奥田民生の『さすらい』という歌が好きだ。
「さすらおう この世界中を転がり続けて歌うよ 旅路の歌を」
というフレーズで始まる、1998年に発売された彼の代表曲のひとつ。
牧歌的なメロディーラインとゆるい雰囲気の歌声が、なんとも心地良い。
この曲がヒットした当時はまだ小学校低学年だったから、この曲のタイトルや詳細な歌詞、果ては奥田民生という歌手の存在すらまったく認識してはいなかった。
しかし、これほどのヒット曲だから、テレビの歌番組か何かでひっきりなしに流れていたのだろう。
印象的なメロディーと、「さすらおう」という小学生には馴染みのない言葉は心の奥底にずっと静かに眠っていたようで、大学時代のカラオケで誰かがこの曲を歌ったとき、「あ!この歌知ってる!」と、遥か昔の記憶が帰結した。
『さすらい』の中で歌われている主人公は「風の先の終わりを見ていた」り、「雲の形を真に受けてしまった」りと、不変ではない形なきものを道標に旅をした結果、さすらっているように思える。
もしかしたら、さすらいの旅に出たことを後悔しているのかもしれない。そんな揺れる心さえも、伝わってくる。
その姿や心情が、なんだか今の自分自身と妙に重なる。
もう旅を始めて4年以上にもなり、その半分以上は同じ国にだらだらと居座り続けているわけで、「お前が今していることは本当に旅なのか」と問われたら、「はい」と即答できる自信はない。
昔の友達は皆、人生のステップを着実に上り続けているし、さすらうことと対極にあるような人生がときに眩しく見えたりもする。
ふとした瞬間に「今ここで何をしているのだろう」とか「このまま生きていて大丈夫なのだろうか」なんて、手持ち無沙汰で不安な気持ちに駆られることだって、ある。
1ヶ月後、どこで何をしているのかさえ見当がつかない。
しかし裏を返せば、1ヶ月後どこで何をしていようが、全て自由だということだ。全て自分の意思のままに動けるということだ。
そんな生き方が、やっぱり嫌いではないのかもしれない。
あてもなく、誰かの目を気にすることもなく、誰かの案内に左右されることもなく、他人からの評価を気にする必要もない。
ただ思いのままにさすらうこと。それこそが旅の原点だと思っているし、そのさすらいの軌跡にこそ自分だけが知る美しさがあるのだ。
誰かの軌跡と自分の軌跡を比較するなど、無意味だ。
さすらい続けた先に見える風景は、少なくとも自分にとっては極上のものに違いないのだから。
『さすらい』の曲の中で描かれる主人公も、道標なき旅路に迷っては足掻いた挙句、こうして達観した気持ちになったのかもしれない。
だからなのか、この曲は強いメッセージ性をもった一文で、感嘆符とともに締められる。
『さすらいもしないで このまま死なねえぞ!』と。
普段は旅行情報や海外情報を主に発信している当ブログですが、これまでの旅を通して感じたことをフォトエッセイ形式でお届けする新企画が「世界半周エッセイ」。
各国で体験した出来事や、出会った人たちとの思い出がテーマとなっています。
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