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ラスト・デイは突然に

2021年最後のひと月は、目まぐるしいほどの激動と、計り知れない寂寥感とともに幕を開けた。

5ヶ月間滞在したアルメニアを発つことを急に決断した。
出発の前日。11月30日はアルメニア滞在ラスト・デイ。

アルメニア出国を突然決めた理由はこちら。

「ラスト・デイ」という言葉が、響きが、それを敢えて使うことに内包される意識が、昔からずっと好きだった。

間もなく後にする土地に対するほのかな寂しさに、未知なる行き先への期待が混ざっていたり、もう二度と見られないかもしれない景色に対する決別のような意思をはらんでいたり…
長く続く旅を区切るための尺度としても、必要不可欠な一日。そう思う。

アルメニア滞在のラスト・デイは、そんな旅の浪漫さえ香る甘美な響きとは裏腹に、激動の一日となった。

お土産探しやパーティーなど旅行最終日の定番のアクティビティーに奔走するラスト・デイや、これまでの思い出を一人のんびりと噛みしめるラスト・デイとはならず、翌日に控えた出国に必要な手続きや書類集めに追われ、エレバン中心街を縦横無尽に移動していた。

アルメニアの首都・エレバンは、比較的天気の良い日が多い。
夏場は灼熱、冬は極寒となる気候の厳しさは否めないが、降水量はかなり少なく、冬場でも青空の広がる日が多いのだという。

しかしアルメニア滞在ラスト・デイは、明日にはこの町を去るいち旅行者の決断をあまり歓迎していない。
…そう思ってしまうほどに、暗く寒々しい曇天だった。

必要な手続きが思っていたより少し早く済み、小一時間の余裕ができた。

予定ではバスで帰ろうと思っていたけれど、地図なんていっさい見ずに歩けるほどに見慣れた町を少し早足で、少し遠回りしながら、徒歩で帰路に就くことにした。

秋は豪華絢爛な色味をほとんど失い、冬もまだ本領発揮していない。そんな中途半端な季節のストリート。
その彩りはどこまでも淡く、しかも今日はもやがかかって遠くを見通すことができない。

神秘的な風景にも見えるし、どこか陰鬱とした雰囲気にも感じられる。
この町のことは大概知っているつもりでいたのに、こんな一面があることに少し驚いた。

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エレバンの中心街は、とてもコンパクトで歩きやすい。

都市として本格的に整備されてから百年やそこらという歴史の浅さや、ソ連時代に衛星都市として大きく発展したこともあり、どこか画一的で整然とした印象を旅行者に与える。

計画的に、大規模に開発された経緯もあってか、人や車がひっきりなしに行き交うカオティックな雰囲気の地区は、エレバンにはほとんど存在しない。

この日は天気の悪さや寒さもあいまってか、街にはいつにも増して人影が少なかった。

まるですべての人々が自宅に籠って祈りを捧げているような、どこか畏怖の念さえ感じさせるほどの静寂を、街全体が帯びていた。

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「エレバンが好きか」と尋ねられると、回答に困る。

ここ百年ほどで開発された歴史の浅い町に、さほど魅力を感じない旅行者も多いだろう。(自分もそうだ)
観光名所を点から点へとまわるだけの滞在なら、正直1泊2日でも事足りてしまうほどだ。

しかしながら、ガイドブックに載っている場所を順番にまわるだけでは、ある町の魅力を語ることなど到底できない。

今にも壊れそうなエンジン音とともにストリートを爆走するソ連ミニバスに揺られたり。
ピシッと決めた髪やファッションでお洒落カフェのテラス席でタバコをふかすスノッブなエレバンっ子を皮肉ってみたり。
その辺で摘んできた野草を路上で売る商売っ気たっぷりのおばさんをやり過ごしたり。

こうした日常の一つ一つを構成する小さな要素の集合体。
それがエレバンの良さだ。

でもその良さは、ある程度の期間この町に腰を据えていなければ見えにくいものかもしれない。

きっとその本質的な部分を肌で感じられていたからこそ、これまで「エレバンが好きか」と問われるたびに、特に深く考えずに「好きだ」と答えてきたのだと思う。

「エレバンとはどんな町か」なんて禅問答のようなものに支配されつつあった思考を振り切るかのように、中心街北西部のコンド地区へと久しぶりに足をのばした。

コンド地区の歴史は、この場所がただの「村」でしかなかった時代である17世紀(350年前)に遡る。
(エレバン的には)長い歴史をふまえ、「エレバンに唯一残る旧市街」と言われるエリアでもある。

しかしせっかくの「旧市街」は、観光地として開発されることはいっさいなく、ただ朽ちていくのを待つだけの傾いた民家が肩を寄せ合いながらお互いを慰め合うように建ち並ぶ光景が広がる。

そんな郷愁と退廃的な雰囲気に満ちた小さなエリアの一角に、5ヶ月前にアルメニアへ来た初日から2ヶ月近くの間にわたって滞在した宿がある。

建物周りの木々や草木の色が褪せている以外は、何一つ変わっていない外観。
しかし、その中はきっと大きく変化しているのだろう。

なぜなら、ここは「宿」.だからだ。

いち旅行者がどれだけこの場所を気に入ろうと、数日間や数週間、場合によっては数ヶ月間の滞在後にはその旅行者はいつか去っていく。そしてまた新しい旅行者がやって来る…

そんな繰り返しが、何百回も何千回も、まるで儀式のように行われる場所だから、外観こそ変わっていなくても、滞在している人や彼らが創り出す雰囲気は大きく変わっているはずだ。

真夏に2ヶ月ほど滞在したこの場所に足を運んだのは、3ヶ月ぶりのこと。

「宿のオーナーくらいは変わらずに居るだろうし、出国前に挨拶ぐらいしておこう」と思いながら、鍵のかかっていない入口の扉をそうっと開けた。

そして、驚いた。

冬の閑散期でゲストが6人ほどしかいないというのに、その半分は3ヶ月前と同じアルメニア人のメンバーだったからだ。

宿のアルメニア人たち

向こうも、こちらが来ることなど全く予測していなかったようで(どうせもう居ないと思っていたから事前に連絡さえしなかった)、驚きと嬉しさいっぱいで迎え入れてくれた。

出してもらったアルメニアン・コーヒー一杯でその場を後にせざるを得ないほどに限られた時間しかなかったが、3ヶ月の不在を埋めようとするかのように色々な話をした。

アルメニアという国を旅する中で見た美しい自然風景や、数々の秀逸な修道院に対する称賛や、アルメニアで一番美味しかったケバブ店のことや、親切にしてもらった人々との思い出や…

本当はもっともっとたくさん話したいことがあった。

この国を旅できてどれだけ良かったか。
5ヶ月前のあの日あの時、アルメニアに来ることを決めてどれだけ今が幸せか。
もっと見たい、知りたい、体験したい、食べたい…そういう事や物や場所が、まだどれほど多く残っていることか。

でも、時間が足りなかった。
…いや、違う。何から伝えればいいのかわからなかった。

宿のみんなでご飯をシェアすることもかなり多かった。

政治的な問題を多く抱えるアルメニア。
その首都エレバンでは、こうした「宿」を「住まい」とする人も少なくない。もちろん、この宿に住む彼らの事情もちゃんと理解している。

いつか必ずその宿を出ていくかりそめの旅行者と、いつその宿を出るかの目途すらたたない住人。

一見、決して交わることのない二本の平行線のような存在に思えなくもないが、そんなことはない。

国籍や置かれた状況や価値観こそ異なれど、ひとつ屋根の下で2ヶ月も一緒にいれば、人間とは理解し合える生き物だと思っている。
そんな大切なことに改めて気づかせてくれたのが、この小さな宿だった。

彼らがいつまでこの場所に留まっているのかは彼ら自身も知らない。
またこの町に戻ってきた日には再会することだけを約束し、宿を後にした。

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宿を出ると、昼間の靄がかった空気はすでに、夕方の薄闇に取って代わられようとしていた。

あまりに激動の一日で、朝食以来ちゃんとした食事をとっていなかったことを、今更ながら思い出す。
帰り道の途中、エレバンに滞在するたびに必ず立ち寄るBBQ屋に顔を出した。

「ホロヴァツ」と呼ばれるアルメニア風BBQ。
どんな小さなお店でも立派な炭火グリルが設置されていて、串刺しにされた肉をジュウジュウと豪快に焼く。

馴染みのホロヴァツ屋には、いつもと同じ店員さんがいた。

この町に来て間もない頃は「トッピングは何と何?」なんていちいち尋ねられていたけど、もうそんなことはない。

「スパイシーソースつゆだく&ハーブもりもり&玉ねぎノーマル&ピクルス抜き」のいつもの絶品BBQが、注文とアイコンタクトだけで出てくる。

実は、アルメニア出国を決断しかねていた昨日(11月29日)も、この店で全く同じBBQを注文して食べた。
でもその時は、なんだかいつもより味が落ちたような、美味しさが半減したような気がしていた。

人間、本当に現金なものだ。

何かに悩んでいる時は、何をしても上手くいかないような気がしてしまうものだし、ネガティブな気持ちは感覚まで支配してしまう。
逆に気持ちさえ晴れ晴れしていれば、何でもうまくいくような気がするものだし、細胞の一つ一つまで生まれ変わったかのような感覚になる。

ラスト・デイに食べたBBQは、冗談抜きで、今までで一番美味しかった。

舌先に残るジューシーな肉の食感や、ピリッと辛いソースの風味、ハーブの絶妙なフレッシュ感…
何回目かもうわからない感動を変わらずに覚えながら、この小一時間の魔法のような時間や、これまでのエレバンでの思い出を反芻しようとする。

でも、やめた。

だって、どうせまた来るからだ。
思い出フォルダに落とし込んで、過去のこととして目を細めながら懐かしむには、まだ時期尚早だ。

この町での溢れんばかりの感謝や思い出は、再訪した時に「懐かしみスイッチ」を最大限に発揮させるためにとっておけば良い。

もう夕方とは呼べないほどに、夜の蒼さに包まれつつある街。
ひんやりとした空気を鼻腔いっぱいに感じながら、少し歩くペースを落とし、家路へと続く濡れた歩道をたどった。

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