滝に打たれているかのような、轟々とした水音で目を覚ます。まだ外は薄暗い。
携帯は枕元になく(コンセントが部屋の隅にしかない)正確な時間は分からないが、たぶん朝の五時頃だろうか。
昨日に引き続き、今日も雨予報だったはずだ。また雨の中を、べちょべちょに濡れた靴の気持ち悪さに耐えながら、延々と歩かなければならない予感にすでにうんざりしながら、温かい布団に再びくるまる。
数時間後。目が覚めると、先ほどまでの大雨は止んでいた。
気持ちの良い朝の風景ではないが、風景を水墨画のように見せる曇天。
絹のように滑らかな雲が、手の届きそうな場所まで下りてきている。
なんとも美しい。そして、予報に反して雨は一滴も降っていない。
宿(というか、普通の民家)の一階に降りると、まだ朝の七時過ぎだというのに、すでに薪ストーブの火が轟々と燃え盛り、小さな居間の空気をふんわりと温めていた。
その存在を完全に忘れ、外に出しっぱなしだったびしょびしょの靴が薪ストーブの傍にちょこんと並んでいる。
どうやら誰かがここに置き、乾かしてくれていたらしい。
ちょっとした気遣いに、部屋の空気よりももっと温かい気持ちになった。
今日歩くのは、クヴェモ・スヴァネティ地方で最大の町であるレンテヒまでの20kmほどの道のりだ。
相変わらず舗装道路を延々と歩くだけの退屈な道のりに違いないし、雨が降り出しそうな曇り空の下で見る風景は、キラキラと輝いたものではないだろう。
それでも、久々に吸いこむ町の空気への期待に胸が高鳴る。
レンテヒがどれほどの規模の町か見当もつかないけれど、ATMも飲食店もスーパーマーケットもあるらしい。もちろん、ゲストハウスの選択肢も少なくない。
ここまで二週間ほど味わってきた山や村の空気とは、きっと違う味がするはずだ。
居間に鎮座する薪ストーブでは、なにやら小麦粉生地のようなものが焼かれていた。
ハチャプリ(チーズ入りのパン)かと思ったが、違うらしい。
スヴァネティ地方の郷土料理の一つである「カルトプラアルだ。」
円形にした生地の中に、マッシュドポテトと地産のチーズを練り合わせたものをたっぷりと詰め込み、焼き上げる。
じゃがいも、チーズ、小麦粉と、手に入る食材が限られているこの地域で、昔から人々のエネルギー源となってきた由緒正しき料理だそうだ。
手作り感でいっぱいのカルトプラアルは、ねっとりと濃厚で、もっりとした舌ざわりで、みるみるうちに胃を満たしてくれる。
普通のハチャプリも良いが、じゃがいもが入るだけでどうしてこんなに美味しくなるのだろう。
程良い塩気が効いた焼きたてのソウルフードを平らげ、いよいよ出発する時が来た。
「レンテヒまで車で送ろうか?」と三十分おきに尋ねてくるおじさんの誘惑に打ち勝ち、荷物をまとめる。
友人にはよく言われるが、元来頑固な人間だ。
ここまで来たんだから、やっぱり自分の足で歩ききりたい。
今にも雨が降り出しそうな空を恨めしげに見やり、バックパックを背負い出発する。
昨日と変わらぬ曇天がどこまでも続く。
もしかしたら、昨日よりもさらに雲が厚いような気もする。
昨日までの道のりもそうだったが、相変わらず交通量は少ない。
ヒッチハイクを目的としているわけではないから、車が通ろうが通らなかろうが関係ないのだが、この地域の経済や人の流れは大丈夫なのかと心配になる。それほどに、寂しい雰囲気の道だ。
寂しげな雰囲気に追い打ちをかけるかのように、空の色もだんだんと薄暗くなっていく。
時間とともに、太陽は少しずつ高い位置へと昇っているはずなのに。
自然の摂理に反比例するかのように、薄灰色の不吉な雲がその存在感を誇示しながら広がっていき、光を遮断する。
5kmほど歩いた場所で、ようやく集落が現れた。
人の姿は片手に収まるほどしか見なかったが、学校らしき建物からは子供の声も聞こえる。
人間の生活の香りに満ちた集落の中心には、小さな商店があった。
どうにもレトロで、きっとソ連時代からずっと変わらずに営業しているような、年季が入った佇まい。
バックパックを下ろして休憩していると、周辺に住んでいるらしき村人たちが続々と集まってくる。
こんなど田舎の、旅行者などまずやって来ないであろう小さな村の商店の前で、大きなバックパックを背もたれに休憩している外国人は、間違いなく村人の興味の対象となる。
案の定、色々と話しかけられる。
なんだか人々がすごく気さくな感じで、こちらに興味津々という印象を受ける。
少なくとも、訝しむような様子はいっさい感じられない。
村人の一人が、商店のすぐ横にある木を指差し、なにやら「食べてみろ」と言っている。
近づいてみると、宝石のようにキラキラとした青色の葡萄が、たわわな実を風に揺らしていた。
ここテカリという村周辺は、ワイン造りに適した葡萄の栽培が可能な地域の中でも、最も標高が高い場所に位置する。村人は、そう誇らしげに語る。
ここより標高が高い場所。つまり、自分がこれまでずっと歩いて来た地域では、寒さのせいで葡萄の栽培が難しい。
たとえ実がなったとしても、ワイン造りにはとても使えないようなものなのだそうだ。
ジョージアの象徴とも言えるワイン造り文化であるが、確かにここまで滞在したスヴァネティ地方の村では事情が異なった。
自家製ではなく購入したワインが飲まれていたり、ぶどうだけを他の地域から購入して自宅で醸造するという家庭ばかりだった。
つまり、ここテカリ村は、この国のワイン文化の境界線とも言える。
ここより標高が高いスヴァネティ地域では、チャチャと呼ばれる蒸留酒が好まれるようだし(どこの宿でも、第一声は「チャチャ飲むか?」だった)、ここよりもう少し標高が低い地域に赴けば、そこはジョージアワインの名産地であるラチャ地方となる。
小さな国の中にも、人間の手に負えない自然の力によって引かれた、食文化の境界線が存在する。
この境界線は、車でさっと移動しただけではきっと気づくことができないだろう。
見えない境界線を自分の五感で感知できたのも、長い道のりをはるばる歩いてきたからこそであろう。
商店の前にたまっていた村人たちに別れを告げ、再び歩きはじめる。
先ほどまで、どうにか雨を降らせずに持ちこたえてくれていた曇り空も、もう限界を迎えつつあるようだ。
一滴、二滴…と、水滴がまばらに落ちてくる。それはいつしか数えられないほどの雨粒となり、みるみるうちに地面を濡らしていく。
これほどに雨足が強くなると、合羽だけでは到底心許ない。
ちょうど、湧き水を汲めるポイントに差し掛かっていた。
頭上では、岩が屋根のように突き出し、雨よけとなっている。
少し雨宿りをしていく方が良いだろう。
十分、二十分と時間が経っていく。
雨足は弱まる気配すらなく、かえって強まっているような気もする。
もうすでに靴は濡れてしまっていることだし、ここまで来たらもう歩いてしまった方が早いのかもしれない。
目的地のレンテヒまでは、あと6kmほどの道のり。
長く見積もっても、一時間半あれば到着できるはずだ。
合羽を再び羽織り、濡らしたくないものを防水ポケットの奥底に詰め込む。土砂降りに近い雨の中を、意を決し歩き出した。
先ほどまで素晴らしい状態だと思っていた舗装道路。今は、山から流れ出た土の茶色に染まった、小川のようになっている。
もう、この雨は止まないだろう。
一刻も早く、レンテヒに着きたい。そして、水を含んでどっしりと重みを増したこの靴を脱ぎ捨てたい。
靴が濡れることなどもうお構いなしに、できる限り早足で歩いた。
そのおかげだろうか。予想より早く、レンテヒの町が遠くに見えて来た。
正直、絶望的な気分になった。
クヴェモ・スヴァネティ地方で最も大きな町だと聞いていたから、その遠景が見えただけでも「ああ、町に到着したのだ」と感動するほどには栄えているものだと、勝手に思っていた。
しかし、合羽のフードで限られた視界の先にあったのは、これまで通過してきた集落とさほど変わらぬ、山あいの村そのものであったからだ。
1kmほど歩くと、ようやくレンテヒの中心部に入った。
話に聞いていた通り、銀行の支店とATMはある。
まずは底を尽きそうだった現金を下ろさなければ。
できればバックパックを宿に置いた後にまわしたかったのだが、財布の中には今日の宿代分すらも心許ない額しか、もう残っていなかった。
寒さのせいで凍える指先が濡れているためか、なかなか反応しないATMのタッチパネル。
悪態を尽きながら、なんとか現金を手に入れる。これでひとまず安心だ。
レンテヒの町を東西に走るメインストリートは、なかなか小綺麗に整備されている印象だった。
この通り沿いにいくつかゲストハウスがあるらしいのだが、一軒目はもはや空き家となっており、二軒目には人は居たものの「去年廃業した」との答えだ。
いったいどうなっているのだ、この町は。
ゲストハウスだけではない。
この町のメインストリートの両側には、なんとも陰気臭い雰囲気が漂っている。
看板だけを残して内部は荒れ果てたかつての食堂らしきもの。ソ連時代と何一つ変わらない風情の掘っ立て小屋で、限られた物資を売る商店。大雨だからなのか人の姿もほとんどなく、野犬が屋根の下でたむろしている。
そんな世紀末な風景の中を、宿を探しながら歩く。
レンテヒに入って十五分ほどで、すでに町の反対側の端に到着してしまった。
そこには、クブダリを売る食堂が営業していた。
表の看板には”HOSTEL”と出ており、期待に胸が膨らんだのも束の間。ここでも、宿はもう一年前に閉めてしまったのだという。
残念な気持ちになったが、クブダリ屋としての営業は続けているそうだ。
愛想の良い老婆が、「できるまで十五分かかるから、店内で待っていろ」と勧めてくる。
雨宿りの意味も込め、少し休憩していこう。それに、朝食以降何も口にしていない。
あまりの大雨の中を歩いて来たからか、空腹さえも忘れていたことに今更気が付いた。
気が付いた瞬間から、腹が減って仕方がないように感じるのだから、不思議だ。
実はこのクブダリ屋の話は、数回耳にしていた。
クヴェモ・スヴァネティ地方では知らぬ者はいないほどに有名な店なのだそうだ。
「レンテヒに行くなら橋のそばのクブダリ屋に絶対に行け!あそこのクブダリは世界で一番旨いから!」とは、宿泊したゲストハウスのオーナーだったり、立ち話をした村人だったりが口を揃えていたことだ。
待つこときっかり十五分。噂のクブダリが運ばれてきた。
オーブンから出されて間もない様子の、香ばしさをともなった湯気。
見た目からしてすでに、カリッとした生地の食感が口の中で再現できる。
半分に切られたクブダリを持ち上げてみると、ずっしりと重たい。
その中には、溢れんばかりの肉汁を蓄えた牛肉が、ゴロゴロと挟まっていた。
一口食べただけで、卒倒しそうになる。
なんだこの食べ物は…。
外側のサクサクと内側のもっちりが絶妙なバランスの生地。舌先でとろけんばかりの柔らかな牛肉。スパイスの複雑な旨味が溶け込んだ肉汁。
すべてにおいて完璧だった。
「世界一のクブダリ」と言われるのは、大袈裟でもなんでもない。
こんなに美味しいものがこの世界にあったのか…と涙を流さんばかりに、強い感動の波が押し寄せ、それは幸せの波へと変化していく。
「頑張って歩いてレンテヒまで来て良かった。」心からそう思った。
無意識のうちにがっついていたようで、気がついたときにはすでに完食していたクブダリ。
皿を見て、はっと現実に返る。
今夜の宿を探さなければ。
ここまでの山歩きでの宿探しは、すべて地元の人の口コミによって成り立っていた。
そもそもインターネット上に宿情報などないエリアだし、良い宿の人が勧めてくれる宿は十中八九良い宿であることが多い。そんな昔ながらのアナログな旅ができていることに、少し酔ってさえいたのかもしれない。
しかし、レンテヒを甘く見ていた。
大きな町だと思っていたから、わざわざ事前に調べずとも簡単に宿が見つかると考えていたのだ。
クブダリ屋の窓から見えるのは、薄暗くなりつつある雨空と、「大きな町」からは程遠い村の風景だけだ。
だめ元で宿泊予約サイトを開くと、ここから400mほどの場所に宿があると表示されている。
とはいえ、すでに数軒の宿を訪問して営業していなかったわけだ。この宿が本当に営業しているかなんて分からない。
疑心暗鬼に陥りそうな気持ちを振り払いつつ、記載されていた電話番号にかけてみる。すると、愛想の良い女性が応対する。
今からでも部屋の用意ができると言う。料金も安い。
救われたような気持ちで「あと10分後に到着します」と告げ、バックパックを背負いなおす。
行き場のない雨水が流れる渓流と化した坂を登りきった先には、小さな民家が建っていた。その軒先で、女性が待ってくれていた。
笑顔で挨拶してくれた声を聞くに、先ほどの電話の人に違いない。
女性は三十代半ばといったところで、すこぶる愛想が良い。
夫だという男性とその母親、一歳半になるという娘と四人でこの家に住んでおり、二階部分を宿泊客用に開放しているのだという。
雨の中延々と歩いて来たずぶ濡れの旅行者に必要なものを即座に理解してくれたようで、部屋を案内したあとはシャワー用のタオルをくれ、お湯の使い方を説明してくれた。その心遣いがなんともありがたい。
冷たい雨に打たれ続けた後のシャワーは、まるで天国のようだった。
永遠にこの温かなお湯を浴び続けていたいと思うくらいに。
シャワーを出ると、先ほどのクブダリによる満腹感と芯から温まりリラックスした気持ちが波のように押し寄せてくる。
その波に抗うことすら厭わしくなり、目を瞑る。
気づけば、この長く寒い一日を振り返ることもないままに、泥のように眠っていた。
・山男日記(序章)「スヴァネティの山に呼ばれて。」
・山男日記①「スヴァネティの真髄に酔う一日。」(メスティア~チュヴァビアニ)
・山男日記②「中世の村を目指して。」(チュヴァビアニ~アディシ)
・山男日記③「最高の一日に、最高の絶景を。」(アディシ~イプラリ)
・山男日記④「山の神に捧ぐ歌」(イプラリ~ウシュグリ)
・山男日記⑤「光ではなく、影が観たくなる村。」(ウシュグリ)
・山男日記⑥「死の楽園と死にゆく楽園。」(ウシュグリ~ツァナ)
・山男日記⑦「ジョージアで一番閉鎖的な村の、オアシス。」(ツァナ~メレ)
・山男日記⑧「良い旅のつくり方。」(メレ~パナガ)
・山男日記⑨「世界一美味しい、クブダリ。」(パナガ~レンテヒ)
・山男日記⑩「あの山の向こうを、確かに歩いていた。」(レンテヒ~ツァゲリ)
・山男日記(終章)「結局、私たちは何者にもなれない。」
このエリアを実際に旅する人向け。お役立ち情報
この区間のトレッキング情報
パナガ~レンテヒ間コース詳細
・所要時間:片道5時間
・距離:片道22km
・高低差:▼372m
・難易度:★☆☆☆☆
この区間を歩く際の注意点
現金は十分に用意しておく
この区間のみならず、ゼモ・スヴァネティ地方(メスティアやウシュグリがあるエリア)~クヴェモ・スヴァネティ地方に共通する注意点なのですが、ATMの数にものすごく限りがある点に要注意。
それぞれの地方で最寄りのATMがある町は以下の通り。
・ゼモ・スヴァネティ地方:メスティア(TBC Bank / Bank of Georgia / Liberty Bank / Credo Bank etc…)
・クヴェモ・スヴァネティ地方:レンテヒ(Liberty bank)
この二つの町以外には、銀行はおろかATMは一台もありません。
また、クレジットカードの通用度はほぼ絶望的なので、現金がなければ詰みます。
スヴァネティ地方を観光する場合は、必要な現金をあらかじめ計算し、余裕を持って下ろしておくのが絶対です。
徒歩以外のアクセス情報
記事内では、実際に徒歩で歩いたようすをレポートしていますが、この区間は他の移動手段を利用することも可能です。
クタイシ~レンテヒ
レンテヒへの公共交通手段でのアクセスは、クタイシ発着に限られます。
クタイシの中央バスステーションから1日1本(14:30頃)、レンテヒ経由メレ(Mele)行きのミニバスが出ています。
レンテヒ→クタイシ方面のミニバスはレンテヒが始発ではなく、さらに奥にあるメレ村が始発のもの。
毎日朝7:00~8:00頃にメレを出発し、レンテヒに到着&出発するのは9:00とのことです。
レンテヒにはバスステーションは存在せず、ミニバスは町を東西に走るメインストリートを走るだけ。
通り沿いのどこからでも乗車/下車が可能です。
レンテヒの宿情報
【Lentekhi Mountain Inn】
・料金:朝食付き40GEL
・部屋タイプ:ツインルーム
【この宿を料金確認・予約する!】
・山男日記(序章)「スヴァネティの山に呼ばれて。」
・山男日記①「スヴァネティの真髄に酔う一日。」(メスティア~チュヴァビアニ)
・山男日記②「中世の村を目指して。」(チュヴァビアニ~アディシ)
・山男日記③「最高の一日に、最高の絶景を。」(アディシ~イプラリ)
・山男日記④「山の神に捧ぐ歌」(イプラリ~ウシュグリ)
・山男日記⑤「光ではなく、影が観たくなる村。」(ウシュグリ)
・山男日記⑥「死の楽園と死にゆく楽園。」(ウシュグリ~ツァナ)
・山男日記⑦「ジョージアで一番閉鎖的な村の、オアシス。」(ツァナ~メレ)
・山男日記⑧「良い旅のつくり方。」(メレ~パナガ)
・山男日記⑨「世界一美味しい、クブダリ。」(パナガ~レンテヒ)
・山男日記⑩「あの山の向こうを、確かに歩いていた。」(レンテヒ~ツァゲリ)
・山男日記(終章)「結局、私たちは何者にもなれない。」
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