移動の疲れを癒そうと少しお昼寝タイム。
びっくりするほどに熟睡できて、たかが6時間半のミニバス移動がどれだけ人間の体力を削るものなのか思い知らされる。
そうして今、ジリジリと照る西日を全身に浴びながら、旅のはじまりの記念すべき一日をこうして記録している、というわけだ。
まだ旅は始まったばかりだというのに、すでに心の底から満ち足りた気持ちに包まれつつ、久々に取り戻した旅する感覚とその甘美さにどっぷりとひたりながら、今日という一日を振り返る。
ふと顔を上げると、キラキラと輝く緑色の山々の風景。なんだかとてつもなく贅沢な時間を過ごしているような気分になる。
「今回の旅も、きっとものすごく楽しいものとなる。」
そう心から思えた、旅のはじまりの一日だった。
コメント