じめっとした冷たい風が頬に当たる。反射的に、ぶるっと身を震わす。
顔を上げると、緑色とも黄色ともつかない色の大地に、白く薄い雲がいくつか浮かんでいる。その下には、黒い石塔を備えたこれまた黒い石造りの家々がずらり。
まるで映画の中の光景を眺めているようだ。白黒とまではいかないけど、色褪せた色彩のシーンが延々と続く、古い映画の。
ジャンルはたぶん、ミステリー。もしくはサスペンス。
何かよからぬことが起こる前ぶれのような、仄暗さと不気味さを帯びた静寂。それが今、視界の先に広がっている。吸い込まれそうになる。
コーカサスの山々と聞くと、色彩豊かなイメージを持つ人が多いだろう。
べルベットのように滑らかな緑。透き通るような青空。峰々の純白の頂。高山植物の赤や青や黄色…
確かに、夏のコーカサスの山々はあらゆる美しい色を見せてくれる。
しかし実は、一年の半分以上の期間は、暗い色たちが峻険な山々を支配する。
落ち葉が雨に濡れたような焦茶色や、植物の命が尽きたことを伝える灰汁色、黒い絵の具を薄めたような鈍色…
色彩だけではない。コーカサスの山には、どこか「陰」の要素が漂っているように感じられてならない。
数日前からウシュグリ村に滞在している。
標高2200m以上の山奥にぽつねんと在る、小さな村。
千年以上前の石造りの民家や石塔がずらりと建ち並ぶ光景を見ると、観光地としての人気が高いことにも頷ける。
「コーカサスの秘境」なんて呼ばれることもあるらしいが、正直、秘境かどうかは疑問だ。マーケティングの匂いを感じないこともない。
道路が通っているので車で来られるし、ガスはないものの、電気も水道も下水もちゃんと整備されている。インターネットだってある。(だからこうして日記を書けている)
もっとリモートで、不便で、下界から隔絶された村なんて、東西千キロ以上に渡って連なるコーカサス山脈の深部にたくさんあるのではないだろうか。
ただ、この場所を「秘境」と呼びたくなる気持ちは、すごくわかる。
今まさに目にしている光景は、あまりにも美しい。それこそ、非現実的なまでに。
晴れた日のウシュグリはもちろん格別だが、どんよりとした曇りの日の雰囲気も好きだ。
千年以上前から変わらない風景の、伝統が渦巻くコーカサスの山村。その絶妙な閉塞感が、この場所をより「秘境」らしくしているように思えるからだ。
どんよりとした曇り空の下、淡く暗い色に包まれたウシュグリ村を散策することにした。
隅から隅まで。ウシュグリ村にはでっぷりとした四角錐の石塔が建ち並び、恐ろしい名前で呼ばれる。
「血の復讐の塔」。
普通、見張り塔というものは、外敵の侵入から村を守るために築かれるものだ。
だから、村を一望する丘に建てられたり、谷間を俯瞰する高台に戦略的に建てられるのが理にかなっている。敵の襲来をいち早く察知できるからだ。
いっぽう、ウシュグリの夥しい数の石塔は、高台ではなく平地に、それも各々の民家に併設される形で築かれている。つまり、(古い)民家の数だけ石塔があるのだ。
だから、そこら中の家からにょきにょきと石塔が生えているかのような、不可思議で非現実的な光景が見られる。
深い山々に囲まれ、外界から隔絶された山岳地域ではどこも、独自の風習やしきたりが根付いているものだ。
日本の山村にだって、それが言える。
都会人は理解しがたい言い伝えや習慣が現在にもあったり、呪いや儀式めいた風習がつい昭和の時代まで残っていた、なんてことも珍しくないと読んだことがある。
ここウシュグリをはじめとするスヴァネティ地方には、「血の復讐」という因習が存在していた。
コーカサスの深い山々に隔てられ、長らく中央政府の統治が及んでいなかったこの地。
人々の生活を支配していたのは、法律や道徳ではない。村の掟だった。
都会出身者にはいまいちピンと来ないものなのかもしれないが、世界中どこでも村の人間関係というものは良くも悪くも、濃い。
地方移住なんかを夢見る都会の人間は「田舎は人が優しくて、助け合いの精神が根付いていて…」なんて思うのかもしれない。
それは正しいが、村という独自の共同体における一面でしかない。
裏を返せば、人と人との上手な付き合いなしでは、村での生活は成り立たないということだ。
そして、狭い共同体の中で他人同士がうまくやっていくには、共通のルールが絶対的に必要となる。
ここ、スヴァネティ地方にも村ごとに掟や決まり事のようなものが当然あり、人々はそれを守りながら生活することを強いられてきた。
それもこれも、共同体として団結し、厳しい自然環境を生き抜くためだ。
しかし、掟があれば、それを破る者が必ず現れる。
そうした掟破りに対して行われたのが「血の復讐」。
文字通り、掟を破った者や他の村人を侮辱した者を、その一族もろとも村ぐるみで血祭りにあげる。なんともおどろおどろしい因習だ。
血の復讐の標的とされる側も、一族抹殺を指をくわえて待っているわけにもいかない。
彼らは予め自宅の横に巨大な石塔を築き、その中に籠城できるようにした。
自分たち家族の身を守り、他の村人を監視するために。そしてあわよくば、返り討ちにするために。
現在でこそ、この悍ましい因習は廃れ、村には石造りの塔だけが残った。
遠くから眺めると、なんとも伝統的で統一感があり、美しく見える石塔たち。しかし近づいてみると、その印象は一変する。
禍々しいまでに圧倒的な存在感に、畏怖のような感情を抱く。かつての血生臭い歴史が、まるで塔を成す石の一つ一つにこびりついているかのように。
古来から、土地には「気」のようなものが存在すると言われる。
日本でも、かつて沼だった場所や病院の跡地に家を建てることは忌まれるし、自殺の名所とされてしまう場所にはマイナスの気が集まるとも聞く。
スピリチュアルにはとんと疎いけれども、コーカサス山脈の奥地のこの小さな村にも、どことなく「陰」の気が漂っている。
滞在も数日になると、それがだんだんと肌で感じられるようになる。
どんよりとした曇り空のウシュグリ村の散策を終え、宿でのんびりと食事を済ませる。
再び外に出てみると、厚い雲の隙間から柔らかな日差しが降り注いでいた。
山の天気とは、本当にわからないものだ。
人工衛星や気象予報技術がこれだけ発展した現代であろうが、気分屋の山の神の采配の前にはまったく歯が立たない。
太陽の光をいっぱいに受けたウシュグリ村は、やはり美しい。
先ほどまでの陰鬱な雰囲気は影をひそめ、観光客が「この瞬間を待っていた!」とばかりに写真撮影に励む。
ある場所の光の部分を観ようとすることが「観光」なのであれば、その光が作り出す影の部分を観ようとすることはなんと呼ぶのだろうか。
一見、真っ暗闇にしか見えない影の中にだってちゃんと濃淡があり、光とともにその場所を構成している重要な存在であるというのに。
午後の終わりの儚げな光に照らされたウシュグリ村を彩る紅葉は、息を呑むほどに美しかった。
千年以上前から変わらぬ石造りの村の美しさを、最大限に引き立てようとするかのように、黄色い葉を燦々と輝かせる。
しかし、光に照らされた美しい風景で人間を惑わすと同時に、木々たちは暗に示唆しているに違いない。
もうすぐ、長く暗い冬がお前たちの村に影をおとすのだ。と。
・山男日記(序章)「スヴァネティの山に呼ばれて。」
・山男日記①「スヴァネティの真髄に酔う一日。」(メスティア~チュヴァビアニ)
・山男日記②「中世の村を目指して。」(チュヴァビアニ~アディシ)
・山男日記③「最高の一日に、最高の絶景を。」(アディシ~イプラリ)
・山男日記④「山の神に捧ぐ歌」(イプラリ~ウシュグリ)
・山男日記⑤「光ではなく、影が観たくなる村。」(ウシュグリ)
・山男日記⑥「死の楽園と死にゆく楽園。」(ウシュグリ~ツァナ)
・山男日記⑦「ジョージアで一番閉鎖的な村の、オアシス。」(ツァナ~メレ)
・山男日記⑧「良い旅のつくり方。」(メレ~パナガ)
・山男日記⑨「世界一美味しい、クブダリ。」(パナガ~レンテヒ)
・山男日記⑩「あの山の向こうを、確かに歩いていた。」(レンテヒ~ツァゲリ)
・山男日記(終章)「結局、私たちは何者にもなれない。」
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