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旅の卒業

「旅を卒業した」と飄々と言ってのける人に出会った。

太陽の光にさらされ続けた肌にパラパラとばらまかれたようなそばかす。足りない材料から美味しいものを苦心して作り出すスキル。知らないことを徹底的に調べて自分の知識に落とし込む貪欲さ。

その人は、風貌も態度も生き様もまさに「旅をしてきた人」そのものだった。

そうか、旅にも卒業するときが来るのか。

売れないアイドルが「卒業」という未来への余韻を残す言葉をあえてかざし、輝かしいステージからフェードアウトしていく、あれか。
それとも、「卒業してもまた会おうね!」と涙で顔をくしゃくしゃにしながら、高校の数年間を過ごした仲間たちの輪から巣立っていく、あれか。

いずれにしても、「卒業」という言葉は「もうその場所にはもどらない」というやんわりとした、そして確固たるニュアンスをはらんでいる。

「じゃあもう、旅はしないんですか?」と、尋ねる。

「いや、これからも旅行に行ったりはもちろんするけどね、昔のような『旅』はもうできないなあって、思っちゃったわけ。」と彼は云う。市場で買ったという謎の植物を煮出して生姜をキュッと絞った自家製ジンジャー・ティーを熱そうにすすりながら。

そう言われてみれば、そうだな。
自分もいったいいつまで「旅」を続けるつもりなのだろうか。

正直そんなことは考えたことがなかったし、そもそも今、自分が旅路の途中に居るのかどうかすら自信がない。
夕闇がたちこめる帰り道、「旅の卒業」という言葉が頭から離れなかった。

これまで当たり前で疑問に感じる余地すらなかった「自由に旅をする」という概念から世界が大きく遠ざかって、もう二年という月日が経とうとしている。

二年間あれば、人間は大きく変わるものだ。

ただの細胞の塊だったものが生を受け、食事することを覚え、果てには自分の足で立ち上がり言葉を発するようになるほどの、それくらいに長い期間。

これまで人生の情熱を捧げて来たものに対する関心がまるでなくなってしまうのも不思議ではない。
逆に、これまでの人生と無縁だったことに興味を持つようになるのも不思議ではない。

周りを見渡してみれば、この二年間で大きく人生が変わった人たちがいる。それも、かなりの数が。

その変化が、果たして良いものだったのか悪いものだったのかは、きっと死の淵に自分の歩いてきた道を振り返ってなぞろうとする瞬間までわからないのだろう。

一度卒業したアイドルは、もう二度と華やかな舞台に戻ることはない。
あんなに教室で泣きじゃくっていた高校生たちも、数ヶ月もすれば青春の思い出を心の底にしまって、新しい生活に必死にしがみつこうとする。

旅に「卒業」というものがあるのだとすれば、同じことなのではないか。

あの頃。心を揺さぶるほどの感動を覚えた風景や、戸惑いながらも手探りで順応しようとした異文化や、ハンモックに揺られながら明日の旅程をなんとなくイメージしようとするも結局は投げ出してしまうような惰性や、そうしたありふれた日常が積み重なって形となる、あの「旅」にはもう二度と戻れないのではないだろうか。

「もう十分旅してきたから、今後は身を落ち着けよう。またいつか旅したくなったら旅すれば良い。」と思おうが、その「いつか」の旅はきっと、それまでの旅とは根本的に違うものとなるのではないだろうか。

自分の場合はどうなのだろうか…
考えてはみたものの、「旅を卒業する」ことがどうしても、いまいちパッとしない。

なぜなら、旅することが人生そのものだからだ。

ここでの「旅」とは、観光地を順番にスタンプラリーよろしくまわることや、多くの国の入国スタンプを集めて充足感にひたることや、インスタ映えするような風景を求めて身を削ることや、「旅を仕事に!」と偉そうにのたまって綺麗な部分だけを誇張して発信することや、そういった類のものでは、もちろんない。

居心地の良い宿やアパートを見つけたらのんびり滞在し、その土地の美味しいものを食し、でも食べたいものは自分で作り、好きなだけ酒と煙草をたしなみ、気が向いたら移動し、行く先々で人々と出会っては別れ、新しいものに出会って興味の対象を広げていく…

少なくとも自分にとって、旅とは生活そのもので、今こうして呼吸している日常のとりとめのない瞬間だって旅なのだ。

だから、旅することに卒業などない。生活を卒業することなどできないように。

今も、明日も、三ヶ月後も、一年後も、どんな形であれ旅をしているのだろう。

そしていつか、この二年間という月日を振り返るときに、心から思えているに違いない。
「あのとき卒業なんかしなくて良かった」と。


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